婚約破棄を受け入れたのはわざとです。
「クリスティン・エイミス! お前との婚約を破棄する!」
一年の付き合いだった婚約者に私はそう告げられた。
夜会の会場の真ん中での騒ぎに、周囲の視線が集まる。
彼との関係はあまり上手くはいっていなかった自覚がある。
だが、だからといって契約上はまだ婚約が続いているにも拘らず、別の異性と堂々と腕を組む者がいるだろうか。
彼はその後、全く身に覚えのない私の悪事とやらを列挙し始めたが、私はそれら全てを聞き流した。
彼の話の真偽がどうであれ、今目の前で不義を働いているのは向こうの方なのだ。
明日以降、悪評が広まるのは私ではなく彼と、その隣にいる浮気相手だろう。
幸い、私は侯爵家の三女。
両親は私を甘やかしてくれている事もあり、結婚は急ぐこともないと告げられている。
このような相手と婚姻するくらいならばまだ独り身でいた方が良いというものだろう。
「承りました」
よって私は自身の冤罪を晴らそうと躍起になったり、婚約者に縋りつこうとする事もなく、あっさりと承諾した。
それから淑女教育によって培われた丁寧なカーテシーを披露し、その場を後にする。
後日、婚約者は両親から大目玉を食らったうえ、社交界では笑い者になり……下級貴族であった浮気相手は最早社交界での居場所すら失ったという。
***
ある日の朝。着替えを済ませた私はドレッサーの前で腰を下ろす。
「お嬢様。本日はどのように?」
そう問いながら丁寧に私の髪を掬い上げるのは私の従者、ジョナスだ。
「私に似合いそうなものにして頂戴」
「お嬢様に似合わない髪型などないでしょうに」
品の良い笑いを零しながら、ジョナスが私の髪を結っていく。
彼の美しい所作を私は鏡越しに見つめていた。
「……よろしかったのですか」
「何が?」
「婚約を破棄されたのでしょう」
「ああ」
広い自室に私たちの声だけが響く。
「その後のことは聞いたでしょう? あれが正解だったのよ。それともジョナスは、我が家を舐めているような男と私が結婚する事でも望んでいたの?」
「滅相もございません」
「でしょう?」
ジョナスは私の二つ年上。
我が家と深い繋がりのある家の三男である彼が我が家に仕える事になり、私の世話をするようになったのももう五年は前の事だ。
面識や交友という話で言えば、私達の付き合いの始まりはもっと以前――幼少期まで遡ることになる。
私にとって、家族と同じくらい気心の知れた人物だ。
「お父様もお母様も、次の婚約については後回しでいいって言ってくれたし、暫くはのんびりできそうだわ」
「左様ですか。……お嬢様、もう少しお待ちください」
大きく伸びをした私をジョナスが窘める。
その優しく耳障りの良い声が心地よくて、私はくすくすと笑った。
「安心した?」
「安心?」
「婚約がなくなって」
「まさか」
ドレッサー越しに見るジョナスはいつもの澄まし顔だ。
彼は手元に視線を向けたまま、仕上げに取り掛かる。
「婚姻というのは、高貴な女性にとっての幸せでしょう。その様な気持ちはありませんよ」
私が聞きたいのはそんな表向きの言葉ではないのだけれど、と私は心の中で呟く。
「私も、お父様とお母様がこの人と婚約して欲しいというのなら、貴族の女としてその義務を果たそうと思うの。……けれど自由を許されるのならば、私は別に急いて婚約をする必要はないと思っているわ」
「左様ですか」
「ねぇ……このまま、私に相手が見つからなかったらどうする?」
仕上げに取り掛かっていたジョナスが手を止める。
何かを考えるようにゆっくりとした瞬きを繰り返す彼の顔を鏡から眺めながら私は続けた。
「貴方が貰ってくれる?」
「そのような事は、軽率に言うものではありませんよ」
「私のこの言葉がその場限りの軽いものだと思う?」
私達は付き合いが長い。
だから私は彼の考えが分かるし……彼もまた、私の考えをよく理解している。
私が軽はずみな発言をしている訳ではないという事はわかっているはずだった。
暫くの沈黙が訪れる。
ジョナスは長い睫毛を静かに伏せた。
「愛しているわ、ジョナス」
私はゆっくりと振り返った。
整える途中だった髪が舞った。
「知っているでしょう?」
「ああ、もう」
私が大きく動いたのでそれを咎めるように口を開くが、彼はそのまま、諦めたように私の髪から手を下ろした。
困ったような微笑みが、私へ向けられている。
「勘弁してください、お嬢様」
「名前で呼んで。ここには誰もいないわ」
「……わかったよ、クリスティン」
白い肌に朱がうっすらと灯り、私は満足する。
彼は観念したように息をついてから私の手を取り――その甲にそっと口づけをした。
「許される限り、俺は君の傍に居続けると誓うよ」
「それから?」
「全く……本当に仕方のない人だ」
続きを促せば、ジョナスの顔がより赤くなる。
愛らしいその反応に私は声を上げて笑った。
「愛しているよ、クリスティン」
彼の優しい言葉が、私の胸を温もりで満たしていく。
「ええ、私もよ、ジョナス」
それから彼は最後の悪足掻きとでもいうように、「けれど婚約者探しを投げやりに行わない事」と釘を刺し、私はそれに口だけの返事をした。
けれど勿論、そんな言葉に従うつもりはない。
――彼が貰ってくれるその時まで、ちゃっかり逃げ続けてしまおう。
再び髪を結い始めたジョナスの優しい手に身を委ねながら、私は笑みを深めるのだった。
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