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春の終わりに、さよならを

作者: ひとひら

この物語では、登場人物に名前はありません。

それは、あなたが心の中に抱える“大切な誰か”を、そっと重ねてほしいからです。


春の終わりは、いつも少しだけ切ない。

咲き誇った桜が散り、色褪せた風が頬を撫でる――そんな季節の匂いや音が、胸の奥の記憶を揺らします。


ここに描かれるのは、思い出せないままでも、確かにあった時間のきらめき。

取り残された想いが、あなたの胸にふわりと落ちて、少しの切なさとやさしい温もりを残しますように。


桜の花びらが舞い散るように、消えてしまいそうな一瞬の記憶を、そっと抱きしめて――。


春の匂いがしていた。

どこか遠い記憶をなぞるような、やわらかく、ほのかに切ない匂い。


目を開けると、桜が咲いていた。

風に舞う花びらが光を受けてきらりと揺れている。

けれど、その存在感すら、僕の肌には届かなかった。温度も、重さも、どこか遠くのものだった。


――どうして、僕はここにいるんだろう。


僕は桜の木の下に立っていた。

そこに至るまでの道のりはすっかり消えていた。

名前も、年齢も、昨日の記憶も――

“僕”という輪郭だけが、世界から浮かび上がっていた。


思い出そうとしても、脳裏の霧は晴れない。

ただ胸の奥に、ひとつの音だけが残っていた。


「誰かを、待っていた気がする」


その感覚だけが、ほのかにあたたかかった。

指の先でかすかに記憶をたぐるように、何度も繰り返しては静かにこぼれ落ちる。




誰かの足音が聞こえる。

笑い声。鳥のさえずり。自転車のベル。

この場所は、確かに“生”に満ちている。


なのに、誰も僕に気づかない。

すれ違っても、声を出しても、顔を覗き込んでも、誰ひとり目を合わせてはくれない。


僕はここにいるのに。

ここに立っているのに。




再び彼女が現れるのは、いくつめかの午後だった。

日差しはやわらかく、空は透けるような薄藍色で、風の音すら眠ってしまったような静けさ。


僕は桜の木の下にいた。変わらず、ただ、そこにいた。

けれど昨日とは何かが違っていた。

胸の奥に、小さな灯がともっていた。彼女の声が、そこに微かに残っていたからだ。


そして、風が枝を揺らしたその瞬間、彼女がまた、そこにいた。

まるで夢の続きのようだった。


「……こんにちは」


彼女はそう言って桜の木の前で立ち止まった。

僕を見ている。他の誰でもなく、僕の瞳をまっすぐに見つめていた。


「思い出してないよね、まだ」


僕はただ頷くことしかできなかった。

それが悲しかったのか、申し訳なかったのか――自分でもわからなかった。

その瞬間、風が頬をなでた気がした。


「でも、大丈夫。ゆっくりでいいの」

「……あなたは、ちゃんと、ここにいるから」


彼女の声は、不思議だった。

どこか懐かしくて、少し切なくて、そして、あたたかかった。


彼女はベンチに腰を下ろし、何かを思い出すように空を見上げた。


「ここ、二人でよく来てたんだよ」

「……桜の時期になると、いつも。

 ほら、あそこに小さな屋台が出ててさ。いちご飴、好きだったよね?」


僕は黙って彼女の言葉を聞いていた。

何も思い出せないまま。

でも、その情景は、なぜか遠くの風景のように浮かび上がってくる。


「あなた、体弱かったから……いつもここに来るのも大変だったの」

「でも、“行きたい”って言ってた。

 “春は、僕の好きな匂いがする”って」


春は――僕の好きな匂い。


そう、誰かがそんなことを言っていた気がした。

それが、僕だったのかどうかはまだわからない。

でも胸の奥が、ほんの少しだけ、きゅっとなった。




「ねえ」

ふいに彼女は僕を見た。

その目の中に、小さく揺れる光があった。


「あなたはね、十九歳で死んだの」


言葉は、あまりにも静かだった。

でも、その静けさが、むしろ冷たく響いた。


「……やめて」

僕は思わずそう言った。反射的に顔をそむけた。

その言葉を否定するように、胸がざわついた。


「そんなの、嘘だ……」

「だって……僕は、ここにいる……」


声はかすれ、自分でも驚くほど震えていた。

でも彼女は責めることなく、ただ黙って見つめていた。

そのまなざしが、僕の動揺をやさしく包んでいた。


僕は、それ以上、否定も肯定もできなかった。

ただ、風が吹いた。

桜の枝が揺れた。

そして、空が少しだけ遠ざかった気がした。




「ほんとは、もうここにはいないはずだった」

「でも……どうしてか、あなたはここに残っていたの」

「きっと、それは――私が、あなたを忘れられなかったから」


その言葉に、僕は初めて息を呑んだ気がした。


僕がここにいる理由。

僕が消えない理由。


それは、彼女がまだ僕を見てくれているから――

彼女が、僕のことを忘れてくれなかったから。


名前も記憶も失って、何も持たないはずの僕に、

たったひとつだけ残されたもの。


それが、“彼女のまなざし”だった。




「また、明日も来るね」


彼女はそう言って立ち上がると、

ふわりとスカートの裾を揺らし、花びらの中に消えていった。


僕はそこから動けなかった。

春の風が、音もなく吹き抜けていった。


――十九歳で、僕は、死んだ。


その言葉だけが、耳の奥に残っていた。

けれど、まだ受け止めきれなかった。

心が、それを恐れていた。


だけど、少しずつ、少しずつ、

彼女の言葉が、僕の中の何かを解かしていく。


そのやさしさが、時に痛くなるほど、

静かに、深く、僕を包んでいた。


月が昇るころ、空は青のようで、白のようだった。

地面に積もった花びらが風に舞い、ひとひら、僕の肩に落ちた。


温度のないその感触に、僕は目を閉じる。


……思い出せなくても、

心がまだここにあるなら、

きっと僕は、まだ「僕」でいられる。


明日もまた、彼女は来てくれる。

その言葉だけが、今の僕のすべてだった。





記憶は、ある日ふいに、降り積もった花びらのように舞い戻ってくる。

風に乗って、音もなく、僕の中へそっと入り込んでくる。


それは、春の終わりの夕暮れだった。


病室の窓から見える空は、茜色に染まり、

遠くで誰かの笑い声がかすかに響いていた。


僕は、病院のベッドの上にいた。

もはやほとんど身動きもできないほど、身体は弱っていたけれど、

そのときの空の色だけは、今も鮮明に覚えている。


そして、彼女が、僕のそばにいた。




「……ねえ」


声にするのが、少しだけ怖かった。

けれど、どうしても伝えたくて、

僕はかすかに震える唇で言葉をこぼした。


「今年の花火……もう、見られないかもね」


その瞬間、病室の空気が、静かに滲んだ。

夕暮れの光がカーテン越しに揺れ、

どこか遠い場所のように世界がぼやけて見えた。


花火は、毎年のように見ていた。

ふたりで浴衣を着て、肩を寄せて、

夜空に咲く光を見上げては、笑いあった。


打ち上がるたび、胸の奥がじんとあたたかくなり、

「来年も、また」と何気なく交わすその言葉に、

どれほどの希望と祈りが宿っていたか、

あのときの僕は、まだ知らなかった。


でも――今年の空は、もう見られないかもしれない。


その事実が、胸の奥をそっと裂いた。


ただの花火なのに。

それなのに、どうしてこんなにも切なくて、

苦しくて、哀しいんだろう。


それはきっと、

もう一度だけ、彼女とその光を見たかったから。

もう一度、あの夏の匂いに包まれて、

僕は、“生きていた”と感じたかったから。




「……ごめん。変なこと言った」

そう笑ってみせた声は、あまりに弱くて、

自分でも驚くほど頼りなかった。


彼女は、黙って僕の手を取った。

指先が、やさしく、あたたかかった。

それだけで、世界が少しだけ色を取り戻す気がした。


「大丈夫。見ようね、今年も」


その声が、胸の奥に灯る。

光よりも、音よりも、

花火よりも美しい、彼女の声だった。


きっと、花火が見られなかったとしても、

僕は今、この瞬間を――

彼女の声とぬくもりを、ずっと憶えている。




それが、僕にとっての、最後の“夏”だった。


その日のことを思い出したのは、

桜の木の下で、彼女の話を聞いていたときだった。


「……あの年、花火大会に行けなかったの、覚えてる?」


彼女の声に、僕は目を閉じた。

そして、胸の奥から、ゆっくりと、その景色が浮かび上がってきた。


あの白い天井、静かなモニター音、

消毒液の匂い、開け放たれた窓から差し込む茜色の光。


僕の胸に、あの夜の匂いがよみがえる。

あの白い天井と、鈍く響くモニター音。

静まり返った病室の窓の外で、風が木々を揺らしていた。




「……あなたが、“行けないかも”って言ったとき、すごく怖かった」

「でも私、泣かなかったよ。あなたが“ごめん”って笑ったから」


その笑顔を、僕は覚えている気がした。

でも、そのあとに、何があったのか……思い出せなかった。




「ほんとはね、あの夏、花火、ちゃんと見てほしかったんだ」

「だって、春が終わったばかりだったのに……」


彼女はそれ以上、言葉を続けなかった。

風が、桜の葉をさらっていった。


――僕は、夏を迎えることなく、

あの春の終わりに、死んでしまったのだ。


そのことが、胸の奥にじわりと広がっていく。

季節を越えるはずだった時間が、そこで途切れていた。

彼女と過ごすはずだった夏が、存在しなかった。


それが、どうしようもなく、悲しかった。




「ごめんね、思い出させちゃって」


彼女が言った。

けれど、僕は首をふる。

ありがとう、と言いたかった。

でも、言葉にはならなかった。


その代わりに、桜の花びらが、ひとつ、彼女の髪に落ちた。




僕の記憶の欠片たちは、少しずつ戻ってきていた。

彼女と過ごした春。

小さな約束。

歩いた並木道。

あたたかな手。

彼女が流した涙。


それらが、胸の奥に少しずつ灯りを灯して、

僕を「僕」に戻していく。


もうすぐきっと、全部、思い出せる。

そして――

なぜ僕が、この桜の下に立ち続けていたのかも。




遠くで、鳥が羽ばたいた。


風が吹くたびに、桜はやさしく揺れて、

ひとひら、またひとひらと、空へとほどけていった。


「また、来るね」


彼女の声に、僕はかすかに笑った。

その笑顔を、彼女が見てくれたかどうかはわからないけれど。


だけど、たしかに。

ほんのすこしだけ、胸の痛みが、やわらいでいた。




春が満ちていた。

けれど、それは新しい季節の兆しではなく、

どこか閉じ込められたままの、終わらない春だった。


僕の中で、記憶の扉がゆっくりと開いていった。

それは痛みとやさしさを一緒に連れてくるもので、

懐かしさに胸を締めつけられながらも、目を背けることはできなかった。




――僕は、十九歳で死んだんだ。


ようやく、それを言葉にできたとき、

胸の奥で、長く凍っていた何かが、静かに解けていった。


病室の天井、霞んだ視界、弱まっていく声。

寄り添ってくれた彼女の手。

最後に交わした「さよなら」が、心のどこにもなかったこと。


……それが、僕をここに縛っていた。


桜の木の下に佇む彼女を見たとき、

すべての感情がいっせいに溢れそうになった。


名前を呼びたかった。

何度も、何度でも。

けれど、声にするのが怖かった。


彼女の記憶の中の僕が、

もう消えてしまっていたらどうしよう――

そんな幼い恐れが、まだ僕の中に残っていた。


でも彼女は、そっと微笑んだ。

その笑みだけで、すべてが赦された気がした。




「……思い出したの?」


彼女の問いかけに、僕は頷いた。

言葉が見つからなかった。

でも、それで彼女には十分だったらしい。


「よかった……」

「でも、ちょっと……さみしいね」

「だって、全部思い出したら、もう――」


その言葉の続きを、彼女は呑みこんだ。

沈黙が、ふたりの間をゆるやかに満たす。




僕は彼女に伝えたかったことを探していた。

どんな言葉なら、あのとき言えなかった「ありがとう」を届けられるのだろう。

どんな表現なら、「ごめんね」と「さようなら」の両方を包めるのだろう。


でも――結局、それは言葉ではなかった。


彼女の手に、そっと触れる。

温度も重さもない、幽霊の僕が、それでも懸命に彼女に触れようとした。

届かなくても、彼女は感じ取ってくれた。




「……あなたの手、冷たかったよね」

「でも、私は……あのぬくもりが好きだったの」


涙が、頬を伝った。

彼女のものか、僕のものか、もうわからなかった。


「怖かったの」

「あなたがいなくなるのが。

だから、“いないふり”をしてたのかもしれない。

あなたが死んだって、ちゃんと信じられなかった」


その声に、僕の胸の奥が震えた。

自分の死を認めるよりも、

残された人がその死と向き合うことのほうが、何倍も痛い。




「……僕も、君に“さよなら”が言えなかったんだ」


やっと出た声は、思っていたよりも、ずっと小さかった。


「生まれ変わっても、また君に会いたい」

「それだけが、最後に残った僕の願いだった」




彼女は、泣いていた。

だけどその涙は、どこか優しかった。

苦しみから解き放たれたような、少しだけ希望を孕んだ涙だった。


「また、会えるかな」

「ちゃんと、どこかで。次の春にでも」


「うん、きっと」

「君のこと、ちゃんと見つけるよ」


「私も、きっと気づく。たとえ姿が違っても、声が違っても」




ふたりで、同じ場所を見上げた。

桜の枝越しに覗く空が、春の光で透けていた。


「さようなら」

彼女が、そっと言った。

震える声で、でもそのまなざしはまっすぐだった。


「ありがとう」

僕も、言った。

本当に言いたかった、最後の言葉だった。


その瞬間、風がふわりと吹き抜けて、

枝先から舞い上がるように桜が空へほどけていった。




花びらに包まれながら、

僕の姿は、音もなく、世界から滲んでゆく。


もう、怖くなかった。

もう、ひとりじゃなかった。


すべてが、優しく終わっていった。




“さようなら”のあとに続く季節が、

どうか彼女に、あたたかい春を運んでくれますように。


僕はそう願って、ゆっくりと、目を閉じた。




冷たい風が、桜の花びらを絡め取り、ひらひらと空へ放つ。

彼女はいつもの場所――あの満開の桜の木の下に、ひとり立っていた。

頬をかすめる風の冷たさに、胸の奥がひりりと疼く。

まるで、過ぎ去った季節の記憶が、一度に押し寄せてくるようだった。


彼女は、指先をそっと握りしめて、ぽつりと呟く。


「またね……」


その声はわずかに震えていた。

けれど、その震えの奥には、深く澄んだ想いが宿っていた。

彼女の瞳には、過ぎ去った日々の輝きと、儚く切ない痛みが静かに共存していた。




もう、僕はいない。

けれど、彼女の胸に刻まれた僕の声と、

僕の温もりは、決して消えたりしない。


「忘れないで……僕のこと」


空へと消えていくその言葉は、風に溶けて消えるのではなく、

彼女の心の中で、静かに、やさしく生き続けている。




彼女は、そっと目を閉じた。

こみあげてくる涙をこらえながら、深く息を吐く。

そのひと呼吸の中に、数えきれない想いが込められていた。


失ったものへの切なさ。

もう一度触れたかった温もりへの愛惜。

そして、前へ進もうとする、小さな勇気。




桜吹雪が舞う中、彼女の唇がかすかに震え、

それでもやさしい笑みを浮かべた。


「ありがとう、さよなら」


その言葉は、彼女自身への祈りであり、

僕への最後の贈り物でもあった。




春の光はまだ柔らかく、

過ぎ去った季節を包み込みながら、

静かに、彼女の未来を照らし出している。


そして僕は、穏やかな風と共に、

永遠のさよならを告げた。




「また、きっと、会える」


僕の心の中で彼女に誓いながら、

僕は溶けるように、春の空へと消えていった。




彼女の姿が、春の光のなかでにじんでいく。

花びらが空に溶けていくように、僕の存在もこの世界から薄れていく。


それでも、不思議と怖くはなかった。

さよならの痛みさえ、どこかやさしく感じられた。




――ありがとう。

僕に春をくれた君へ。

あの短い時間が、どんなに儚くても。

それでも、僕は幸せだった。




本当はもっと生きたかった。

もっとたくさん笑って、触れて、君と並んで歩いていきたかった。

でも、きっともう十分だったんだ。


この想いだけが、本当だった。

この気持ちだけが、僕を人間にしてくれた。




だから、最後に願う。

君のこれからの季節が、どうか、あたたかくありますように。

僕を忘れてもいい。思い出さなくてもいい。


ただ、君が君らしく、春を歩けますように。




――また、いつか。

桜の咲く季節に、どこかで会えたら。


そのときはもう一度、

はじめまして、を君に言わせて。




僕はそっと、目を閉じた。

春の風が、やわらかく吹いた。


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