あなたの 水 買います 。
金魚みたいだ。
……ぽちゃん。水面にはねる水の音が、部屋中に反響する。
碧が呑み込んだ。
……冷たい。服がピタリとまとわりついて、重い。
水と踊る体。その特有の香りが胸に満ちる。
ここは……リビング……
十三畳ほどのそれは、さながら大きなアクアリウムのようだ。暗闇の中、美しくたたずむ、あの。
乱反射する碧が目を奪う。白壁を彩る碧。洞窟のような静けさ。
……ぽちゃん。毛先から水がつたい落ちる。揺れ動く水面が胸を撫ぜる。
家具が魚のように、たゆたう。人間大の魚は、足の間をするりと抜けていった。
……ピンポーン。ひどく不快な音が、あれは夢であったのだと告げる。
あの幻想的な風景、頭では理解しているが、胸の内はずしりと重い。夢特有のちぐはぐさを持ち合わせながらも、五感が本物だと言う。異様な空間であるのに、あたかも正解のような違和感の無さ。あの光景が、心を掴んで離さない。
ピンポーン……ピンポーン……思考を遮るように、再度、来訪を告げるチャイムが鳴る。うるさい。眉間のシワが深くなる。
来訪に応じるか否か、それは家主に権限がある。言葉を交わすかどうかも同様に。二度も思考を遮られたのだ、考えずとも答えは明白だった。相手が誰であろうと、正直どうでも良かった。
数秒の後、カコンという音をさせ、気配が去った。どうやら、何かを投函していったようだ。投函で済むものならば、端からそうすれば良いのでは?そう思うと、いっそう腹立たしい。
とても心地の良い夢だった。ここ半年、まともに眠れることなどなかったのに。
再び目の前を碧が過ぎる。……あれは、美しい孤独だった。やさしい寂しさだった。ぬくもりは、やさしくない。孤独よりもタチが悪い。触れたら最後、知る前には戻れないのだから。
あなたが与えたぬくもりは、結局、空白を型どった。もうわからない。疲れた……
もう一度、あの夢に触れたい。やさしい冷たさで包んでほしい。君の孤独は、僕のものでもあるんだよ、と……
体と心と思考。あの日から、全ては散らばったまま。いやに重い体と、その全てを引きずるように立ち上がる。
行かなきゃ。社会は私の心情など気にかけてはくれない、待ってはくれないのだ。
時間だけをかけた身支度を終わらせる。今日も、私の胃は食事を拒む。心も、おいしくないと言う。体も心も、これだけは意見が合うらしい。
重力に抗いながら、ゆっくりと玄関へと向かう。リビングからつづく細い廊下を歩き、玄関下、付属のポストをひらく。
例の投函物が顔をのぞかせた。B5サイズの白い紙。不要な連絡かどこぞやのチラシか。どのみち捨てることになるのだ、放っておいてほしい。鼻から大きく息を漏らす。ブツブツと心の内で文句を垂れながらそれを手に取り、一応の確認をする。
「……あなたの水……買います……?」
紙面の上方には、大きく縁取られた文字でそう、記してあった。
は?言っている意味が分からない。私、卸業者じゃないんだけど。え、なにこれ。新手の詐欺かなんか?
様々な思考を瞬時に駆け巡らせつつ、続きに目をやる。
「消したい記憶……手放したい想い……お持ちではございませんか?……料金はいただきません。もし、少しでも気になりましたら、下記番号まで、お気軽にお電話ください。電話番号:0120-✕✕✕-✕✕✕(24時間対応)」
鼓動が、体の外まで響き渡るようだ。足に力を入れ直す。
消したい記憶……手放したい想い……ある。正確には、消したくないし、手放したくもない。ただ、今の私には抱えきれない、そんな想いなら、ある。
私はあの日、喪失感とはこういうことを言うのだと、文脈ではなく、感情として理解した。
幸せ過ぎたのだから、それよりも大きな痛みを伴うことは、薄々勘づいていた。それに耐える度量を持ち合わせていないことも。
手放せばこうはならなかったのだろうが、それ以上に、その痛みを負ってでも、終わりまで共に生きたいと思ってしまった。
どんなに些細なことでも、あの人について考え、言葉にすると、涙がじわりと滲むほどに。私は、愛していた。
私は、あの人に愛を教えてもらった。幸せを与えてもらった。
終わりなんて、虫の知らせすらない。命の終わりは、必ずしも順当ではない。
あの人が教えてくれたぬくもりは、私をうんと、弱くしていた。神様が与えた生きる意味は、神様が身勝手に奪っていった。
気がついた時には、電話を掛けていた。もう騙されてもいっか……ここで終わりでも、いいんじゃないかな。
三回目のコールが終わる手前、音が切り替わる。
「お電話ありがとうございます。株式会社メモリーでございます。」
拍子抜けだ。受話器の向こう側からは、詐欺グループとは相反する、アナウンサーのように澄んだ女性の声がした。
「……っあ、あの、チラシを見てお電話させていただいたんですけど……その、消したい記憶とかなんとかって……あって……」
咄嗟に場を取り繕う。思考が置いてけぼりだ。
「買取希望のお客様ですね。そうしましたら、ご自宅までスタッフを派遣致します。ご希望の時間帯はございますでしょうか?」
「……あ、いえ、特には。」
「かしこまりました。善は急げです。早急にスタッフを向かわせますので、そのままでお待ちください。お電話ありがとうございました。プツッ……」
よく分からないままに、話が終わってしまった。善は急げとか、そのままでお待ちくださいとか言ってたけど。……そのままって……
ピンポーン。心臓が掴まれたかと思った。少し間があいて、呼吸を忘れていたことに気がつく。
「株式会社メモリーでございます。先程はお電話ありがとうございました。ご在宅ですよね。お待たせしてしまい申し訳ございません。そのまま扉を開けていただけますでしょうか?」
いる、そこに。扉を挟んだ向こう側に、いる。電話口の主とは違い、テノール調の声。スラッと背の高い、品のある男を彷彿とさせる、そんな声だ。
私はまだ、夢を見ているのだろうか。妙にリアルな夢を見て、起きて、身支度をして……それで……
「お客様。お伺いさせていただいた場合、必ずしも買い取らなければ帰らない。そんなことはございません。お客様の胸のつかえ、その理由を私にお話いただけないでしょうか?」
テノール調の男は、一層心地の良い穏やかな声で語りかけてきた。ドア越しに優しく抱擁されるような、木漏れ日のような声。
……この人に、聞いてもらいたい。
「すみません、今開けます!」
手にしていたスマホとチラシを玄関脇の棚の上に放り、勢いよくドアチェーンを外し、サムターンを回す。風を切るように開け放ったドアの先には、スーツ姿の男が立っていた。
光沢感のある黒いシックなスーツを身に纏い、姿勢良くたたずむ。先ほど耳にした声がとても良く似合う、そんな出で立ちだった。品のある端正な顔立ちを、色の白さが際立たせる。
麗人って、こういう人を指すんだろうな。
「お客様、大丈夫ですか?」
見つめ過ぎてしまった。なんて失礼なことを。すみませんと謝りつつ、家の中へと案内する。人を招き入れるなど、いつぶりだろうか。久しぶりに他者の目を感じながら見た室内は、心の内を映した鏡のようだった。
「すみません!お招きしておいて、ほんと汚い!あの、どこかカフェにでも……」
慌てて言葉にしつつ振り向くと、麗人は月のように儚げな横顔でつぶやいた。
「ずっと、頑張ってこられたんですね。」
トゲのない皮肉でもない、ただ、慈愛に満ちた響きだった。
その言葉に共鳴するように、胸の内でガラガラと何かが決壊した。膝から崩れ落ち、息継ぐ間もなく子供のような嗚咽を漏らす。流れを追うよう後から後から、想いが溢れて止まらない。
麗人は長い脚を畳み、私の目の前に片膝をつく。胸ポケットから取り出したチーフを、私の方へと差し出す。
シミひとつない、白いシルクのチーフ。
うながされるまま、目元をチーフで拭う。嘘のようにピタリと心が落ち着いた。
「そのチーフは、お客様の記憶です。正確には、記憶の受け皿、といったところでしょうか。」
「……記憶の……受け皿……?」
突拍子もない言葉の連続に、思考が止まる。ただ、脳を介さずとも、体は理解を示している。嘘のようにピタリと落ち着いた心が、その何かを証明している。
麗人は立ち上がりながら、ぬくもりのこもった声で話しはじめる。
「はい、記憶の受け皿です。ご存知の通り人の体というのは、その60パーセントを水分が占めています。」
「……そう……ですね」
話の腰を折らないよう、無言でローテーブルの前へと案内しクッションを差し出す。麗人はかるい会釈をし、クッションの上へと正座する。向かい合うかたちで座ると、麗人の座高の低さに驚かされる。
……ほぼ脚じゃん。
「少し落ち着かれたようですね。」
ふわりと微笑む姿に、不覚にもときめく。取り繕うよう慌てて居住まいを正す。
「話を戻しますが、水というものにはこういった話もありまして。」
少しの間を置いた後、麗人は射るような眼差しで、
「水は記憶する。」
そう言葉にした。
……ぽちゃん。碧が蘇る。心地よく、洞窟のように反響する。
「聞いたことあります。彼がよく見ていたYouTuberさんが、そんな話をしていました。彼、オカルト好きだったので。」
「そうなんですね。それならば話が早い。お聞きになったように、水は記憶します。弊社、株式会社メモリーでは、お客様の水分から抽出した『記憶』の買取、販売を行っております。」
「……記憶をチュウシュツ?買取、販売???」
結び付かない言葉が散乱し、思わず首をかしげる。 その様子を見た麗人は表情を和らげ、言葉を続ける。
「はい。非現実的な話に思われますでしょうが、事実、可能なんです。実際、先ほどのチーフでお客様も効果を感じられたでしょう。体というのは、あくまで記憶の受け皿。チーフなんです。」
「……正直、理解はできていません。というか、飲み込めていない、というか。ただ、たしかに感覚としては分かりました。……その、買取っていうのは……」
「はい。では、買取についてご説明させていただきます。まず、記憶の採取方法についてです。先ほどされた、チーフで涙を拭うという行為は、採取方法の一つになります。ですので、採取自体はお済みです。次に、買取……」
「あの!話の腰を折ります、すみません。」
麗人は嫌な顔ひとつせず、穏やかな眼差しで先をうながす。
「採取と言われましたが、その、私はまだ何の記憶を……売りたい?……ともお話していないと思うのですが……それに、記憶を的確に採取?するなんて……」
麗人は私の言葉に共感するよう、ひとつ頷いてから話しはじめた。
「その記憶ですが、お亡くなりになられたご婚約者様との記憶、ですよね?長いこと生業としてきましたので、お客様を見れば一目で分かるようになりました。」
それもそうか。彼との生活を、私は今でも手放せずにいる。私や部屋の状況から、おおよそ見当はつく。というものか。
「また、的確に採取するというのも可能です。お手元のチーフですが、特殊な使用になっておりまして。チーフを両手で挟み込むかたちで手を合わせ、どんな記憶をどこまでの範囲、手放したいのか。それを鮮明に思い浮かべることにより、抽出ができるようになっております。」
麗人は一切の姿勢を崩さず、美しいたたずまいのままそう言葉にした。
嘘みたいな嘘じゃない話。こんなことって、本当にあるんだな……彼に話したら……きっと、驚きながらガラス玉みたいな目で、
「うんうん!それでそれで?!」
って。少年みたいに、無垢で純真で……
先程まで引いていた波が、再び押し寄せる。
「少年のように、純真無垢。まさにそんな言葉がお似合いの、素敵な方ですね。」
胸に浮かんだ言葉を言い当てられ、すんでのところで波が止まる。
声の方へと目線を向けると、麗人は月のような瞳をしていた。
「いえ、こちらのお写真の方、ご婚約者様ですよね?」
麗人の目線の先には、埃をかぶった写真立て。旅行先で海をバックに撮った写真だ。
しっかりと見たのは、いつぶりだろう。ずっと遠ざけていた、愛おしい記憶。
写真に写る彼が、向日葵のような笑顔を向ける。ああ、見たくなかった。埃を纏うほどの期間を経ても、この想いに終わりはない。
そばにいた時よりも眩しすぎる笑顔が、底のない愛が、私を内側から壊す。
「買取、お願いします。もう、この感情と一緒に生きていくなんて無理です。耐えられません。このままだと、いつか飲み込まれてしまう……」
嗚咽混じりに吐き出した言葉が、チーフに滲む。酸素が失われていく。
「承知いたしました。では、お取引に入らせていただきますが、その前に、注意事項をお伝え致します。」
憂うような瞳の色は、透き通った鮮やかな菫色だった。
「買取金額に関しましては、お客様の言い値でお支払い致しますが、お取引後の記憶の返品は致しかねますので、ご了承ください。」
「返してなんて言わないので、安心してください。言い値って言われましたけど……私の記憶、いくらだと思います?」
この底のない哀しみに、なんの価値があると言うのか。
「三億。といったところでしょうか。」
「三億?!……なに、馬鹿にしてんの?そんな嘘、真に受けるとでも思った?……やっぱり……詐欺師かなんかなんでしょ……?人の気持ちを!何だと思ってんのよっ!!!」
ローテーブルの上、置き去りにされたコップを振り上げたその腕を、麗人は瞬く間もなく掴まえていた。
その手は、凍えるほど冷たかった。
「嘘などではございません。お客様の記憶には、それ程の価値があると判断致したまでです。」
麗人は表情一つ崩さず話し終えると、やさしく手を離した。
「まるで悪魔との取引みたい。」
突拍子もない出来事ばかりで、脳が処理しきれずにいる。
「悪魔との取引。実に面白い例えですね。」
麗人は口元に微笑をたたえる。
「近からずも遠からず……といったところでしょうか。ですがご安心ください。お取引後、悪魔のように付きまとうようなことはございませんし、命も奪いません。代償も頂かなければ、むしろ言い値でお支払い致します。」
さあ、どうする?そう尋ねるような目線は、禁忌の果実のように美しかった。
「わかりました。信じます。一千万でお願いします。」
私の哀しみを引き受けてくれるのだ、このくらいが妥当だろう。
「承知いたしました。最後の確認です。返品は致しかねますが、宜しいですね?」
これで、この悲しみの渦から抜け出せるのだ。迷いはない。
「はい。大丈夫です。」
「では、記憶の抽出に入ります。チーフを両手で挟み込むかたちで手を合わせ、どんな記憶をどこまでの範囲、手放したいのか。鮮明に思い浮かべてください。」
その響きは、海のように深い。
胸元で言われたように手を合わせ、目を閉じる。
この哀しみを、彼を失った哀しみを、全て持っていってください。そう、心で告げる。
途端に、目の前が暗闇に覆われ光を失う。……怖く……ない。暖かくて、心地良い。……心臓の音?海の奥底で鼓動するような音。地球の心臓……なんだろう、懐かしい。
ふわふわと不思議な感覚が全身を覆う。……碧だ。夢で見た、碧と同じ光。
……ぽちゃん。水面にはねる水の音が、反響する。洞窟のような静けさ。……冷たい。服がピタリと纏わりついて、重い。……ここは……
「目を開けてください。」
やわらかく反響する、テノール調の声。
声に従い目を開ける。目の前には、夢で見た碧が広がっていた。
「ここは、お客様の記憶です。」
「私の……記憶?」
「はい、お客様の記憶です。記憶を保管する部屋とも言えます。」
……記憶。今朝の夢は、私の記憶。あの違和感の無さの正体。そういうことだったのか。
「なんか、想像と違いますね。記憶っていったら、本がズラって並んでたり、ディスクがこう一面に貼ってあるとか、わからないですけど……」
「お客様によって様々ですよ。先ほど挙げられたように、本の方もいれば、ディスクの方もいらっしゃいます。本当に、人それぞれです。人の数だけ、記憶の数だけ、かたちがあります。」
麗人の整った顔に、碧が反射する。表情が読み取れない。
「では、記憶に別れを告げてください。」
反響した声は、どこか冷たく感じた。
「今まで、ありがとう。ごめんなさい。」
口元からこぼれ落ちた言葉は、おもたく重なり合い、沈んでいく。
……ぽちゃん。
その言葉を皮切りに、美しかった碧は輝きを失い、次第に色をも失っていく。
なにが起こってるの……?言い知れぬ不安が膨らみ始める。
寒い……口元からカタカタと音がする。知らぬ間に体が小刻みに震えていたことに気がつく。水温が、今までと比にならないほど低い……
「……や……やめ……て」
言葉が口をつく。夢で感じた、寄り添うような寂しさは、ただの孤独へと姿を変えた。言い知れぬ不安は、胸の内で破裂した。
「……っぅをねがっ……」
寒さで口が動かない。今まで体感したことの無い、この世の終わりのような寒さ。
記憶に、底知れぬ闇が訪れる。ぬくもりは、もういない。その時、暗く色褪せた水の中を、白く淡い光を纏った何かが横切る。それは麗人の方へゆったりと泳いでいく。光を纏った何かが輪郭を帯びていく。
美しい均整のとれた背中には、一本、金色の筋が輝く。あれは……錦鯉……?夢で見た、人間大の魚……
その背中が少しずつ遠くなっていく。私の世界から消えようとしている。
お願い……行かないで、置いていかないで……怖いよ、独りは寂しいよ!!!
背中を追うことも想いを口にすることも、できない。寒さで自由が効かない。
「寂しい……ですよね。」
やわらかな光に照らされ麗人がつぶやく。錦鯉は、麗人の足元を優雅に泳いでいる。
「あの碧の輝きも、ここにいる錦鯉も、全てはご婚約者様との記憶です。記憶の抽出中に感じた孤独もまた、その方が離れていく感覚からでしょう。」
離れていく……って……私が手放したのは、哀しみだけのはず……そう声にしたいのに、体が応えてはくれない。
「大丈夫ですよ。しっかりと聞こえています。手放したのは哀しみだけだと、そう、おっしゃりたいのですよね?」
麗人の声は、私の体と同じ温度になっていた。
「愛は哀をともないます。ふたつの『あい』は、表裏一体です。哀しみを手放すということは、愛を手放すのと同義。最初から、分かっていたことでしょう。」
たしかに分かっていた。自分が抱えきれなくなることも。……でも、
「愛は胸に、哀しみだけを手放したいなんて、随分と御都合主義な話ですね。ご婚約者様との記憶には、哀しみ以上に愛が、刻まれていました。残念なお方だ。お客様の中の彼を手放したのは、他ならない貴方様ご自身でございます。」
ちがう、彼との記憶を、彼を手放したいなんて思ったことはない!そんなこと望んでない!!!
声にできない感情が胸の内に溢れ、息ができない。
「ご安心ください。その孤独にもじき慣れます。ご説明させていただきましたように、返品は致しかねますので悪しからず。では、またのご利用、心よりお待ちしております。」
悪魔のような微笑みを浮かべ、執事のごときお辞儀をした麗人は、彼とともに泡のように消えていった。
……暗い…………全身が、ひどく重たい……
朦朧とした意識の中、鉛のような瞼を開ける。ぼんやりとひらけた視界には、暗闇。
……これは、テーブル……?
ゆっくりと繋がっていく神経が、机上に顔を伏せているのだと気がつかせる。
「なんでここに……?」
私の記憶が正しければ、いつも通りの身支度をし、家を出ようと玄関にいた……はず……。思考を巡らせながら重たい頭を持ち上げる。
先程よりひらけた視界には、冷たく味気のない世界。アラームを合図にはじまる、虚無的な世界。
なんで生きているんだろう。弱々しい息が漏れる。
ふと、視界の端に視線を移す。
埃を纏い、中央部のみ指で拭われたようなそれには、見覚えのない人物と、その横で笑う私がいた。
「……なにこの写真……」
全く記憶にない、身に覚えのない写真。時の止まった二人は、はたから見ても心の底から幸せそうだ。
ここに飾ってあるということは、とても大切にしていた写真なのだろうが……
とても大切な何かを、忘れているような気がする。
……ヴヴッ。振動するスマホの脇には、B5サイズの水たまり。
入金を伝える通知が光る。