第1話 The All Online
シャワーは浴びた。軽く腹ごしらえもした。歯磨きも済ませた。準備完了、というわけだ。
部屋の電気を消して、仰向けでベッドに寝転ぶ。
五月と言えども、まだ朝晩は冷えることの方が多い。念のため、掛け布団は体に掛けておくことにした。体の不調を感知すると、安全のため強制的にログアウトされてしまう仕様だ。興が醒めるにもほどがあるので、それだけは何としても回避しておきたい。
枕の横でスタンバイさせておいた、ヘルメット型のデバイスを頭に装着する。かなり大きめのフルフェイス型ヘルメット。かぶる時はスポッと楽に入る。ただし、その後の自動サイズ調整がクセモノだった。
「……っつ!」
痛みを感じない程度に頭を締め付けられる。水泳の帽子を被った感じと言えばわかってもらえるだろうか。あのパツパツな感じ。なんでも、デバイスを頭に密着させることで脳に干渉しやすいようにするためらしい。少々頭が突っ張るような気もするが、慣れてしまえば気にならなくなるので問題はない。
カチッ。
電源ボタンを押した。ヘルメットを被ったことで真っ暗になっていた視界。その奥で光が灯った。
浮遊感。横たえていたはずの自分の体が重力を忘れて宙に浮く。ふわふわ、揺ら揺らと上の方へ昇っていくこの感覚は何回経験しても慣れることがない。いや、慣れない方が正解かもしれない。自分は今から現実とは異なる非日常的な世界へと赴くのだから、その切り替えに……区切りとなるわけで…………。
ぷつん―――。
まるで糸が切れるように。強制的に意識が断ち切られた。眠りに落ちるというよりは手術する時の麻酔のような感覚に似ている。自分の意志でどうにもならないのはどちらも共通だけど。
ただ、それも一瞬のこと。すぐさま脳は再起動をかける。頭に被っているヘルメット型デバイスによって再起動させられる。そして再び目が覚めた時―――。
「…………!」
被っていたはずのデバイスは頭になく、視界がパッと開けた。自分の住んでいるアパートの白い壁紙が貼られた天井ではない。剥き出しの木材が等間隔で並んでいる。そんな天井が広がっていた。
そして。
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宙に浮かぶメッセージが、仰向けで寝ている自分の目の前に表示されたのである。
フルダイブ型VRMMOゲーム、「The All Online」。
日本語で発音すると、「ジ・オール・オンライン」という。Allの頭文字が母音になっているので、Theはザ、ではなくジと読むらしい。口に出して言う時はそういう風に言うのだが、文字にする時は「TAO」と略して書くことが多い。
VRとはVirtual Realityの略であり、仮想現実という意味である。ゴーグル型のデバイスを頭に装着すれば、そこはもう日常を離れた異世界。見聞きするもの全てが電脳空間の産物である。
特に視覚的な面で非日常感を味わうことのできるコンテンツである。三百六十度の視界を仮想現実にすれば、どこへ行くのも思いのまま。例えば遊園地のVRコンテンツならば、実際にジェットコースターに乗っているような体験ができるし、お化け屋敷だって本物さながらの恐怖感が味わえる。世界各地の観光地に出かけることだってできてしまうのだ。
また、遊ぶ用途だけに使われているものではない。産業用VR、医療用VRなどはきちんと生活に役立っている技術である。人間の次なる一歩はVRの中に存在する。そんな意見も少なくない。
ここまでが普通のVRの話。
それに対してTAOに用いられているフルダイブ型VRというのはどういったものか。
これは最近になって、ようやく確立されてきた形態のVRコンテンツである。今までのVRというのは、例えば人間の五感で言うと、主に視覚、聴覚の二つをカバーしていた。それに対してフルダイブ型のVRというのは五感の全てを網羅している。
もう一度言おうか。視覚、聴覚に加え、嗅覚、触覚、味覚まで全てだ。
仮想現実内で生えている花に近付き、鼻から息を吸いこめば甘く馨しい匂いを感じ取れる。石ころを触ればごつごつした感触が。食べ物を口に入れれば、実際にその食べ物の味がする。現実となんら変わりなく、いやもしかしたらそれ以上の感覚を非現実世界で体験できるのだ。
ただ、それには従来のVRのようにゴーグルとイヤフォンを着けるだけでは不可能である。脳に直接電気信号を送り込む必要があるため、頭をすっぽりと覆うフルフェイス・ヘルメット型のデバイスが用いられている。
ちなみに、現在フルダイブ型VRの技術が使われているソフトウェア、及びゲームはTAO一つだけだ。最先端の技術であるため生半可な企業では、開発はおろか運用すら難しいらしい。TAOのバックには国内でも屈指の大企業がスポンサーとして付いているため、リリースまでこぎつけることができたと言われている。
ちなみにこのヘルメット型デバイス。お値段なんと、約八万円である。TAOのソフト代は約二万円。合わせるとどうしても十万円の大台に乗ってしまうのだが……俺はこれでも安いと思っている。
普通のゲーム機としては確かに高いが、何せ最新技術が使われているのだ。非日常の世界に没入できることを考えれば、けして高くはない。むしろこの値段で買えるのが不思議なくらいだ。
高額だが買えなくもない値段設定。フルダイブ型VRMMOゲームという初の試み。リリース前から大注目されていたTAOは、販売開始してから順調にログイン人数を増やしていた。
新時代のフルダイブ型VRデバイス!
脳で感じる非日常体験!
眼鏡も補聴器も必要ナシでお楽しみいただけます!
……というのがこのデバイスの売り文句らしいです。




