65 召喚の胎動
その瞬間は、静寂の中に忍び寄るように訪れた。
神殿の床面に刻まれていた文様――装飾に見えたそれらが、突如として淡く赤く光を帯びはじめたのだ。
「これは……魔法陣の起動反応……? 私が近づいたせいで反応したの?」
岩丘の上からそれを見下ろしていたリアーネの双眸が、鋭く細められる。
ズゥゥゥン……ッ……。
重く、湿った風が吹き始める。
空気の流れが変わった。風そのものが神殿の中心へと吸い寄せられるような、地脈の“呼吸”に似た感触。
「来たわね……」
リアーネは立ち上がった。
身の丈二十二メートル、踏みしめるたびに草が吹き飛び、岩が震える巨体。
だが、彼女が目を向ける神殿は――その巨体すら受け入れ得る構造を持っていた。
柱の太さ、天蓋の広さ、階段の踏面。そのすべてが、人間の尺度をはるかに超えている。
「やっぱり……これは、元から“私でも入れる”ように造られている」
神殿の設計に、彼女は明確な意志を感じ取っていた。
そんな中、神殿の床に刻まれた無数の魔法陣が、一つ、また一つと赤熱し始める。
それぞれが紅蓮のような光を放ち、燃え上がるように輝きを増していく。
――シュウゥゥウッ……!
重低音のような音と共に、大地が震えた。
次の瞬間、神殿の床面が微かに波打ち、裂け、黒煙を吐き出しながら“何か”が這い出てきた。
「……ゴブリン。召喚されたのね」
だが、それは単なる数体ではない。
床の隙間から、まるで溢れるように――止まることを知らぬ呼吸のように、黒い影が無数に吐き出されてくる。
「数が違う……これは、戦術召喚じゃない」
リアーネの瞳に光が宿る。
「これは……戦争を起こすための召喚」
神殿の床には、召喚魔法陣が螺旋状に広がり、そのすべてが、まるで祭壇のように中央へ魔力を集中させていた。
彼女は一歩、神殿へ向けて踏み出す。
ズゥゥンッ!!!
その足が石畳を踏み砕く音が、谷全体に響いた。
だが、神殿は崩れない。
巨体を受け入れるように作られた階段が、彼女の重みを受け止める。
「構造が……強化されている。魔力で補強された石材? なるほど、ここまでやってたのね」
彼女は堂々と階段を上がり、天蓋をくぐり、中央ホールへと踏み込む。
「魔法陣……私の目に見える範囲だけで十数箇所。もっとある……これは、下手すると百を超えるわね」
床の随所にある発光する円環、その中心部にむけて、無数の魔力の糸が伸びている。
「まとめて踏み潰す!!」
――ゴオォォンッ!!!
彼女のかかとが一つの魔法陣を直撃。
石床が粉砕され、閃光が迸る。
その瞬間、陣から伸びていた魔力の糸がぷつりと断ち切られ、天井の光が一瞬揺らいだ。
「召喚の流れが乱れた……効果あり。なら、次!! ……っ! ゴブリンが、想像以上に多い!! 邪魔よ!」
ズシィィン! ズシィィン! ズシィィン!
踏み潰すたびに響く地鳴り。
三歩で神殿を横断しながら、リアーネは魔法陣を一つずつ破壊していく。
だが――
「っ……これは、拘束魔法!? 魔法攻撃まで!? ……ゴブリンシャーマン……? 厄介ね」
床下の陣から放たれた呪縛の鎖が、彼女の足首を掴もうと浮かび上がる。
だが、彼女は足を振り抜き、鎖を粉砕。
「召喚は……まだ止まらない。これ、連動式ね。ひとつが潰れても、他の陣が残っていれば稼働が続く」
リアーネは一度距離を取って中央を見渡し、構造の全体を確認する。
「中枢……この召喚陣群は、地下と連動してる。地上だけ潰しても、根が残ってる限り止まらないわ」
彼女は通信機を開く。
『こちら地上。神殿より継続的な召喚を確認。魔法陣は複数存在。物理破壊により一部停止可能だが、地下中枢より継続供給の可能性あり』
『こちらで可能な限り抑える。地下の根を断って。急いで』
通信を終え、リアーネはもう一度、拳を強く握った。




