62 侵入前夜
「……静かね」
リアーネは草原の縁に立ち、遠くに広がる漆黒の地帯を見下ろしていた。
空は雲に覆われ、風は止み、鳥の影もない。――音すら死んだような沈黙。
目の前に広がるのは、《黒壌地帯》。
地図の記録も失われ、誰も戻ってこなかった未知の領域。
街を発って三日。リアーネの足なら半日で届く距離を、彼女はじっくりと踏み締めながら進んできた。
踏破ではなく、偵察――それが、今の彼女に課された任務だった。
「……呼吸してる。地面が」
足元の土が、かすかに上下していた。風もないのに、草が揺れる。
まるで、大地そのものが、生き物のように――
【異変:足下の陥没】
ズゥウウン……ッ!
不意に、右足が沈んだ。
「……ッ!」
次の瞬間、グワシャァアアン!!と爆音が谷全体にこだました。
地面が裂け、岩盤が崩れ、乾いた土砂が彼女の脛まで飲み込もうとする。
リアーネは即座に膝を引き上げ、崩れ落ちる土から足を引き抜く。
砕けた地表の下には、空洞――無数の木製の梁と構造物。
そこに、潰れた小屋、ひしゃげた寝床、干からびた骸骨。
ゴブリンの地下巣だった。
「……っ、まさか」
彼女が軽く足を踏み直すと、そこからさらに連鎖的に崩落が走った。
奥へ、奥へ、地下へ――
まるで蜘蛛の巣のように、地中に張り巡らされたネットワークが露わになる。
「この土地全体が……通路になってる」
だが、彼女の質量には耐えられない。
どこもかしこも、踏み込むたびに砕け、沈み、潰えていく。
「……強行突破が、最適解かもしれないわね」
地表をなぞるのではなく、巨人として、圧して進む――
それがリアーネに与えられた方法だった。
【神殿の出現】
夕暮れ。谷の奥に、その影は現れた。
黒曜石のように黒く、異様な光沢を放つ巨大な神殿。
柱は30人が腕を回しても足りぬ太さ、扉はリアーネの肩とほぼ同じ高さ。
まるで、彼女のために造られたかのような規模だった。
「……私でも、入れる」
声に出した瞬間、鳥肌が立った。
この構造物は、時間を超えて彼女を待っていた――そんな錯覚すら覚えた。
だが、その背後にある小さな裂け目。
人間ならかろうじて通れそうなその穴から、ぞっとするような冷気が漏れていた。
「……これ、呼吸してるわね」
裂け目の内側は、ほんのかすかに鼓動していた。
風が逆流し、魔力の“息”が、大地の下から噴き出している。
地下が、ただの構造ではなく、“臓器”のような存在であるかのように――
【通信:報告と覚悟】
夜。簡易の野営地。焚き火も灯さず、星もない空の下で、リアーネは通信機を手に取る。
『こちらリアーネ。前線までの通路、確保済み。馬車通行可能。崩落地点は踏破・整地済み。前哨地の設営も明日には可能』
『敵との接触は無し。ただし地下に複数の巣穴あり。いくつか崩壊させ済み。地上構造物として、黒曜石状の神殿を確認。私の体格で内部進入可能』
リアーネは一度、言葉を切り、見下ろした地面に目を落とす。
『……ただ、この地は“生きている”わ。踏むたびに、反応している。おそらく――目覚めかけている』
音声を切る。
闇の中、彼女はただひとり、谷の中央に立っていた。
風はない。虫も鳴かない。だが――地面の奥から、聞こえる。
コッ……コッ……。
誰かが何かを叩いているような音。遠く、深く、重く。
「……心臓の音?」
リアーネの顔が引き締まる。
「いいわ、全部見てきてあげる。
地下に巣くうものも、神殿の奥に待つものも、私が先に――叩く」
身をひるがえすように、大地を震わせ、彼女は谷を進んだ。
その足音が、眠れる何かをさらに刺激するとも知らず――




