6 初陣とその巨影
朝の光が、街の屋根の隙間から差し込んでいた。通りにはパン屋の煙が漂い、まだ人通りの少ない時間帯だった。
本来なら、カイが迎えに来るはずの朝だった。だが、約束の時刻を過ぎても姿を見せない。
「……遅いわね。寝坊? 仕方ない、行くとしましょうか」
リアーネは軽く溜息をつき、街の外に広がる景色を見下ろすと、ゆっくりと歩き出した。
そんな静けさの中で――ある宿屋の前に、巨大な影が現れた。
「おはよう、カイ。起きてる?」
その声は優しく抑えられていたが、地面に近い窓ガラスがかすかに震えた。
宿屋の中では、使用人たちが固まっていた。 食堂の奥でスプーンを落とす音。カウンターにいた女将が思わず背筋を伸ばす。
「な、なんだい、あの影……! 巨人かい……?!」
誰もがそう思うのも無理はない。建物の2階を超える視線の高さ、扉の外には、街の門の足元ほどの高さにまで達する、分厚いミドルブーツが2足、じっと立ち尽くしている。
リアーネは、軽く背を丸めて宿の玄関の庇を避けつつ、指をそっと窓に添えた。
「起きてるなら出てきて。……ここで叫ばれたら困るから。あまり怖がらせたくないのよ」
その懸念は、まさに現実になりかけていた。宿屋の中では、従業員たちがじりじりと奥に下がっていたのだ。まるで魔物が外にいるかのように。
カイが宿の扉を開けて外に出ると、まずリアーネのブーツが目に入った。 その足首だけで、彼の胸に届くほどの高さがあった。顔を上げると、彼女の美しい顔が遠くに浮かぶように見えた。
「起きれなくてごめん、迎えに来てくれたのか」 「ええ。今日があなたの初陣なんだもの。……頼りにしてるわよ」
カイは頷き、周囲に視線を向ける。宿の窓から、数人がそっとカーテン越しに様子を見ていた。彼女の巨大さは、それだけで周囲を圧する存在だった。
街を出た二人は、道なき道を歩いた。獣道に近い細いルート。 地図の情報では、近くの森の奥に、ゴブリンたちの小さな集落があるらしい。
カイはリアーネのすぐ前を歩いていた。
「……姉ちゃん。今日って、俺が先に戦うんだよな?」 「ええ。基本的にはカイに任せるわ。……あなたに“実戦”を覚えてもらわないと」
リアーネの声は穏やかだったが、揺るぎない意志がこもっていた。 自分は見守る。助けはするが、主役はあなた。
その姿勢がカイに勇気を与えていた。
ほどなくして、森の中にその気配は現れた。
ガサガサ……という音。木々の向こうから現れたのは、身長1メートルほどの灰緑色の生き物。粗末な布をまとい、錆びたナイフを握っている。
「ゴブリンだ……!」
カイは腰の剣に手をかける。周囲には、計5体。小さな集落の巡回か、狩りか、いずれにせよ先手を打つ必要があった。
「行くぞ……!」
駆け出すカイ。その背を、リアーネは黙って見つめる。座ったまま、腕を組み、草の上に静かに身を置いていた。
カイの剣が1体目のゴブリンに切り込んだ。火花が散り、声が上がる。すぐに別の2体が左右から突っ込んできた。
「っ、こいつら、動きが……!」
足を滑らせ、転倒。1体が跳びかかる――
その瞬間だった。
**ズンッ!**という衝撃とともに、大地が微かに震えた。 リアーネが立ち上がっただけで、森が静まり返る。数本の木が枝を揺らし、小動物が逃げていく。
「……やりすぎないように、気をつけなきゃね」
リアーネが重心を浮かせた瞬間、地面がわずかに軋み、枝葉がざわめく。完全に立ち上がる頃には、森の音そのものが止まっていた。
3歩。その3歩だけで、彼女は戦場に到達した。
そして、跳びかかっていたゴブリンの背後に、**バシン!**という乾いた音が響く。 リアーネの手刀が、そのままゴブリンを吹き飛ばした。まるで紙人形のように、5メートルほど宙を舞って木に激突する。
あたりの空気が一瞬巻き込まれ、風圧が木の葉を巻き上げた。
ゴブリンたちが一斉に怯えたように後退する。そのうちの1体が、叫びながらリアーネの膝に向かってナイフを突き立てた――が、
シュン……
鈍い音すらしない。刃が、彼女の肌をかすめても、まるで手応えがなかった。リアーネは顔色一つ変えず、呟いた。
「……痛くもかゆくもないわよ?」
彼女にとって、ゴブリンの攻撃は“風に触れた”程度にしか感じなかった。 それはまるで、常識と力の差を突きつけるような無言の支配だった。その後、彼女はゴブリンの小屋を踏み潰し、蹂躙した。
戦闘が終わった後、カイは木にもたれて息を整えていた。
「……あの一撃、すげぇな……。助かった」 「ほんとにやられる寸前だったからね。これが“実戦”よ。緊張感、忘れないで」
リアーネは再び草の上に腰を下ろし、腕を組んだ。 その姿はまるで、森の中に立つ守り神のようだった。
戦いの後、ふたりは日暮れの山道を戻りながら歩いていた。 カイはふと問いかける。
「なあリアーネ、もし俺がやられたら……その時はどうする?」 「もちろん助けるわ。全力で。でも……その前に、あなたにやれるだけのことをしてほしいの」
それは、彼女なりの優しさだった。 誰かの影ではなく、自分の足で立つために。彼女は“守る”よりも、“支える”ことを選んでいた。