60 歩み寄る巨影 (挿絵あり)
街の北側、緩やかな丘の上。
そこに立つだけで風景を変えるほどの影が、風にたなびく金髪をなびかせていた。
リアーネは足元の草を見下ろし、しばし沈黙していた。
門も、広場も、かつて共に戦った人々の姿も、すべて視界にある。
だが――その境界を、“またぐ”ことに、心はまだ踏み切れていなかった。
「……今の私が、街の中に入ったら。どう思われるのかしらね」
二十二メートル。街の門は、彼女の腰にも届かない。
狭い路地は、足の甲ひとつで埋もれてしまう。
「壊さない自信はある。でも、それだけで、誰かの心が安心するとは限らないわ」
その呟きは、誰にも届かない空に溶けていった。
そのとき――通信機からノイズが走り、レナの声が届く。
『リアーネさん、聞こえますか? ギルドから正式に要請があります。復旧が進まない区域がいくつかあって……どうしても、あなたの力が必要です』
『……もう、みんな知ってます。あなたが、どれだけ街を守ってくれたか。だから――来てください』
リアーネは、そっと目を閉じた。
「……そう。じゃあ、遠慮なく行かせてもらうわ」
右足をゆっくりと上げる。その動きだけで丘が震え、鳥が一斉に飛び立った。
そして彼女の影が、門をまたぎ、街へと――差し込みはじめる。
*
北門の前。
リアーネは上体を屈め、片足ずつ慎重に門を越えた。
門の柱をかすめて通るたび、ブーツの厚い革が石材をかすかに揺らす。
片足分の幅しかない路地を、彼女は歩幅を半分に抑えて進んでいく。
「人が近づかなければ、壊さずに済む。建物も……この角度なら大丈夫」
ズシィン――ズシィン――。
ブーツが街道に着地するたび、微かな重低音が鳴る。
けれど、誰かが叫ぶ声はなかった。
……そのかわり、人々は道の脇に下がり、静かに見つめていた。
「……来てくれたんだな」
「壊すどころか、すごく気をつけてる……」
リアーネは聞こえないふりをして、黙って歩いた。
まるで、家々に頭を下げるかのように、ゆっくりと、慎重に。
*
倒壊した倉庫街の裏手。
地中に沈んだ梁、焼け焦げた瓦礫の山――
職人たちではどうにもできなかった重みに、リアーネは膝をつき、静かに手を伸ばした。
巨大な指先で、砂粒のように一つずつ摘まみ上げ、広場の端に整えていく。
「……人間なら何日もかかるとこを、たった数分……」
中年の大工が、ぽつりと呟く。
その隣で、若い職人が風圧に煽られてよろめいた。
「うっ……!」
彼は思わず後ずさり、リアーネの方を見上げる。
その巨大なブーツは、すぐ目の前にあった。
「す、すみません……! 助かってます……本当に……」
リアーネは一瞬、彼に視線を向け――何も言わずに作業に戻った。
(……足音ひとつで怯えさせる。私の存在は、それだけで人を試す)
その背後で、子どもたちの声が響いた。
「がんばれー! おっきいお姉ちゃん、がんばれー!」
その無垢な声に、大人たちも少しだけ、顔を和らげる。
だがその裏で、微かな声も漏れていた。
「……でも、やっぱ、怖いよな」
「近づくと、大きすぎて……」
リアーネは振り返らず、ただ黙って歩き続けた。
*
夕方。
広場の片隅で最後の梁を運び終えたリアーネは、ゆっくりと立ち上がる。
その動作だけで、街に一瞬、影が差す。
「……もう、大丈夫ね。今日のところは」
そっとブーツを浮かせ、身を翻す。
そのときだった。
ひとりの少女が、母の手を振り払って駆け出した。
「お姉ちゃん!」
リアーネが気づいて振り向くと、少女は数歩手前で足を止めた。
見上げるその目は、少し怖がっていて、それでも――まっすぐだった。
リアーネは、そっと片膝をつき、指を広げて地面のそばに差し出す。
少女は一瞬戸惑い、けれど小さく頷いて、その指に手を重ねた。
「ありがとう。助けてくれて」
ほんの短い触れ合いだった。
だが、その一瞬が、リアーネの胸の奥に何かを灯した。
少女が母のもとへ戻るのを見届けて、リアーネは再び立ち上がる。
その背に、確かな何かが芽生えた気がした。
「近づきすぎると壊してしまう。けど、今なら……ほんの少しだけなら、寄ってもいいのかもしれない」
リアーネは、わずかに笑った。
門へと向かう彼女の背に、子どもたちの声が追いかける。
「また来てねーっ!」
「ばいばーい、おっきいお姉ちゃーん!」
その声に応えるように、リアーネは右手を軽く上げた。
振り返らずに、けれど――微笑んでいた。
街の石畳に残された、巨大な足跡。
そのひとつひとつが、“共にいた”証として、確かに刻まれていた。




