35 強制退去、巨女の恐怖 (挿絵あり)
ゴブリン大軍の襲来まで、あと三日。
街の防備は急ピッチで整えられていたが、最も危険とされる“正面門の一帯”には、依然として数軒の住居が残っていた。戦闘になれば、そこは投石や突撃の標的になる可能性が高い。視界を妨げ、移動の妨げになり、味方にとっては危険でしかない。
もはや猶予はなかった。
そこで決定されたのは、一部区画の強制立ち退きと取り壊し。
この命令に反発が起きるのは当然だったが――今回は、それを押し通すだけの“存在”がいた。
街に住む誰もが知る、身長十二メートルの巨大な女戦士――リアーネ。
彼女が前に出れば、文句の声などかき消される。
■ 危険エリアの取り壊し
朝。正門近くの通りには、すでに小さな人だかりができていた。
住民たちは不安そうに声を上げる。
「本当に壊すのか……?」 「どこに住めって言うんだ……」
その言葉をかき消すように、ずしん……ずしん……と低い振動が大地を伝ってくる。
そして現れたのは、朝の光の中で金色に輝く巨影。
金髪の女戦士、リアーネ。
その頭は二階建ての屋根をはるかに越え、肩幅だけでも一軒家の通路を覆い尽くす。地面は踏みしめられるたび微かに揺れ、大気が重くなるような圧迫感が街路に満ちていく。
「――どいて」
低く、しかし優しさの名残を残した声が響く。だが、その言葉に逆らう者はいなかった。住民たちは道を開け、視線を逸らしながら後ずさった。
リアーネは膝を軽く折り、屋根に目をやる。
中に立てこもっている家主――高齢の女性が、未だ退去に応じていないことをギルドから聞かされていた。
「……ここが、最後の場所だって言ってたわね」
リアーネは小さく息を吐き、家屋の屋根に両手を添えた。
手のひらだけで一間分を覆えるほどの巨大な掌が、瓦と木の屋根を囲み――
ぐ、とわずかに力を加えた。
ミシミシッ……バキィッ!!
乾いた音を立てて屋根が持ち上がる。
まるで蓋を外すように、リアーネは家の一部をゆっくりと“開いた”。内部が露わになり、陽光が差し込んだその先に、老女が座り込んでいた。
「嘘……うそでしょ……」
周囲から誰かの声が上がる。
目の前で“家そのもの”を手に持ち上げられるという現実に、全員が言葉を失っていた。
「ここにいたら、命はないわ。出て」
リアーネの声は淡々としていた。だが、天井よりも高い場所から降り注ぐその響きに、老女は反射的に身をすくめる。
「私の……私の家なのよ……あの子と住んでた……ここで……!」
老女の目は濡れていた。震える声で何かを訴えながら、それでも動けない。
リアーネは黙って身をかがめ、指先をそっと差し入れる。
人間の腕ほどもある太い指で、老女の肩を支えるようにして、ゆっくりと彼女を“家ごと”持ち上げた。
建物の土台が軋む音。周囲の瓦礫が崩れる音。
老女は高く、空へと持ち上げられた。
九、十メートルの高さ。人にとっては絶望的な落差。
「……ここは、守れないの。今は、あなたが生きることの方が大事」
リアーネの顔が、間近に迫る。
巨大な瞳がまっすぐに老女を見つめ、その口元に余計な感情はない。
「……あの子と過ごした場所、だったのに……もう守れないんだね……」
小さな声が、風に流れるように零れた。
リアーネはゆっくりと地面にしゃがみ込み、老女を他の住民たちのもとへと降ろした。腰を抜かして動けない老女を、近くにいた若者が抱き止める。
■ 容赦のない撤去と巨大な力
続いて、リアーネは隣家へと視線を移した。
若い夫婦がすでに荷物をまとめて外に出てきていたが、その表情には動揺が浮かんでいる。
「……出て正解よ。ここにいても、誰も守れない」
リアーネはブーツで地面を踏みしめ、屋根を両手で挟み込む。
次の瞬間――
ギシッ……バリバリッ!!
建物が音を立てて崩れ始める。柱が折れ、壁が剥がれ、内部の構造が粉々になるまでに、十秒もかからなかった。
「投石や突撃が来た時、ここが残っていたら足場になる。それだけで、防衛線が崩れるわ」
その説明が現実的であるほど、感情が追いつかない。
夫婦は無言のまま、肩を寄せ合って破壊された家を見上げていた。
■ 人々の沈黙と“従属”
街の住人たちは、この光景を目の当たりにしていた。
家を壊される怒りよりも、遥かに大きな“圧”が彼らを包む。
「……あんなの、街ごと踏み潰せるじゃないか……」 「でも、彼女は守るためにやってる……んだよな?」
誰もが呟くように語り、誰も彼女に文句を言おうとはしなかった。
怖いから。だけど、それ以上に――正しいことをされていると、理屈では理解しているから。
破壊された家の跡には、すぐさま冒険者や衛兵が入って整地作業を始める。リアーネは手のひらで瓦礫を押し込み、ブーツの裏で土を慣らす。その一動作が、人間十数人分の労働に等しかった。
■ 孤高の決断者
彼女の周囲には、ぽっかりと“空白地帯”ができていた。
誰も近寄らない。近寄れない。
「……少しやりすぎかもって思うけど……」
リアーネは、壊れた家の残骸をそっと撫でるように持ち上げながら、ひとりごとのように呟いた。
「それでも、命を守るためにやらなきゃいけないの。間に合わなかった人を、これ以上増やさないために」
彼女の声を聞ける距離に立つ者は、もういなかった。
■ 最後の指示と冷静な目
「あと数軒、立ち退きに応じていない家があります」
ギルドの受付嬢が、遠巻きに声をかける。
リアーネは静かに顔を向けた。その目には、もはやためらいの色はない。
「同じよ。ここに留まれば、間違いなく死ぬ。嫌われても構わない。……生きてさえいれば、それでいい」
その言葉を、住民たちは聞いていた。
理解も、納得もしていないかもしれない。それでも、誰も声を上げなかった。
それが“巨大な力の前に立たされた人間”というものだった。
■ 戦いのための整地
──こうして、戦場となる正門周辺の家屋は取り壊され、住民は強制的に避難させられた。
人々の胸には、不安と恐怖、そして一縷の期待が残る。
リアーネのやり方が乱暴であっても――それは、街を守るための力だった。
壊す音。運ぶ音。遠くで鳴る整地作業の音。
戦いの準備は、確実に整いつつある。




