3. 楽しい冒険
ドンッ!
重々しい音が、草地に低く響いた。まるで大きな丸太を地面に落としたかのような衝撃。空気がわずかに揺らぎ、足元に小さな土埃が舞う。
――リアーネの右足。
ブーツに包まれたその巨大な足は、つま先からかかとまで1メートルをゆうに超える。ちょうど青年の腰の高さほどの長さがあるその足が、カイのすぐ隣に踏み下ろされたのだ。
ゴツリと土が弾け、靴底の周りで小さな地割れのような痕が走る。かすかな衝撃波がカイの肌をかすめ、独特の圧力を感じさせる。
だが、足元の地面は意外なほどたわまなかった。ほんの少し土が沈んだだけで、カイは尻もちひとつつかずに立っている。
「ふぅん。これで3トンでも転ばないのね。地面、なかなかいい感じに弾力あるじゃない」
リアーネは満足そうに頷き、長い腕を悠々と下ろしたまま、ゆっくりと足元を見下ろす。
その目線は、遠くにそびえる木立をも越えているかのようだ。森の稜線の向こうを容易に見通せる高さの視線。
同じ場所に立っていても、カイには見えないものが、彼女には見えているのだろう。そんなことを思わせるほどの圧倒的な存在感だ。
カイは一瞬呆気にとられていたが、我に返ると、拳を握りしめるように腕に力を込めた。
「姉ちゃん……お返しって、あれは起こそうとしただけだろ!」
言うが早いか、彼はリアーネの膝裏をめがけてパンチを連打する。
リアーネの膝は、立ち姿のままだと彼の頭上近くの位置にある。約3メートル先の“壁”をこづくように、カイは何とか腕を振りかざした。
ドスッ、ドスッ、ドスッ……
握りこんだ拳がふくらはぎにめり込み、そのたびに反動で軽く押し返される。10発ほど叩き込んだものの、リアーネはまるで痛がる様子がない。むしろ膝周辺の皮膚感覚はほぼ皆無なのか、くすぐったがってさえいる。
ずしりとした衝撃が手首に返ってくるたび、カイは自分との体格差をいやというほど実感させられた。
「くすぐった〜い。もう、見下ろすのも、けっこう疲れるんだけど?」
クスクスと笑いながら、リアーネは身長6メートルの体をわずかにかがめる。彼女の右腕は3メートル近くもあり、伸ばせばさほどかがまなくてもカイに届く。
その55センチもある手のひらが、ひょいとカイの脇の下へ滑り込んだ。
「うわっ、やめ……っ!」
抗議の声もむなしく、リアーネの握力がほんの少しだけ加わると、カイの45センチほどしかない肩幅と細身の体はあっけなく持ち上がった。
まるで小さな人形を扱うように、すっと空中へ引き上げられる。カイにしてみれば、その上下動だけでも心臓が跳ねる思いだった。
「よっと……はい、目線の高さに調整完了」
リアーネは腕を伸ばすだけで、カイを自分の顔の高さまで持ち上げる。視点が一気に上昇し、地面が遥か下にあると感じられるほど。
先ほどまで足元にあった大地が、今は数メートル先に見える。カイの頭の高さは、ようやくリアーネの目線に並んだ。
そのまま見渡せば、彼女の金髪ショートボブと、キリッとした瞳がすぐ目の前にある。
カイにとってはリアーネの顔さえ縦横70センチを超えるスケールだが、こうして近くで見ると、その美しく整った輪郭がやや神秘的にさえ映る。
「っ……や、やりすぎだって!」
カイが半ば怒ったように言い放っても、リアーネは全く悪びれた様子がない。
手のひらには余裕があり、カイの体重などどうということもないのだろう。力加減も絶妙で痛みがない。むしろどこか安心できるホールド感すらある。
「そんなに文句言うなら、もう少し優しく持ち上げてあげようか?」
リアーネがくすりと笑い、腕の角度を調整する。わざと横向きにして、カイを揺らしながら「あやす」ようなポーズに見える。
そのたびに、カイの視界が上下にふらつき、背中に冷や汗が滲む。どれだけ優しく扱われていても、数メートルの高さに浮いているという事実は否応なく心をざわつかせた。
「よし、それじゃ行きましょっか。私はゆっくり歩くけど、脚の短いカイには頑張って走ってもらおうかな〜(カイは姉ちゃんが大きすぎるんだってとツッコミを入れる)」
リアーネはそう言うと、軽やかにカイを下ろそうとした。
ところが、何かを思い出したようにふっと眉間に皺を寄せる。
「……でも、人がいる道は、避けたほうがいいわね。初対面だと、どうしても警戒されるから」
その言葉には、長年積み重ねてきた経験が透けて見える。
幼い頃から、異常なまでの巨体を持っていたリアーネ。彼女には差別や恐怖の目を向けられた記憶も少なくない。
村の人々は彼女を理解してくれたが、外の世界はそうはいかないかもしれない。
とくに初対面の相手であれば、その畏怖はなおさら強いだろう――殺意や排斥に繋がることすら想定しなければならない。
「……そりゃ、まぁ、そうだな」
カイも納得する。
リュック代わりの“空間収納”に荷物はすべてあるため、別に大きな街道を通る必要もない。
少し遠回りになるが、獣道を行くほうが安全だ。それに、慣れない冒険者や兵士に見咎められても面倒なことになるだけだ。
リアーネは慎重にカイを降ろし、地面へ着地させる。
一方で彼女自身は一歩踏み出すたび、膝の曲げ伸ばしだけで周囲の草をなぎ倒しそうになる。その足元を見て、カイは小さく息を呑んだ。
ブーツの底は厚みがあって頑丈な造りだが、砂粒や細かな土くれがつくくらいで傷一つない。まるで彼女の体と同じく、普通の常識では測れない強度を誇っているかのようだ。
「じゃあ、行こうか」
リアーネは静かに言い、ゆっくりと前進を始めた。
身長6メートルの姿は、草木の生い茂る獣道でも圧倒的な威圧感を放つ。そこそこ背の高い木でも、彼女の腰の高さか、せいぜい胸元にしか届かないのだから。
微かにそよぐ風が、彼女の金髪を揺らし、森の香りを遠くへ運ぶ。足音は土のクッションに吸収され、重低音を響かせながらも大きくは広がらない。
カイは慌ててその後を追いかける。
リアーネがひと足踏み出す間に、自分は最低でも三、四歩は進まねばならない。
呼吸が乱れそうになるのを必死にこらえながら、彼は己の未熟さに苦笑いした。
「私がここまでゆっくり歩いているのに、その程度のペース?」
リアーネが振り返り、どこか呆れたように笑う。
たった数メートル引き離されただけなのに、彼女の背を追いかけるには小走りを余儀なくされるのだ。
「う、うるさい。姉ちゃんの歩幅と一緒にされちゃかなわないっての……」
カイは息を整えながら言い返す。その態度はやや拗ねているようにも見える。
リアーネは苦笑を浮かべつつ、ふと辺りを伺うように視線を走らせた。
「人の気配は……ないみたいね。よし、カイ、捕まって。ここから先は私が抱えたほうがいい。体力温存もしたいでしょ?」
言うや否や、再び巨大な腕を伸ばし、カイの腰辺りをサッと持ち上げる。
先ほどよりも“手慣れた”動作で、カイを自身の胸元へと収める。カイが何か反論する暇もない。
「うわっ! おい、もうちょっと合図してからにしろよ!」
「ごめんごめん。でもこっちのほうが早いから。私の足音も、少しなら抑えられるしね」
そう言いながら、リアーネは木々のあいだを巧みに進んでいく。
足を運ぶたび、森の中にはかすかな振動が生まれ、遠くの小動物が驚いて逃げていく気配がする。
しかし彼女はなるべく木や枝を傷つけないように、隙間を縫うように歩く。自分が大きすぎるせいで、うっかりすれば樹幹を折ってしまいかねないからだ。
そんな彼女の気遣いに、カイは心の底で安堵していた。
もし大股でズカズカ進まれたら、自分は振り落とされるだろうし、森の生態系にまで影響を与えてしまうかもしれない。
優雅にも見える大きな歩幅に微調整を加えながら、リアーネは確かな足取りで獣道を進んでいく。
しばらくすると、木漏れ日の差し込む小さな泉が見えてきた。
太陽が森の奥まで光を落とし、そこだけほんの少しだけ開けたような空間になっている。
木々のさざめきと、水面のきらめきが穏やかな調和を生む静かな場所。二人は自然とそこへ足を運んだ。
「そろそろ休憩にしようか」
リアーネは身をかがめ、カイを地面に下ろす。片腕の動きだけで青年を軽々と扱う様子に、改めてその桁外れのパワーを思い知らされる。
「はぁ……やっと着地か。あの抱えられ方、なんだか子どもに戻った気分だぞ」
腰に手を当てながら言うカイに、リアーネは小さく肩をすくめる。
「子ども扱いするつもりはないけど、落とさないようにするにはこうするしかないし、悪くないでしょ?」
「……まあ、転ばなくて済むのは助かるけどさ」
軽口を叩き合いながら、二人は空間収納からそれぞれの“昼食”を取り出した。
カイは定番の保存食――焼きパンやチーズ、干し肉と果物。
よく見ると、これらはどれも小さい袋や箱にきちんと分類されている。カイ自身の管理術なのか、リアーネからの指示なのかは定かではないが、ともあれ合理的だ。
一方のリアーネは、大きめの布袋から取り出したのは干しゴブリン肉と、野草の束。
「……いつ見ても思うけど、すごい食生活だな」
カイが思わず目を背けるように笑う。
リアーネは平然とした声で応じる。
「昔、村に来たゴブリンを撃退したときのよ。こういう時に、非常食として助かるからね」
そう言うと、彼女は手のひらサイズ(人間基準ではそれなりに大きい)のゴブリン肉を、指先で割ってみせた。
硬く干からびた肉が簡単に裂ける。大木の枝程度なら折れそうなその握力が、実に淡々と発揮されている光景だった。
カイが口に運ぶ保存食とはまったく違う“重量感”のある食事。リアーネは、それを噛み砕きながらパキパキと野草を噛み合わせている。
「しかし、またゴブリン肉とは……」
カイが渋い顔をしていると、リアーネはニッと笑う。
「カイにはわからないかもね。まぁ、嫌なら見なければいいわ」
そう言いながらも、どこか楽しそうな調子で食事を続けていた。
しばらくすると、泉の水面がきらきらと光を増し、森の向こうに見える空が幾分明るくなってきた。もうすぐ正午だろう。
リアーネは最後の肉を噛み下すと、軽く息をつく。
「さ、先を急ごうか」
「ん……そうだな。でも、もう街は近いんじゃないのか?」
カイが問いかけると、リアーネは遠くを見やる。彼女の目には、樹間からわずかに見える人工的な構造物が映っているはずだ。
カイにはまだはっきりと確認できないが、石造りの建築らしきものがかすかにあるように感じられた。
「うん、あっちのほうに石の壁がいくつか見える。たぶん、ギルドのある街の外壁だろうね」
そう言われ、カイも目を凝らしてみる。微妙に色の変わった地形の先に、灰色の壁面らしきものが見えた。
これが辺境のギルドが位置する街か、とカイは胸を高鳴らせる。
初めての“本格的な街”であり、冒険者や傭兵が集まる拠点でもある。無論、リアーネという圧倒的存在をどう迎えてくれるかはわからないが、少なくとも彼らには魔物に対応するだけの実力があるはずだ。
「吹き抜けの四階建てで、天井が10メートル以上あるって聞いたわ。私でも入れるかどうか、ちょっとだけドキドキするけどね」
リアーネは肩を軽くすくめる。
街の門やギルドの入り口が、彼女の身長以上に大きいかどうか――旅立ち前に村長から“通れるようにはなっている”と聞かされてはいるが、実際に目で見てみないことには安心できない。
「でも、そもそも門が3〜4メートルしかなかったら、またかがまなきゃいけないだろ? 天井が10メートルでも、リアーネだと……まあ、なんとか入れるのか」
「なんとか、ね。頭を下げればどうにか……あ、でも備え付けの門扉とかを外さないと厳しいかも。壊すわけにもいかないし」
こんな他愛ない会話を交わしているうちに、二人はゆるやかに森を抜けていく。
先ほどの泉からさらに下った先に、小川が流れているのが見えた。そこを越えれば、遠目にもわかる石造りの街並みがはっきりと視界に入ってくるだろう。
――この街で、何が待っているのか。
リアーネの巨体を恐れない人々ばかりではないだろう。むしろ、恐怖し、拒絶する者が多数かもしれない。
けれど、そのぶん新しい出会いもあるはずだ、とカイは信じている。ギルドという場所に集まる冒険者や傭兵、それを支えるスタッフたちが、どんな反応を示すのか。
カイの心は期待と不安で揺れるが、横を見やれば、いつも通り冷静な表情のリアーネがいる。
その巨大な背には、どこか揺るぎない自信が感じられ、カイは自分も負けていられないと思う。
「さあ、行くわよ。まずはギルドに登録して、まともな仕事を受けられる状態にしないとね」
リアーネが長い脚を一歩進め、カイも懸命に足を合わせる。
陽射しが強くなってきた森の出口で、一瞬だけ振り返ると、そこには二人が通ってきた小道がかすかな足跡を残していた。
カイの足跡は浅く、リアーネのブーツ痕は大きく。そして、ところどころに沈み込むように足形が付いているのが見える。
ここを通りかかった誰かが見れば、さぞ驚くだろう――こんなにも規格外の大きさを持つ“人間”が歩いた痕跡なのだから。
リアーネは振り返らず、ただ前を向いて進む。
もう一度だけ、カイはその背中を見上げるようにして息をついた。背筋を伸ばして歩きだす。
――次なる舞台、冒険者ギルドが待っている。
木々より高い視線を持つリアーネと、彼女を追いかけるカイ。
ふたりの足音が重なり、やがて草原を抜けていく。
世界はまだ、彼女のような存在を受け止める準備ができていないかもしれない。
だが、この出会いは確実に“何か”を変えていくだろう――カイはそう確信していた。