2. 旅立ち
村は、静かだった。
十数人しか暮らしていないこの辺境の集落は、今日からさらに二人分、静かになる。
朝もやがうっすらとかかった木造の家々のあいだを、わずかに涼しい風が吹き抜けていた。
村人たちは早朝から畑や家畜の世話をするが、この日はなんとなく落ち着かない様子で、家の影や垣根の向こうから大きな姿をちらりと窺っていた。
リアーネの足音が、土の道をじわりと押し固めていく。
歩くたび、かすかに地面が沈み、靴底の跡が畑の端にまで届きそうな深さを刻んでいた。
その振動は、かすかな地鳴りのように村中に伝わる。
隣の家の扉を開け放ち、心配そうにこちらを見つめる老人は「あの子がいると安心だけどなぁ」とつぶやいた。
別の家の窓から顔を出している子どもたちは、目を輝かせて「でっかいなあ……!」とそっと声をひそめ合う。
彼らにとっては、村を出て行くリアーネの姿は、いつもの見慣れた光景でありながらも、やはり何度見ても圧倒されるものだった。
村の広場。
木造の小屋の前で、カイとリアーネは村長を訪ねていた。
その小屋は、リアーネが近くに立つだけで、まるで子どものおもちゃの家のように見える。
板張りの壁も屋根も、彼女の体格に比べれば心もとない作りで、立ち上がろうものなら簡単に壊れてしまいそうだ。
小屋の陰からは、村の若者や子どもたちが心配そうに顔を覗かせている。
リアーネは少し身を屈め、足元のカイに合わせてしゃがんだ。
それだけで、彼女の膝は屋根の軒先とほぼ同じ高さになる。
日差しを遮ることを気にしてか、彼女はそっと身をひるがえして、自分の影が村長にかからないように配慮していた。
「……ほんとうに、行くのだな」
村長は年老いた声でそう言った。
目の前の巨大な少女に、目を細めながら。
その横には、村人のひとりがちょこんと立っている。
彼は以前からリアーネの巨体に慣れているはずなのに、やはりこうして至近距離で見上げると、どこか落ち着かない面持ちだった。
「はい。ギルドにも登録の年齢ですし、魔物の動きも活発になっています」
カイが答える。
リアーネは静かにうなずいていた。
彼女の背丈は、子どもが真横に立てば大人の腰ほどにしか見えないほどだが、それでも端正な顔立ちや落ち着いた物腰が、人々の緊張を和らげるようだった。
しかしその一方で、“もし本気で暴れだしたらどうなるのか”と、幼子を抱える母親が少し身を引く姿もあった。
もちろんリアーネにはそんな危険はない、と村の誰もが知ってはいるのだが、その大きさに対する畏怖の念は、理屈を超えたところにあるのだろう。
村長はうなずき、リアーネに向き直る。
「おまえたちが来ることは、ギルドに伝えてある。……もちろん、彼女のサイズも、な」
そう言いつつも、その深い皺の寄った目はわずかに優しくほころんでいた。
「むかしは、おまえが寝返りをうつだけでも家を壊すんじゃないかと、皆がびくびくしていたものだが…」
と、後ろに控えている若者を見やって笑う。
実際、リアーネが小さな頃にも、ちょっとしたハプニングは何度かあったのだ。
井戸の縁に腰掛けた拍子に石組みが崩れかけたり、村の柵をまたごうとして一部を踏み抜いてしまったり。
それでも、彼女が細心の注意で村を守ろうとしてきたことを、みんなは知っている。
リアーネは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも……万が一の時のために、もうひとつ、備えてあります」
そう言うと、彼女は背後の森の方角をちらりと見やった。
その方向には、小高い丘と鬱蒼とした林の境目がある。
彼女の視線を追うように、村人たちもそちらを振り返るが、特に変わった様子は見当たらない。
「あの丘のふもとに、地下へ続く通路があります。ギルドの街の外縁までつながっています」
村長の眉がわずかに動いた。
「まさか……自分で掘ったのか?」
思わず言葉をはさむ村人もいた。「素手で、あの硬い土を?」と驚いたように目を見開いている。
リアーネが村を救うために何かやってくれていることは知っていたが、まさかそんな規模のものを造り上げていたとは想像もつかなかったのだ。
リアーネは、にこりと微笑んだ。
そして、記憶がよみがえる。
――数ヶ月前のある夜。
リアーネは四つん這いの姿勢で地面に顔を近づけ、両手で岩と土を慎重に掘っていた。
人間ならつるはしも必要な硬い地盤。それを、彼女は素手で、まるで砂遊びのように崩していく。
周囲に響くのは、岩の割れる乾いた音と、土くれを払い落とすサラサラという音。
夜の闇の中、村人たちはほとんど眠りについているはずだが、もし誰かが見たら息を呑んだだろう。
巨大な少女が岩石を玩具のように砕き、トンネルを造りあげようとしている光景は、神秘に近い迫力がある。
彼女は掘り進めながら、頭の中で常に計算していた。自分の体重、圧力のかかる角度、地下水脈の位置。
万が一、誰かがこの道を通って逃げるときに、崩れてはならない。
ひとつひとつ、寸分の狂いもなく。
「大きい体は、こういう時こそ活かすんだ」――そう信じて、休まず土をかき分け続けた。
現実に戻ったリアーネは、村長にまっすぐ目を向けた。
「村が襲われたら、そこから逃げてください。村の人たちを、必ず」
その言葉に、後ろで聞いていた村人がふと視線を落とす。
“どれだけ大きくても、村を離れる今もなお、私たちのことを考えてくれるんだ”――。
彼らの心には、言葉にならない温かさと敬意が芽生えていた。
村長は黙ってうなずいた。その表情に、長年この村を見てきた者だけの静かな感謝が浮かぶ。
「おまえは、ずっとここで暮らしてくれても良かったのにな」
そんな本音をちらりとのぞかせながら、寂しそうに笑う。
村人のひとりは「リアーネがいてくれたから、魔物避けにもなったんだ」と呟く。
じわりと名残惜しさが広場全体を包む中、リアーネはゆっくりと頭を下げて感謝の意を示した。
そして――出発の時が来た。
リアーネは大地を踏みしめ、村の小道へと向かう。
だが、ふと立ち止まり、カイに向かって声をかけた。
「ねぇ、カイ。さっき、起こす時に……けっこう強く蹴ったよね?」
カイはぎくりとして振り向く。
村長や村人たちは何事かと視線を送るが、カイの背丈と比べると圧倒的に大きなリアーネの姿に、すでに何やら面白そうな予感を感じ取っている。
リアーネはにっこりと笑った。
「お返し。ちょっと、そこから動かないで」
カイの横に、ゆっくりと巨大な足が迫る。
リアーネのブーツに包まれた足は、つま先からかかとまで、ほぼ1メートル。
子どもどころか、小柄な大人の胴の長さほどもあるその足に、一瞬カイは身構える。
「おいおい、やめろって、危ないから!」
慌てるカイをよそに、その足が、おもむろにカイの隣の地面を――
ドン!
踏み抜いた。
周囲に軽く土が舞い上がり、空気がふわりと揺れる。
見ていた村人が「うわっ」と声をあげ、一歩後ずさる。
しかし、地面は完全に崩れなかった。草と土の層が、ほんのわずかに弾力を持って彼女の体重を吸収していた。
「ああ、びっくりした…」と胸をなで下ろすカイの耳に、くすくすと笑う子どもたちの声が聞こえてくる。
リアーネは足元を見つめてつぶやく。
「ふむ、3トン以上あるはずなのに……意外と弾力あるのね、この地面」
彼女は少し真面目な顔になる。
「なら、今後もっと巨大になっても、ある程度の衝撃なら抑えられるかも。歩く時は注意すれば、民家も壊さずに済むわね」
その言葉に、ほっと胸をなで下ろす村人もいれば、「いや、もっと大きくなるって……どれだけ大きくなる気なんだ?」と呆然とする者もいた。
リアーネには、まだ身体が伸びしろを持っている――その事実を改めて突きつけられるたび、村人たちは驚きと期待、そして少しの不安を抱くのだ。
分析を終え、リアーネは軽やかに向き直る。
彼女の後ろ姿を見送る村人たちの中には、「ああ、もう行ってしまうのか」と名残惜しそうに手を振る者もいる。
それぞれが、彼女の大きさと存在の大きさとを重ね合わせながら、次に会える日はいつになるのだろうと想いを馳せていた。
カイは、あっけにとられていた。
本来ならありえないスケールの彼女に、こうして当たり前のように話しかけられ、旅に同行するという事実。
それは同時に、“自分がこれから見る世界”が、まったく違う広がりを持つことを意味しているように思えた。
こんなにも巨大で、そして優しいリアーネと歩む旅路。
それは、世界の常識をひとつずつ塗り替えていく旅でもあるのだろう。
二人が村を出て行く様子を見守る村人たち。
その視線には、安堵、寂しさ、期待、そして未知への不思議な高揚感が混ざっていた。
リアーネの巨躯がやがて小道の先へと消えゆく頃、誰もが心の中でそっと願う――“また、会える日が来ますように”と。
そして、村に広がる静けさは、いつもよりも少し切なく、そして誇らしげだった。