第29話 赤毛の女
「……何見てるんだ?」
焚き火の向こう、新聞の切り抜きを指でなぞっていた萬の背後から、勝治が声をかけた。
湖に辿り着いた二人は、狩った鹿の肉を火で炙り、腹を満たしていた。脂の焼ける匂いが立ちのぼる。
「これさ、2116年の新聞だって」
萬は紙切れを掲げる。
「九年くらい前かな?」
勝治も気になって、萬の肩越しに覗き込んだ。
紙面の中央には、やけに大きな見出し。
――淫行学生、死亡。
「……くだらねぇ」
勝治は鼻で笑う。
「そんなもん、なんで持ってんだ」
「かっちゃん、聞いたことないの? 当時、話題になったりしてない?」
記憶を探る。
だが、何も浮かばない。
あの頃は――思い出す気にもならないことが多すぎた。
「色々あったからな。覚えてねぇ」
「え? なに? インコウ?」
「……」
「そんなことするわけねぇだろ」
勝治は萬の頭を軽く押した。
萬は肉を頬張りながら、伏せた顔のまま勝治を見る。
勝治はそれ以上気にも留めず、唯の残したリボルバーを分解し、布で拭いていた。
だが次に飛んできた言葉は、予想を越えていた。
「ねぇ、インコウってなに?」
勝治は手を止めた。
信じられないものを見る目で萬を見る。
「……知らないのか? その歳で」
「知らなきゃまずいの?」
萬は首を傾げ、ワン太を見る。
「ねぇワン太、どうなの?」
ワン太は意味など分からないはずなのに、勝治の空気を察したのか、ぷいと目を逸らし、背を向けたまま肉を食べ続ける。
「え? もしかして、本当にまずい?」
「いや……」
勝治は言葉を選ぶ。
「世の中には、知らなくていいこともあるってだけだ」
「なにそれ」
萬は少し考え、ぽつりと言った。
「じゃあ……竜也に聞いちゃお」
それを聞いて、勝治は即座に首を横に振った。
焚き火で乾かしていた肉を袋に詰め、立ち上がる。
火を踏み消し、そのまま歩き出した。
ワン太もすぐに後を追う。
「ちょ、待ってよ!」
慌てて身支度を整えながら、萬は背中に向かって叫んだ。
「インコウってなんなの!!」
返事はない。
湖の水面だけが、静かに揺れていた。
◇
湖沿いを進んでいた時だった。
突然、勝治が足を止める。
「――っ!」
萬が背中にぶつかり、顔を擦る。
「なにすんの!」
勝治は無言で手のひらを突き出し、湖を見つめた。
「奴らが苦手なものは二つある」
「……?」
「火と、水だ」
「水? 火は分かるけど……湿ったとこ好きなんでしょ?」
「“液体”としての水だ」
勝治は低く言う。
「水中だと、菌は拡散しにくい」
そう言って腰を落とす。
萬もそれに倣い、ワン太も察したように身を低くした。
三人は藪の中に身を潜め、悪臭のする方向へ進む。
やがて、かつては賑わっていたであろう公園跡に出た。
朽ちた屋台。
散乱する靴と衣類。
だが、それ以上に目を引いたのは――
公園の端に建つ、巨大な木造建築。
牛舎を無理やり繋ぎ合わせたような歪な形。
そこから、腐臭が立ちのぼる。
そして地面を這う、異様に太い根。
森の奥へ、無数に伸びている。
迂回は不可能。
踏み外せば、終わりだ。
「……戻る」
勝治が踵を返した、その時。
「……っ」
萬が腕を掴んだ。
振り返ると、萬は血の気の引いた顔で、建築を指差している。
そこには、一体のゾンビがいた。
肉は泡立つように膨れ、歯が剥き出しになり、舌がだらりと垂れている。
それが、ふらふらと建物へ近づいた瞬間――
叩き潰すように、触手が現れた。
肉塊。
無数の手足が絡まり、同化した異形。
ゾンビは一瞬で押し潰され、骨が露出する。
痙攣するだけの肉塊を、触手は引きずり、建築の中へと引き込んだ。
「……なに、あれ」
萬の声は震えていた。
勝治は、首を横に振ることしかできない。
その時。
背後に、気配。
勝治は即座にバールを握り、振り返る。
萬も散弾銃を構えた。
そこにいたのは――
女だった。
白いレースのワンピース。
風に揺れる赤毛。
今にも消えそうなほど細い体。
「……こっちに来て」
沈黙を破ったのは、女だった。
「ここを抜けなくちゃならない」
勝治は小さく言う。
「無理よ」
女は、あの建築を指差す。
「ここから先は、ほとんどあれの縄張り」
そう言って、踵を返す。
「待って!」
萬が声を上げる。
「どうしても行かなきゃいけないの」
女は足を止め、微笑んだ。
指を唇に当て、静かにする仕草。
一拍置いて、呟く。
「まずは……その怪我ね」
視線の先は、勝治の左腕。
罠だ。
疑う理由はいくらでもある。
だが、このまま進めば死ぬ。
戻れば、新政府。
――なら。
「……行くぞ」
勝治は萬に耳打ちする。
何かあれば、殺す。
そう決めて、二人は赤毛の女の後を追った。




