第28話 向かう
萬が先を行こうとワン太を撫で、軽やかな足取りで歩き出そうとした、その瞬間だった。
勝治にとって――想像の外から襲いかかる光景が広がった。
顔を撃ち抜いたはずの東が、まるで屍が逆らうようにゆっくりと体を起こし、砕けた顔面から滴を飛ばしながら拳銃を萬へと向けたのだ。
「――萬!!」
喉を裂くような叫びと同時に、勝治の体は思考を追い越して動いていた。
萬の体を突き飛ばし、次の瞬間、自らがその銃口の直線上に身を投げ出す。
「おっさん!!」
東の顔はもはや人の形を保っていなかった。皮膚も筋肉も弾け飛び、眼球は糸を引くように垂れ下がり、見るに耐えない。
それでも――顔を逸らし、本能だけで引き金を引いたその指は、確かに獲物を捉えていた。
弾丸は勝治の腹部に突き刺さる。
瞬間、空気が震え、勝治の体が大きく仰け反った。
東も同じように崩れ落ち、もう二度と動くことはなかった。
勝治もまた、地面に叩きつけられるように倒れ込む。
「かっちゃんっ!!」
遅れて駆け寄った萬は、震える手で撃たれた箇所を押さえた。
だが――血は流れていない。
防弾チョッキ。
あれほど窮屈で嫌っていたものが、いまは命を繋ぎ止めていた。
萬は安堵の息を漏らすと、恐怖と緊張から溶け出すように声を震わせ、勝治を見下ろした。
「なんで……?」
「あ? なにが」
いつも通りの、ぶっきらぼうな声。
その余裕が逆に腹立たしく、萬は思わず声を荒げた。
「なんで私なんかのために、そんな危ないことするのよ!!」
勝治は萬を見上げる。
その顔立ちは美優にそっくりだ。だが――勝気で、真っ直ぐなところは、かつての妹に重なる。
気づけば、考えるより先に体が動いていた。
だからただ、一言。
「英雄にさ……ちょっと興味があって」
萬の目に涙が浮かぶ。
苦笑を零しながら、拳で勝治の頭を軽く叩いた。
「そんな馬鹿な奴だったの? おっさん」
「うるせぇよ」
勝治はゆっくりと起き上がり、まだ座り込んでいる萬の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
そして、無言のままバッグから地図と方位磁針を取り出す。
「このまま南下だ。湖に当たったら西へ行く」
そう言い、バッグに括られていた散弾銃を萬に渡す。
萬は一瞬戸惑いながらも、それを両手で受け止めた。
「遅かれ早かれだ。狩りでもして慣れとけ」
「……本当? やった! やったよワン太!」
萬の顔に一気に光が戻り、ワン太も嬉しそうに尻尾を振る。
その様子を見ても、勝治は振り返らない。ただ背中で告げる。
「それと……俺はおっさんじゃねぇ。勝治だ」
「知ってるよ。かっちゃんでしょ?」
「……あぁ。そうだ」
◇
「連絡は、まだ取れないか」
真壁の低い声が空気を重くした。
通信兵は、言葉少なに首を振る。
最後の交信地点に降り立った真壁たちは、そこに仰向けに転がる東の死体を発見する。
武器は奪われていない。身ぐるみも剥がされていない。
――殺しの理由は略奪ではない。
「顔と……手に一発ずつか」
真壁の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
正確無比な射撃に、そして後れを取ってばかりの自分に、苦笑するしかなかった。
その姿を見た部下たちは何も言わず、気まずさを隠すように散開して捜索に出た。
「隊長! 一名発見……畑です!」
崖下に倒れている畑を双眼鏡が捉えた。
真壁たちは東の装備を回収し、バギーを飛ばして崖下へ急行する。
兵士のひとりが畑の容態を確かめようと近づいた瞬間――。
畑の目が見開かれ、荒い息を吐きながら兵士を羽交い締めにした。
その首にナイフが押し当てられる。
緊張が張り詰め、銃口が一斉に畑を狙う。
だが真壁は、ただ崖の上を見上げ、ふっと笑った。
畑もその視線を追い――そこで、自分の双眼鏡と裂けた服の切れ端が木に引っかかっているのを見た。
「……運がいいな」
真壁は人質など存在しないかのように、普段通りの歩調で畑に近づいていく。
畑は混乱し、より強く人質を押さえ込む。
しかし真壁は、その場に腰を下ろし、膝を組んで問いかけた。
「奴らだったか?」
短い問い。
畑は迷いながらも、ついに兵士を解放して座り込み、小さくうなずいた。
「人数は?」
「……二人と、一匹」
「そうか。女は……死んだのかもしれんな」
真壁は何度か納得するように頷き、立ち上がって畑の肩を叩く。
「よくやった。一緒に来い」
そのままバギーに乗り込み、荷台からスナイパーライフルを取り上げ、畑へ投げ渡した。
畑の顔に、取り上げられていた玩具を返された子供のような輝きが宿る。
「……まだ終わってない」
畑の呟きに、真壁は小さく微笑む。
兵士たちもまた、わずかに笑いを零し、それぞれの持ち場へ戻っていく。
「あぁ……まだ終わっていない」
そして真壁は新たな指令を口にした。
「ヨコヤマカオルの奪還。そして――付き添いの男の抹殺。行くぞ」
バギーのエンジンが唸りをあげ、車列は京都の基地へ向け走り出した。
◇
腐った木材が湿気を含んで軋み、日除け代わりの粗末な布切れが風にはためき、乾いた音を鳴らす。
太陽の光を反射して白く浮かび上がる皮膚。
その上に刻まれた無数の古傷。
まるで祭壇に鎮座する神のように――錆びたバリケードと血に彩られた玉座に、白髪の男が座していた。
「ウォォォォ――ッ!!」
群れをなす傷人たちが咆哮する。
男が手のひらを掲げると、恐ろしいほどの静寂が落ちた。
腰に届く長い白髪は光を受け、後光のように輝いている。
病的に痩せ細ったその姿は、もはや人の枠を超えていた。
そこへ引き出されるように、二人の男女が壇上に引き立てられる。
後ろ手に縛られ、無力な囚人。
粗暴そうな男は震えながら女を罵倒し続ける。
一方で女はやせ細り、焦点を失った目で空を仰ぎ、現実から逃避しているようだった。
白髪の男――敦は二人の前に立つ。
視線を合わせただけで、男の罵声は途切れ、空間に緊張が張り詰めた。
「……何もないね、キミ」
敦の手に触れられた男は震え、振り払う。
敦はただ笑う。
「なんなんだよお前らァ!」
弱々しい怒号が響く。
続いて女の手を取る。
その仕草に傷人たちは嫉妬の呻きを漏らすが、誰ひとりとして逆らわない。
敦は袖を捲り上げ、自らの皮膚を晒す。
焼け爛れた痕、切り傷、癒えきらぬ傷口。
そのひとつに指を押し込み、血を滲ませながら、女を見つめた。
「これは……これは」
女の顔に苦悶の影が走る。だが、その目はまだ虚ろだ。
敦は玉座に刺さっていたビリヤードのキューを折り、二人の足元へ転がす。
「不安、怒り、喪失感……キミはそのすべてを、この子にぶつけてきたんだろう?」
男は再び怒りに支配され、キューを掴む。
女を押し倒し、突き刺そうとした瞬間――女の瞳に光が宿った。
「私は……!」
振り下ろされる刃のようなキュー。
女の膝が男の股間を撃ち抜く。
呻き声と共にキューが手から零れ落ち、女はそれを奪い取った。
「私は!!」
怒号と共に、鋭利に折れたキューが男の腹に突き立つ。
何度も、何度も。
血しぶきが飛び散り、傷人たちが歓声をあげる。
立ち上がった女の目は、光を取り戻していた。
敦はゆっくりと拍手を送る。
「それが……痛みだ。喜びも、悲しみも、無関心になっちゃいけない。だって……」
女の頬に、喜びの笑みが広がる。
涙を流しながら、敦に抱きついた。
「楽しかったんだろ?」
「……はい」
敦はナイフを渡す。
女は震える手で自らの体を切り刻み、歓喜に酔いしれる。
敦はその血塗れの刃を掲げ、告げる。
「僕は敦……キングだ」
群衆の声が沸き立ち、狂気の合唱が響き渡る。
玉座に座る敦は頬杖をつき、笑みを浮かべながら、静かに呟いた。
「早く来ないかな……」




