第26話 鷹の目
空が白みはじめ、霧が森の奥からじわじわと滲み出してくる。
3人はすっかり錆びついた自動車の残骸の脇で、火を囲っていた。
焚き火は目立たぬよう地面を浅く掘り、煙の少ない広葉樹を使って慎重に燃やされていた。
じんわりとした温もりが、夜の冷えを忘れさせてくれる。
「ワン太」と名付けられた黒い犬は、萬の膝に頭を預けて丸くなり、萬もまた、寝袋のチャックを開けきったまま、穏やかな寝息を立てていた。
勝治だけが、手元の地図に目を落としていた。
焚き火の灯りが紙面をぼんやり照らす。
崩壊後に生まれたこの森は、ゾンビにとって理想的な環境だ、湿度、日陰、静けさ……すべてが揃っている。それなのに、ここまで慎重に進んできたというのに、ゾンビの姿はおろか、気配すら一切なかった。
──不自然すぎる。
勝治は、ある最悪の可能性に思い至る。
まさか……この地帯、もう制圧されてる?という考えが。
それも、新政府によって。
それならこの静けさにも納得がいく。
「……このまま森を抜けるのは、危険だな」
勝治は地図を畳み、新たなルートを描きはじめた。
一度、岐阜・滋賀の県境を南下し、街中を避けて琵琶湖を回り込む。そのまま京都へ――大胆だが、直進するよりは遥かにマシだ。
ふと焚き火に照らされた萬とワン太に視線を移したその時だった。
その奥、木々の枝の隙間に――
かすかな、ほんの一瞬の閃光が走った。
心臓が止まりかける。
血の気が、音を立てて引いていくのがわかる。
空は曇天、光る原因とすれば、射撃による光だった。
警戒はしていた。焚き火も最小限に抑えた。しかし、それでも“見られていた”という事実。
しかも、閃光の出どころは遥か3km以上先、丘の頂に乱立する針葉樹の隙間――そんな場所から、焚き火の明かりに照準を合わせたというのか。
勝治は即座に萬の頭を押さえ、自分も腹ばいになる。
その直後、車体に何かが当たる乾いた衝撃。
一拍遅れて、空気を裂く銃声が響いた。
「なに!?」
萬が飛び起き、ワン太が警戒して唸る。
勝治は舌打ちして顔を伏せた。
「狙撃だ」
「ど、どこから!?」
動揺する萬とは対照的に、ワン太は唸りながら狙撃方向を見ていた。
勝治もその先に目を凝らす。
車体にできた小さな穴。そこに焦げた痕がある。
「……右上にズレた。どうした、畑」
数キロ離れた山の丘。
伏せた体勢でスコープを覗く男――畑の横で、スポッターの東がぼそりと呟いた。
「……少し甘かったんだ」
畑はそう言うと、薬莢を排出し、小さな青いハンカチの上に丁寧に並べた。
その横には、残弾が6発。
彼はその中の1発を口に含み、カラカラと転がす。東が顔をしかめる。
「……まだその儀式やってんのかよ」
「辛くないと、当たらないんだよ」
畑はスコープから目を離さず、薬室に弾を収めた。
彼らのスコープは赤外線対応。
この辺りの感染者は既に殲滅済みで、新政府の巡回兵が代わりに配置されている、東が確認した時も、動く熱源はなかった。
「さぁ……出てこいよ」
萬は恐怖に震えていた。
ワン太も動けず、勝治はその場で必死に考えを巡らせる。
あの距離では普通のスコープじゃ視界が暗くなる、つまり、相手は赤外線か暗視スコープを使っている。
新政府の兵装なら、それは現実的な話だ。
勝治は一言、つぶやいた。
「ありえなくはない……」
すぐさま土を掘り、腐葉土に水を混ぜて泥を作る。そして、ワン太に塗り始めた。
「ちょ、なにしてんの!?」
萬が思わず叫ぶ。泥と腐葉土の臭いが鼻を突く。
だが勝治は構わず、自分の顔にも塗りたくる。
「……俺の言う通りにしろ」
1時間が経過した。
畑と東は、スコープを構えたままじっと待つ。
微動だにしない、まるで森に溶け込んだ小さな木のように。
まばたきすら計算し、息を整える。
彼らは元自衛隊、こういう張りつめた沈黙は慣れたものだ。
その時、一瞬乾いた破裂音が聞こえたかと思うと、丘の中腹を滑るように動く熱源が、赤外線スコープに映った。
「左下に降りていくぞ!」
東がスコープを動かした瞬間、その動きに違和感を覚える。
「これは……四足? 犬か?」
判断が一瞬遅れた。
東は国道方面にスコープを向ける。
そこに、かすかに揺らめく熱源があった。
「まさか……やりやがったな」
赤外線を吸収する泥、熱源となるカイロ。
そして“女を撃つな”という命令。
東が呆れたように笑う傍らで、畑がスコープを外す。
「……当てれるか?」
「当たり前だ」
畑は簡素なアイアンサイトに目を当てた、目標との距離おおよそ2.9km、アイアンサイト、そうでなくとも当てるのは至難の業。
その先に立っていたのは――勝治。
呼吸、姿勢、勘。
それらすべてを頼りに、畑が引き金を引いた。
国道に出た瞬間、勝治は手を叩き、ワン太が走り出す。
背中には貼り付けたカイロ。萬と勝治は泥だらけ。
萬は最後まで反対していたが、勝治が押し切った。
2人が国道を駆ける間、銃声は鳴らない。
成功したか? そう思った矢先――
「っ……!」
勝治の左腕が撃ち抜かれた。
痛みはない。
アドレナリンが麻痺させている。
2人はすぐ森へ飛び込み、樹の影に身を隠す。
勝治は腕を確認し、骨が無事であることを確かめてから、紐を使い脇下を縛る。
「大丈夫……?」
萬が震える声で問いかける。
勝治は片頬を吊り上げ、息を吐いた。
「一泡吹かせたら、手当する」
あの狙撃手を放っておけば、いつまた狙われるかわからない。
――なら、始末するまでだ。
勝治の中に、静かだが激しい決意が燃えていた。