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カニッツァロの一人娘は母親を早くに亡くし、使用人たちよって裕福に、何不自由なく育てられた。幼い頃から美しく優秀だった彼女は、国に二人といない才色兼備の女性へと成長した。
彼女の美貌は青い紫陽花と讃えられた。いつも清らかな笑みを浮かべてさえいれば、あらゆることが思い通りになる。彼女は、簡単に操れる退屈な人間たちを見下していた。そつなく振る舞いながら、内心で高慢で冷酷な精神を育てていた。
この娘には許嫁がいた。家同士の取り決めで選ばれた良家の長男であったが、大人しすぎるため娘はすぐに飽きてしまった。
彼女が夢中になったのは、やや粗野で強引な次男の方である。彼の方も絶世の美女にすぐにのめり込み、二人の秘密の仲は深まるばかりだった。
しかし婚約させられているのは兄の方、次男は実家を継ぐことになっている。このままでは彼らが結ばれることなどありえない。娘は成人し、期限も迫ってきていた。
そこで彼らは考えた。兄を消してしまえばいいのではないかと。
「あいつは親戚の子供によく構っている。その中に成人が近い女がいるんだ」
「夜会のときを狙いましょう。その二人を心中に見せかけて…」
「俺が繰り上がりで今の兄貴の座、お前の相手に収まるんだ。家は下の弟に継がせる」
「程度の低い女と浮気されて、あげく死なれたのだから、私は同情してもらえるはずよね。傷心の私に優しくしてくれたあなたと結ばれる…皆私たちを祝福するわ」
作戦は実行された。他国から非常に高度な魔術師が秘密裏に雇われた。 夜会当日、兄はメイドに変装した魔術師の催眠術にかかった。
「お前はあの娘を望んでいる。小部屋に誘い出し、殺してしまえ。その後、自死せよ」
これでうまくいくはずだった。
だが、計画には誤算があった。標的が反撃したこと、謎の不審者、そして魔術師に、考えなしに化粧品まで盗むような盗癖があったことである。
「ーというのが、事の次第だそうだ」
ベッドの上で、大の字にひっくり返ったままスペアが言った。ドレスから着替え、すっかりいつも通りの格好に戻っている。
あれから散々事情聴取を受けたのちにようやく解放され、アヴォカド家の一室で休んでいるのだった。
「○〒@…」
傍まで這っていった赤ん坊が、眉を下げてその額をなでる。
「ありがとう…少し楽になった気がする」
「まったく、大変だったね。ロボットでも疲れるんだな」
ハイネはその隣にいた。指の長い手がシーツの皺に沿って置かれている。
「体は疲れないが、こうも予想外のことだらけだとげんなりするものだ」
「犯人はどうなったの?紫陽花と…弟だっけ。垂れ目の」
「拘留中だ。直に処分が決まるらしい」
「わたしらの邪魔がなかったとしても、計画がうまくいったのかねえ…手癖の悪いやつなんか雇っちゃってさ」
「どうだろうな。本人達は自信があったのだろう。あのとき言われた『人生最良の日』とは、先はないという意味だったのだな…私はハイネが真犯人にたどり着いていたと聞いて驚いたが」
「まあ、紋章があったとはいえ、口紅一本で詰め寄ったのは強引だったね。うまく自白してくれたけど」
「ε⊆☆」
「あの口紅は母親から贈られた形見だった、とどこかで聞いたな。同じ色の口紅はたくさん持っていたから、盗まれても気づかなかったそうだ」
「へえ」
部屋の小窓からは、わずかに橙色の光が差し込んでいる。
「あのあとの捜査も迅速だった。隙あらばのし上がりたい他の貴族達が、ずいぶん協力したようだ。許嫁ースタニズラオ氏は催眠にかかっていたときのことは何も覚えていなかった。彼の部屋には、かねてより、マリイアさんからの熱烈な手紙……の偽造品が届けられていたとか」
「あー催眠の下地作りね。魔術師がよくやんのよ。でも、これからどうなるんだろう?」
「ひとまず、『マリイア・アヴォカドは事件で心身共に大きなショックを受けて、田舎で静養することになった』ということにして、しばらく詮索の手から逃れる。本人はもう馬車で出発したようだ。もともと社交を好まないからと気楽そうにしていたらしいが、今後のことを考えたら、すまないことになった」
「向こうからはむしろ謝られたけど…ほとぼりが冷めたら戻ってくるのかな、お嬢さんも」
「あの日あったことは全て伝えた。あとは他人に聞かれても、上手く合わせてもらうしかない」
「@」
「そういえばさ、マリイアさんは夜会の翌朝に今までの熱が嘘みたいによくなったんだって言ってたよね」
「それがどうかしたのか」
「…熱が出たのは偶然じゃない気がして」
「?」
「*?」
「だってさ、もし何事もなく夜会に行ってたら、無事ではすまなかったはずだよ。あんただったから太刀打ちできたんだ。ちょうどのときに原因不明の高熱、危機が去ったら完治…誰かが、行くのを止めたみたいに」
「誰かが」
「この家に幽霊はいないみたいだけどね。死者がみんななれるわけじゃないから」
「…母親の護りか?」
「……寝込んでる間、マリイアさんはやっぱりあの栞を手に持ってたらしいね」
三人は再度、机の上の写真を見やった。
手元の栞。刺繍の小さな赤い花。
「紫陽花だ」
「……」
「……」
「…」
「…紫陽花は、土の成分で色が変わるけど」
ややあって、ハイネが口を開く。
「そうだったな。ハイネが自分で言っていたことだ」
「うん。青い花も別の土に植えていれば赤だったかもしれない。逆もしかり」
「ああ」
「環境次第で花は大きく変わってしまう。そこに花本来がもつ素質って、どれくらい影響するんだろうね」
「……難しいことを言う」
「いや、…」
「…」
しんとした部屋に、しばらく時間が流れた。
スペアは四肢を引き寄せて身体を起こすと、頭を振りながら言った。
「くつろぎすぎてしまったな、急いでここを発たなくては」
「?なんで?」
「犯人の証言から、新たな関係者の捜索が始まったそうだ」
「₩∑○?」
「どんな」
「『子連れの女の…』」
「………あ」
「………@」
ばっちり心当たりのある二人の顔がひきつった。
「…思いっきり顔見られてるわ。絶対ごまかせない。あれだろ、化け物とか言われてるんだろ、わたし」
「詳しくは知らんが、今夜、男爵がお戻りになったらご挨拶をして出よう。幸い新月だ、闇に紛れるにはちょうどいい」
「Å⊇」
スペアはベッドを降りて立ち上がると、靴を履き直した。
「昨日、私が事件に巻き込まれやすいというようなことを言っていたが、ハイネもそういうところがあるのじゃないか」
「あれ聞こえてたの?そりゃ勝手について行っちゃったけど…だってさ、見たかったんだもの。夜会でのあんたを…いやあ、絶世の美姫だった!」
「△$+☆!」
ハイネは笑いを含んだ声で讃え、赤ん坊は笑顔でぐっと親指を立てた。
スペアは目だけを動かして彼らを睨んだ。可憐な美少女の面影などない、ものすごい表情であった。
マリイア・アヴォカドは、誰もが目を見張る美貌と夜会での悪事を未然に防いだ機転から、国中にその名を轟かせ、社交界から消えた「青い紫陽花」の代わりに、「赤い紫陽花」と呼ばれた。本人は静養先での穏やかな暮らしを好んでなかなか人前に姿を見せなかったが、それが返って幻の花との評判を高め、姿を見たい、近づきたいと訪ねてこようとする者は後を絶たなかった。
これに伴い、アヴォカド家の名声も大きく高まった。しかし父である当主は、夜会に参加させた「娘」を危険な目に遭わせたことを深く悔やみ、いかなる栄誉にもこだわらず、ただマリイアの幸福を最優先として静かに余生を送った。
なお、殺人未遂の犯人達が邂逅した「子連れの女の魔物」については、国中が捜索されたものの、とうとう見つかることはなかったという。




