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「そろそろ終わりますかね」
「はい…本当にありがとうございます」
「いやいや、私どもはなにもしてませんし」
「もちろん私も付き添いで会に出席して、できるだけスペア様をお助けします」
ハイネと男爵は、同じ客間で雑談を続けている。
悲痛な頼みに、あっさりと「分かりました」と答えたスペアは、早速一人の侍女に連行されていった。残された彼らは身支度が終わるのを待っているのだった。赤ん坊はいつしか眠ってしまっている。
(あいつ、うっかり腕や足が取れたりしてないだろうな…)
ハイネがひそかに気をもんでいると、男爵が言った。
「今更言うのもなんですが、無茶なお願いでしたのに…」
「スペアは純粋でお人好しなところがあるんです。頼まれると断らないというか…今までよく危ない目に巻き込まれてきたらしいですけど、そんな性格のせいもあるんでしょうね」
「お優しい方なのですね」
頷く男のべったりとした黒髪を見たハイネは、ふと思っていたことを口にした。
「そういえば娘さんは赤毛でしたよね」
「妻譲りです」
彼は切なげに目を細めた。
「写真でもご覧になったでしょうが、娘は読書が趣味の大人しい子です。幼い頃から母親に読み聞かせをしてもらうのが大好きでした」
「奥様に」
「あの子は穏やかな性格も妻によく似ています。妻は体が弱く、娘が5歳の時に病気で命を落としました。亡くなる前、娘のために布の栞をいくつも作ってやって、お守りだといって渡していたものです。娘は葬儀の日もずっと、それを握りしめていました…」
ハイネは写真の少女の手元を見やった。丁寧な花の刺繍の施された栞が右手の下にある。
「そうでしたか…」
ハイネが瞼のない眼をぐりっと動かすと、彼は「ひっ」と顔をひきつらせた。
「す、すみません、二度も」
「いえ、あの、蛇がお嫌いだったりしません?」
「えっ、蛇ですか…蛇だけは昔からどうしても苦手で」
「じゃあ、なおさらおっかなく感じるでしょうね。わたしの眼は蛇の眼ですので」
「蛇の…?」
そのとき、トントンと扉を叩く音がした。
「旦那様、お支度ができました」
「入りなさい」
促されて開いた扉から、少女が姿を現した。
部屋の二人は息を呑む。
裾が大きく広がった薄桃色のドレス。無造作に伸びていた赤い巻き毛は同じ色の髪飾りで整えられている。肘まで白い手袋をはめた華奢な腕、細い首、そして眼鏡の外された顔には大きな両目がきらきらとまたたき、唇は薔薇のつぼみのようである。まさしく華やかな美少女であった。
「おーすごい!どこからどう見てもお嬢様じゃん、ねえ」
ハイネが振り返ると、男爵が立ち上がって手を叩いている。
「素晴らしいです。お美しい…紫陽花姫にも劣りますまい」
「大袈裟だな…」
無表情のままだった美少女は眉を寄せる。その表情でハイネは「あ、いつものスペアだ」と笑った。
「もうすぐお迎えがあるはずですので、参りましょう」
再び慌ただしく連れていかれるスペアを追うように、「私も行かなくては」と男爵がつぶやく。
「どうされました?」
その顔がどこか悲しげなのを見たハイネが言った。
「いえ…娘に着せてやりたかったと思いまして」
彼はぽつりと返した。
「確かにそれが一番でしたけどね。娘さんのご様子は?」
「少し落ち着いたようです。使用人たちが付いていてくれています。万一感染があったらと、私は部屋に入れてもらえず、顔を見れませんが…」
「そうですか」
「…うまくいくでしょうか」
「だーいじょうぶ、うまくやりますよ。今後の娘さんのためにも。それに、あいつ今かなり機嫌いいですよ、分かりづらいけど」
「え?」
ハイネは苦笑いした。
「おしゃれをすると楽しい気分にならずにはいられないようですね。こんなきっかけでも…」
迎えの馬車は、許嫁だという件の親戚が出したものだった。
「我が家からは馬車を用意できず…ご厚意に甘えています」
恥ずかしそうな男爵から、スペアは馬車の中で詳細な説明を受けていた。
「新成人は白い手袋をつける決まりです。夜会の間は外さないでください」
「はい」
「到着したら新成人は一旦東側の入り口に集められます。そこから順に入場して…」
馬車は石畳の道を走り抜け、やがて山のようにそびえ立つ宮殿にたどり着いた。




