転生悪役令嬢の成り下がり
バッチーンッ!!
「……おっ、お姉さま……?」
頬をひっぱたかれたはずみで床に倒れ込んだ妹に蔑むような視線を送る。当の本人は一体、何が起こったのか分からず、じんじんと痛み始めた頬に手をあて、呆然としている。
(そりゃあ、そうよね。今まで一度だって、やり返したことなんてないもの)
いかにも、“私が主人公です”と、いわんばかりのピンクゴールドの髪。うるっと涙を溜めた薄紫の瞳。そして、庇護欲をそそる細い手で抑えた白く透き通った頬に、少しずつ赤みが差していく。
「これは……何事だ?」
そこに現れたのは妹の兄、そして、私の兄でもあるこの侯爵家の嫡男オレアンダー・アーネスト。
今の構図は誰がどう見ても、私が“悪役”である。それはもちろん、彼から見ても。
アーネスト侯爵家は複雑だ。
私の父ゼフィランサス・アーネスト侯爵には三人の妻がいた。――正確にいえば、今の妻は三人目の妻である。
一人目の妻は兄を産んだあと、産後の肥立ちが悪く、天に召されてしまった。
元々、家同士の定められた結婚だったのだが、またしても家の定めにより、二人目の妻――私の母と結婚した。
父の見目麗しさと、神の加護を受けている強大な魔力に、密かにずっと淡い恋心を抱いていた母は、突然、天から舞い降りてきた幸運を喜んだ。
しかし、そんな幸せは一瞬にして消え失せた。
侯爵夫人として、妻としての扱いはしてもらえたが、愛してはもらえなかった。実は父には、ずっと想いを通わせていた令嬢がいたのだ。
父の愛はすべて妾となっていたロザリー――今の妻に向けられていた。時期を同じくして懐妊したが母は出産後、心を壊し、少しずつ弱っていった。
私が五歳になった日。静かに息を引き取った。
父は亡くなった母や私に顔を見せることはなく、喪が明けるとすぐにロザリーを妻に、そして、ローズマリーを娘として迎え入れた。
義母はまるで聖女のように柔らかく優しい雰囲気のおっとりとした女性だった。
いつも病床で愛に飢え、カサカサに弱っていった私の母とは正反対である。
妹のふわふわと舞うピンクゴールドの髪は何とも庇護欲をくすぐる……のだろう。にっこり微笑まれれば、一瞬にして絆されてしまう。
父は、私が今まで一度たりとも見たことのない、緩んだ顔で毎日、上機嫌であった。
私の唯一の救いは同じ立場である兄がいることだった。彼もこんな想いをずっとしてきたのだろうか。とはいえ、彼は自身の母との記憶はないだろうから、比べようもないのだろうけれど。
それでも乳母より母の温もりが恋しい日もあったと思う。病床だったとはいえ、私は五年、母と過ごせたのだから。彼からしたら、私も妹と変わらないのかもしれない。
そんな愛に飢えた七歳の子どもの前に舞い降りた美しい女神と愛らしい天使。
私にも彼女たちのような華やかさがあれば、彼の心を癒やすことが出来たのだろうか。彼女たちは、あっという間に兄の心までも奪っていった。
(また、何も出来なかった……)
物心ついたときには気づいていた。私には別人として生きた記憶がある、ということに。
ただ、記憶は朧げだったし、自分自身が幼かったこともあり、あまり気にしていなかった。
侯爵家の娘である私は、その名に恥じぬよう幼少期より高等教育を叩き込まれていた。
前世の記憶が役立つ部分もあったが、何せ世界が違う。マナーなどはイチから覚え直しだし、小難しい法律など、まるっきり違うのだ。頭がパニックである。
歳を重ねる毎に理解した。
どうやら、『転生』というやつらしい。
そして、間違いなく妹も“転生者”だということ、彼女は私と同じ世界から来たということ、さらに、彼女が私を“悪役令嬢”だと言っていることを知ってしまったのである。
ローズマリーは事ある毎に私を“悪役令嬢”に仕立て上げた。
『お姉さまが取った』
『お姉さまが叩いた』
『お姉さまのせいよ』
屋敷内での私は次第に居場所を失っていった。
父も、義母も、兄も、使用人も。皆、ローズマリーを信じた。
(何で……? 私はローズマリーと仲良くしたいのに。私が何をしたというの?)
ずっと、ずっと、疑問に思っていた。
妹のいう“悪役令嬢”というのが何なのか。
そして、ある日、朧げだった記憶が鮮明化した。
前世の記憶の中にそういう類の小説があったことを。そして、どうやら私がその“悪役令嬢”らしいということを。
(馬鹿馬鹿しい)
今まで、なぜ仲良くしようと思っていたのか。
相手にはその気がないというのに。
前世の私もそうだった。
揉め事が嫌いで、家族は常に仲良くあるべきだと思っていた。
そう、刷り込まれていたのかもしれない。
かつて私には弟がいた。
頭が良くて、性格の良い男だ。
――対外的には。
実状は身勝手な、ただの子どもオジサンだった。家族には横柄だった。外面だけが良かったのだ。
そもそも、私の家系は先祖を重んじる家だった。墓参りは必ず集まり、親戚、家族の繋がりを大切にする。
それが悪いとは今でも思ってはいない。ただ三者三様、十人十色といわれるように、人それぞれ見方、感じ方が違うのだ。それなのに押し付けられ、なかばそうでなければいけないかのように育てられてきた。
姉は我慢すべき。
両親は私にずっとそれを強いてきた。姉弟、同じように与えられた物も彼が壊したり、失くしたりしたら、私のものを自分のものだと言い張り、両親にねだった。そのたび、私は差し出していた。
自衛もした。自分に与えられた物には、こっそり名前を書いた。それでも両親は『姉は我慢すべき、弟に譲るべき』と弟の願いを叶えてきたのだ。
いつしか、諦めるようになっていた。
思春期には『消えていなくなりたい』と思っていたこともあった。
私は、区切りをつけた。
自分の人生を諦めてはいけない。自分は、自分のために生きなければ、と。
成人すれば、法的に契約を結び、一人暮らし出来る。それまでは我慢しよう、と。
家を出て生活し、そのうち、結婚して、自分の家族が出来た。子どもも生まれ、順風満帆だった。
そんな時、両親が他界した。
葬儀や相続のことで弟と久しぶりに会った。相変わらず、自分本位だった。
『姉さんは俺を理解しようとしない』
『余分な家族を持つことを決めたのは姉さんだろ』
『父さん母さんは姉さんの子どもにいろいろしてやってただろ? 俺はしてもらってない』
『その分、貰えなければ、平等じゃない』
『裁判したって構わない。困るのは姉さんだよ』
なんとも恐ろしい考えである。
比較対象が姉弟ではなく、甥姪まで入っているのだから。自分が家族を持たないことを選択したにも関わらず。言っていることが矛盾している。
本人は至って正当、自分が常識的であると思っているのだろう。だからこその“裁判しても構わない”なのだ。
裁判すれば、恥を晒すのは自分だということも、きっと理解出来ないのだろう。何せ自分こそが“間違いなく正しい”と常に思っているのだから。
私は口を噤んだ。私は逃げていたのだ。拗れることを恐れ、家族を失いたくなかったから。
でもきっと、それは間違っていた。
この世界に来たのは、そんな私に対する神の報復なのだろうか。もしかしたら、前の世界で私がしがみついていたものはとても価値のないものだったのかもしれない。
そう考えると、自分本位の話が通じない弟がただ妹になっただけで、我慢を強いる両親も、何も変わっていない。そして、私自身も。このままいくと、前の世界と同じことを繰り返すだけ。
ならば、私はこの世界で思い切り悪役に成り下がるべきだろう。
まるで、どこかの国の王子様かと見間違うほどのキラキラオーラを纏った兄の姿を見た妹は、助けを求めるようにすがりついた。
「お兄さまぁっ! お姉さまがっ……ひっく」
いつものように泣きすがる妹を優しく抱きしめながら、凍てつくような視線を私に向ける。
いつものことだ。――本当に叩いたこと以外は。
「また、か……」
はぁ、と溜め息交じりに吐き出した言葉に、いつもであれば呑み込んでいた言葉を吐き返す。
「ええ、また、ですわ」
「――え?」
にっこりと微笑むと、兄も妹も呆気にとられた。
「いつものこと、でしょう? 何を今さら」
「で、でもっ! とても痛かったわ!!」
「だ、か、ら! いつものこと、なのでしょう? ローズマリー。あなた、頭悪いの?」
兄の後ろに隠れ、涙ぐむ。
「そうそう、他にもあったわよね? 私がいつもしていること」
「え……」
妹がビクリと肩を上げる。
「何だったかしら……? ローズマリーのドレスをズタズタに引き裂くとか、お気に入りの装飾品を捨てるとか、課題のノートを破り捨てる、なんかもあったわね」
ローズマリーの部屋を一周りし、すべてを実現させていく。
「やめて! やめてよ、お姉さま!!」
「なぜ?」
ローズマリーが一番気に入っているドレスを引き裂く手を止め、理由を聞く。
「いつもされているのだから、いいじゃない」
「……いい加減にしろ」
兄が低い声を上げた。
「あら? 何年も言われ続けてきたのに、お兄様が実際に目撃するのは、初めてですわね?」
兄はハッとしたように目を見張った。
「今までは、何を根拠に私の仕業だと思っていたのでしょうね? まさか! 直接、見たわけでもないのに私がやった、と?」
「……っ!」
戸惑ったように、瞳を左右に揺らす。
「ウィステリア」
騒ぎを聞きつけた父が、ローズマリーの部屋まで駆けつけてきた。
「あら、お父様。お帰りでしたの?」
「ウィステリア、これは何の真似だ」
泣き腫らしたローズマリーと悔しそうに顔を歪める兄オレアンダー、そして、引き裂いてボロボロになったドレスを手にした私。その光景を見た父は私に怒りの視線をぶつけた。
「何って、いつものことをしているまで、ですわ」
「何だと?」
「何年もずっと、いつもしてきたこと、ですわ。お父様もご存知でしょう?」
眉間に深く皺が寄る。
「もういい。ウィステリア、部屋へ戻れ」
「そうさせていただきます」
ボロボロの布切れをポイッと放り投げると、ツカツカと部屋を出ていった。
背後にはその布切れを見て、今の出来事を思い出した妹のすすり泣く声がまた聞こえてきていた。
◇◇◇◇
それにしても――
(あーっ! 痛かった!! ひっぱたいた私の手の方が痛いっつーの!)
今でもじんじんとする右手を口をへの字に曲げてさする。
でも、何だかスッキリした。はじめから、こうすればよかったのだ。前の世界でも。
分かり合えない人は必ずいる。それは他人でも、家族でも変わらない。
他人から見える私は、どんな人間なのだろうか。それこそ、十人いれば、十通りの見え方があるのだろう。そんなのいちいち気にしていたら、キリがない。
それなら、自由になるために、縁を切ってもらおう。お望み通りの“悪役令嬢”に成り下がって差し上げますわ。
それからの生活は明るく開けた。周りを気にせず、したいことをして過ごした。
ローズマリーが私に何かをされたと言えば、それを実現してあげる。
今までだって、そうだったのだから。
やりたくない課題を捨て、やらずに済まし、古くなったドレスを引き裂き、新しいものを買ってもらう。小遣いが足りなくなれば、装飾品を捨てたといって売り飛ばす。すべてを私のせいにして。
これからは、本当に私がやってあげるだけ。妹の思い通りになどさせるものか。
やっとの思いで終わらせた課題を燃やし、新しいドレスを裂き、お気に入りの装飾品は売り飛ばして寄付をする。
極めつけは――
「アドルフ殿下」
「ウィステリア……君はまたローズマリーに嫌がらせをしているの?」
「また? ローズマリーはアドルフ殿下に何をお伝えしたのです?」
「君が……彼女のドレスを引き裂く、と。だから、新しいものを僕から贈ることにしたよ」
「まぁ、そうでしたの」
なぜ、なりたくもない王太子の婚約者になり、やりたくもない妃教育をやらねばならないのか。その上、妹は王太子にベッタリとくっついている。彼も満更でもなさそうだ。
ならば、妹が王太子の婚約者になればいい。妃の座などいらない。王太子も妃教育もくれてやるわ。
家同士の決めた結婚がどれだけ悲惨なのかは、身を以て知っている。そして、愛されることがどれほど幸せになれるのかも。
ただこの世界で自由に恋愛することが難しいのも知っている。だからこそ、私は自由がほしい。そのためにも、悪役に成り下がり、今の状態から解放してもらわなければ。
昔、家に出入りしていた庭師の息子と遊んだことを思い出していた。思えば、あれが初恋なのかも。
『いつか、お嬢様を迎えにいくよ』
花が咲き誇る庭で、そう約束した。降り注ぐ太陽と、私にそっと差し出したヒマワリが似合う男の子だった。
名前は……確か――
◇◇◇◇
「さすがにやり過ぎだ、ウィステリア」
「何のお話です?」
屋敷に戻ると、父、義母、兄が揃っていた。
ソファには頭や手足に包帯を巻き、痛々しい姿のローズマリーがいた。
「階段から突き落としたそうだな」
は、はーん。なるほど。さてはローズマリー、実践のテストを受けたくなかったのね。
妹は努力をしない。
いくら主人公だったとしても、何もせずに力など手に入るわけがない。どんな小説の主人公なのかは分からないけれど。
「それはいつの話です?」
「今日の午後、学園で」
「さようですか」
午後は妃教育で学園にいませんでしたけどね。
「もうこれ以上は我慢ならん」
ダン、とテーブルを拳で叩くと、
「家族に危害を加える者を、家族としておいておくわけにはいかない」
今までは家族だったの? 驚いた。そういう認識だったとは。そして、事実確認もせずに――まぁ、今までずっとそうだったから。
やっぱり、人は変わらない。
そして、自分が正しいと思っている人には、何を言ってもムダなのだ。分かり合うことは、ない。
「この家から出ていけ」
やっと、自由になれる。
「はい。仰せのままに」
王太子との婚約を解消し、侯爵家から除籍され、家から追放された。
――私の新しい生活は、ここから始まる。
やりたいことはたくさんある。
まずは寄付をしていた修道院へと歩き出す。
「迎えにきましたよ、お嬢様」
「え……?」
目の前には昔の面影が残る青年。
大きな樹の幹に背を預け、腕を組み、昔と変わらない笑顔で、私に向かい微笑んでいる。
手には、一輪のヒマワリ。
「――アッシュ?」
「そうですよ? 嫌だなぁ、忘れちゃったの?」
ひょいと肩をすくめた彼に、思わず、クスリと笑ってしまう。
一瞬にして、昔の記憶が蘇る。
母が儚くなり、一人ぼっちだった私にそっと寄り添って、笑いかけてくれた唯一の人。私の『初恋』。なぜ、ずっと忘れていたのだろう。
必死だった。あの約束を忘れてしまうほど。でも彼は覚えていてくれた。そして、その約束を果たしに来てくれた。
不意に胸が熱くなった。
「え……お嬢様?」
目の前の笑顔が急に消え、慌てた様子になる。
(ダメよ……私はあなたの笑った顔が好きなのに。そんな顔しないで)
差し出されたハンカチに、ハッと気がついた。
――私の頬が濡れていることに。
気づけば、涙は止めどなく流れていく。まるで、今までのことをすべて洗い流すかのように。
突然、ふわりと何かに包まれた。
耳元で規則正しい鼓動が聞こえる。少し早いその鼓動を誤魔化すように頭の上から優しい声が降ってくる。
「側にいます」
「ずっといてくれなかったわ」
その声の主を見上げると、バツが悪そうな顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「こっ、これからは……側にいます……」
私の頭を両腕でそっと抱え込むと、ぎゅうと胸の中に収められ、彼の顔が見えなくなる。
張り詰めていた心が、軽くなっていく。
「さぁ、行きましょうか」
澄み渡る青空が、どこまでも続いていた。
※改稿しました。ご指摘いただき、ありがとうございました!
※続く物語を書き始めました。ご覧いただけると、嬉しいです。
『魔法の花屋は、今日も花言葉に想いを込める』
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