明日は何処へ
その日行われた全校朝礼は、とある生徒の訃報だった。
担任の教師は始終床を凝視しており、それはまるでマネキンの様だった。
館内で響く鼻をすする音と、マイクで拡張されて壁に響く校長先生の言葉が亜理紗の耳を右から左へと流れていく。
みんな若いのに花粉症なのかもしれない。
もしかしたら、春先だからまだ体育館が寒い子もいるのかもしれない。
暑がりの亜理紗はもう半袖だ、理希也だって昨日は半袖だった。
まだ学校に現れない理希也、そんな彼の話が今日の朝礼のメインだ。
訃報、残念なことに、まだ幼い命が失われ…たくさんの表現で今、理希也がここに居ないということを伝えてくれる校長先生。
そして重々しい空気の中受け取る生徒。
そんな中で亜理紗はこれが夢か現実かわからなくなっていた。
胸のモヤモヤは身体中に広がって、閉め切った体育館の中は暑いのに体は冷たい。
頭も足もふわふわして、床がマシュマロのようだ。
校長先生が何を言っているのか、全くわからない。
隣の女の子がなんで泣いてるのか、全くわからない。
その後、この日の授業は無くなった。
担任の先生から出された課題は、『亡くなった理希也くんへの手紙』という作文。
1時間使って書く間、教室内にすすり泣く音が響く。
亜理紗は困った。
何を書けばいいのだろう。
『なくなったりきやくんへのてがみ』っていうのはなんの呪文だろうか。
この夢が覚める、『開けゴマ』的ななにかか?
やっとの思いで書いたのは、『なんて書いたらいいかわからなくて、ごめんなさい。もっと遊びたかった』だけで、作文ですら無かった。
それを2時間目にみんなが発表した。
亜理紗が読むと、担任の先生が泣いて叫んだ。
何故、みんなが『ごめん』というのか。
もっと話したかった、ごめん。
もっと優しくすれば良かった、ごめん。
ゲーム貸してあげれば、本を貸してあげれば、喧嘩をしてしまった、仲間外れにした、ごめん。
もっといい思い出は無いのか、書けないのか。
担任の先生の言葉は尤もだが、それは酷な話だ。
この教室にいる担任以外の人間はみな、小学生だった。
まだ、命の意味も失う悲しみも理解しきっていない。
人の死に正面から向き合ったことの無い子どもがほとんどだ。
むしろ、そんな経験をした子どもがこの学校にどれほどいると言うのか。
小さな命が消えた、あんな形で。
その事に憤り、悲しみ、辛さをしっかりと受け止めることが出来ていたのは、ある意味担任だけだったのだ。
亜理紗の中にもたくさんの楽しい記憶がある。
笑ったこと、遊んだこと、授業中にコソコソ喋って担任の先生に怒られて喧嘩したこと、そのあと仲直りしたこと。
でも、過去ではない、夢でもないのだ。
だって、理希也は昨日言ったのだ。
『また、明日』と。
「…ただいま」
「え、おかえり??え?なんで?早くない??」
急なことでその日は2時間で帰された。
保護者の方に必ず渡すように、と預かった手紙を手に、亜理紗は母親の元にノロノロと向かう。
「…亜理紗?何があった?」
「…………うん」
覇気のないナメクジのように動く我が子に、母は膝をつき亜理紗の顔をのぞきこんだ。
そこには能面のように視線の合わない瞳が母の顔を探すようにさ迷っていた。
「亜理紗?」
「お母さん、人は死んだら、どうなるの?」
「亜理紗、何があった?」
そこで母はようやく気づいた、亜理紗が持っている手紙に『保護者』と書いてある。
そして、それが訃報を知らせる紙だということ。
その人物が、亜理紗の友人であること。
「理希也、な、死んだって、みんなが言うねん。理希也、どこいったん?」
「理希也が?なんで……」
「わからん、ね、お母さん。理希也はどこに行ったの?」
受け取った手紙を読んだ母は、亜理紗の頭を撫でた。
こんな時、咄嗟になんて答えればいいのだろうか。
先日、亜理紗のひいおばあちゃんが亡くなった時にも母は同じ質問をされた。
ひいおばあちゃんは90歳を超えていて大往生だった。
だから、母は亜理紗に伝えたのだ。
死んだらひいおばあちゃんは居なくなる、でもまたいつかどこかで新しい命として産まれるかもしれない。
そんな考え方もあるのだ、それを輪廻転生という。
生きた年数で決めることでは無いが、今回みたいな時に『生まれ変わるわよ』なんて無責任なことを言える気にならない。
まだ幼い亜理紗と同じ歳の男の子が亡くなった、それを飲み込むのはなかなか難しい。
大人である自分でも難しいのだ、亜理紗はもっと難しいだろう。
いや、母親だからこそ飲み込めないのかもしれない。
母であればこそ、理希也の母親の気持ちを考えてしまう。
もし、自分が亜理紗を失うことになったならば、気が狂ってしまうだろう。
その心境を思えばこそ、亜理紗の問いかけになんて答えればいいのかわからない。
「お母さん、夕方にお通夜に行ってくる。理希也に会ってくるからね」
「亜理紗も行く?理希也に会える?」
「今日はお母さんだけで行ってくるよ。明日はみんな出会いに行けるからね。」
「明日…理希也と遊べる?」
「………亜理紗、あのね」
「ミユキがね、理希也死んだって言うの。笑ってたから、嘘だよね?校長先生も、フホウって言ってた。よくわからないの、お母さん、フホウって何?」
ミユキというのは確か、亜理紗のクラスメイトだ。
理希也のご近所さんでもある。
亜理紗はそこまで頭が悪い訳では無い、たしかに漢字をよく間違えるが読めるし、計算だってちゃんと出来る。
そうじゃない、この子の精神面が著しく混乱しているのだ。
それにまだ小学校を卒業していないこの子に『死』という概念を理解するのは難しく思えた。
世の中には崖から落ちても、敵に再起不能にされても残機さえあれば蘇って飛び跳ねる配管工がテレビの中で活躍し、彼はボタン1つ指1本でコンテニューができる。
そんなゲームの世界に慣れ親しんだ子どもに、1度きりしかないコンテニュー不可能の命を教えるのは根気のいる事だろう、そう覚悟していた。
なのにこんなに早くその機会が来てしまった。
母はそのまま正座をして亜理紗に向き合った。
真剣に、しっかりと、ゆっくり言葉を区切って我が子に伝える。
「理希也にはもう会えない。こないだひいおばあちゃんのお葬式に行ったよね?明日、理希也のお葬式があるから、亜理紗も行くんだよ。」
「理希也…無くなっちゃうの?燃やされちゃうの?」
「…そうだよ。」
「もう遊べないの?」
「うん。」
ひいおばあちゃんのお葬式後、火葬場まで行ったことを思い出したのだろう、亜理紗の感情がどこか遠ざかったような表情に変わる。
昨日まで元気に遊んでいた友人が急に居なくなる、引っ越す訳では無いから直接お別れができる訳では無い。
お葬式はあくまで一方的なお別れだ、死んだ者からの別れの言葉はない。
「お母さん、そこでお話も聞いてくるから。お父さんと麻理奈と待ってて。」
「…うん」
まだ理解できないかもしれない、けれど受け止めなくてはいけない『死』。
この先、この子はどのようにしてそれを受け入れるのか。
とにかく今日、夕方出かける準備を母はする事にした。
今日の夕飯は亜理紗の好きな唐揚げだった。
それは恐らく、母の気遣いだろう。
気落ちしている亜理紗を少しでも元気づけようとしていた。
油物を揚げるのは父の仕事だ、父は調理系の仕事もしていたため手馴れていた。
亜理紗の母が家を出て約1時間、なかなか帰って来ない母に、父が心配の言葉を口にし始めた。
「母さん、誰かと話してるのかな?」
「窓からみてみる?」
「うん、見てみて。」
亜理紗が窓を開けて外をのぞき込むと、真っ暗な空が重たく緑を茂らした桜の上にのしかかっていた。
電灯の明かりも鈍く、話し声も聞こえない。
人の気配がまるで無い重い暗闇。
変わりに初夏の軽やかな空気が室内に入り込む。
「お母さんいないよ。」
「まだ会場かな?」
「亜理紗見てくるよ。」
「1人で大丈夫かい?」
「うん、すぐそこだから」
通夜告別式の会場はご町内の会館だ、亜理紗の足でも歩いて5分程度でついてしまう。
会館の広場ではよく鬼ごっこもする、暗くても迷子になることは無い。
玄関でサンダルを引っ掛けた亜理紗は、乾いた空気に軽い足音を響かせて足を急がせた。
暗い。
街灯が木々に隠されていて、いつも以上にくらい気がする。
この時間、まだ日が落ちきってまもないのに人が全くいないのも不気味だ。
まして、お通夜が行われている会場に向かっているのに、誰とも会わないなんて。
そんな事に疑問も抱けぬまま、幼く、また経験不足な亜理紗は母を見つけられずに会館に着いてしまった。
お通夜には出なくていい、おうちで待っていて、と言われたのに…母には会えず、人もまばらな会館前で亜理紗は困惑していた。
「…亜理紗ちゃん?」
その時、入口から女性が声をかけてきた。
黒服に身を包み、少し窶れて目の下が腫れているその人は、誰かを見送りに出入口まで来たらしい。
亜理紗も知っている、その人は、理希也の母だ。
「おばさん、こんばんは」
「こんばんは。…理希也に会いに来てくれたの?」
「えっと……」
違う、のだが、違う、とは言い難い。
目をさ迷わせていると理希也の母は何となく理解してくれたらしい。
「もし良かったら、会って上げてくれる?亜理紗ちゃんに会えたら、理希也も喜ぶと思うの」
「………は、い。」
寂しそうに、でも、きっと頑張って微笑んでいる理希也の母に亜理紗は「嫌だ」とは言えなかった。
促されるままな奥に足を進める。
変な感覚だ、頭がクラクラする。
足元がふわふわして、お布団の上を歩いてるみたいだ。
周りの音が遠のいて、すぐそこにいる理希也の母でさえ遠くにいるみたい。
会場に入ると、たくさんのパイプ椅子が並んでいた。真ん中を道にするように整列した椅子の間を進むと奥に祭壇とたくさんの花がある。
絶えずに煙を出す線香と花の匂いで包み込まれた空間、祭壇の前に真っ白な横長の箱が静かに鎮座していた。
近づくにつれ、亜理紗の中での違和感が膨らんでいく。
1歩1歩近づくにつれ大きくなる。
何かが、違う。
何か、なんてわからない、でも、違う。
「亜理紗ちゃん。理希也のお顔、見てあげて」
「はい」
ふわふわして、クラクラしている。
自分の行動や言葉が自分で選べない。
そっとその真っ白な箱に手をかけ、そっと中をのぞき込む。
中には、1人の知らない男の子が寝ていた。
不思議に思ってじっと見ていると分かった、これは理希也の寝顔だ。
ーーー違う
青い顔で眠る男の子が、やっぱり白いツルツルした布の中にいる。
ーーー違う、どうして
男の子は微動だにしない、息をしていないから鼻も口も目も少しも動かない。
けれどその瞼は完全には閉じていなくて、薄らと天井を確認していた。
ーーーどうしてこんなことになった
「ーーお母さん、ありがとうございました。」
「うん?…あぁ、お母さんが心配するね。1人で来たの?」
「うん、お母さんを探しに来たの。」
「亜理紗ちゃんのお母さんなら、もう帰っちゃったからおうちに着いてるかもしれないね。」
「ありがとう。また明日ね、おばさん。」
「気をつけて帰ってね」
亜理紗は急いで外に飛び出した。
何かが違う、何が違うかはわからない。
けれど、違う、と叫んでる。
だってあの白い箱の中に、もう理希也は居なかったから。
何処にいるのか、わからないけれど。
どうしてこんなことになったのだろう。
わからない。
どうしてこんな気持ちになるのだろう。
わからない。
わからないけれど、足元のふわふわや頭のクラクラはもうなかった。
ハッキリした意識の中で会場を飛び出すと、暗闇が帰り道に重くのしかかっていた。
葉のお生い茂った桜がやっぱり街灯を隠していて、風が吹く度に不気味な影が動く。
薄ら寒い空気が半袖の下、素肌を気持ち悪く撫でていく。
怖い、と本能的に感じた。
探しに来た母が居ない今、亜理紗は1人だ。
心細くて、寂しい。
今来た道すら歩いて帰るのが怖い。
亜理紗は唇を噛み締めると、一気に家まで走りきった。
勢い良く家に入ってきた亜理紗に父が目を丸くする。
「お母さん、いた?」
「……うんん。会場まで行ったけど、居なかった。」
はぁはぁと息をする亜理紗の背中を、父はよしよしとさする。
その時、後ろで玄関が開いた。
「だだいまー」
「おかえり、あれ?亜理紗、さっき探しに行ってたけどすれ違った?」
「え?探しに来てたの?全然気づかなかったけど」
「会場まで行ったけど、お母さん居なかったよ」
「会場まで行ったの?母さん、すぐそこで話してたよ?」
そう言って母は玄関のすぐ脇を指差した。
そんなに近くにいれば窓からでも玄関出てすぐでも気づくし、話し声だって聞こえるはずだ。
亜理紗はフルフルと首を振った、だって探しに行った時も帰ってくる時も、誰とも会わなかったし話し声も聞こえなかった。
とにかく暗闇だけが広がっていたのだ。
「とにかく、夕飯にしようか。麻理奈もお腹すいたみたいだし。」
リビングから亜理紗の妹の麻理奈がこちらを覗いている。
今日の夕飯はいつもより遅くなってしまった。
亜理紗も麻理奈も好きな唐揚げだ。
油物の匂いで充満した室内を換気するため父が窓を開けた。
そとから初夏の軽やかな空気が入り込んできた。