豊かな青春、みじめな老後
金の北米、女の南米、耐えてアフリカ、歴史のアジア、何もないのがヨーロッパ、問題外のオセアニア、豊かな青春、惨めな老後。
……かつて、タイの楽宮ホテルの壁に書かれていたという落書きで、バックパッカーの間では有名な言葉である。
二十歳の頃、世界を旅するバックパッカーに憧れた。やがて大学を出た俺は、両親が反対するのも聞かず、彼女や友人も反対するのも聞かず、一切就職活動をせず、アルバイトで必死になって金を稼ぎ、パスポートを手に、旅に生きる決心をした。
エアポートを一人、旅立った。自由と夢と冒険を求めて。
……リュックひとつに夢をぎっしり詰め込んで、冒険の旅に出る。むせ返る熱気の立ち込める東南アジアの安宿で酒を酌み交わしながら、旅人同士で友情を深め合う。
椰子の木の下で、褐色の肌の情熱的な美しい女性と、運命的な恋に落ちる。南十字星の輝く星空の元で、ふたりは激しく愛し合う。
まだベッドで寝ている彼女を起こさぬように小屋を出て、砂浜を歩く。爽やかな朝の潮風に吹かれながら、ビール片手に本を読む。
どこまでも、どこまでも広がる青空。どこまでも、どこまでも深いマリンブルーの澄み切った青い海。熱帯の太陽が白く光り輝く下で、青春のきらめきに人生を謳歌する。
どこまでも続く地平線を眺めながら、列車に揺られて夕日を眺める。片手にはビールを手にしながら、俺は詩人となる。
日本では決して味わえないであろう至福のひと時を味わいながら、文明について思いをはせる。あくせくと働き蟻の如く、一生働いていないといけない故国の事を、遠く海外から考える。
ああ、旅に出てよかった。その満足感を味わえるだけで十分だ。俺は、世界から今、日本を眺めることができる。旅に出てからは、何気ない日常の風景も、映画以上に感動的に見えた。
エアポートについた俺は、パスポートを見せて、ゲートをくぐる。そして飛行機に乗り込んだ。
心地よい加速を感じ、一瞬、重力がゼロになったかと思うとぐんぐんと機首を上げて飛行機は空に飛び立った。窓から地上の建物がまるでミニチュアの模型のように見えた。
そして、気がつくと、すでに窓から見える風景は、眼下に雲海が広がり、上空に目をやると、成層圏が、さらに蒼く見えた。
雲を赤く染めている夕日を眺めながら、色々なことを考える。
故郷の家族のこと。彼女や友人のこと。そして、将来のことを考える。
将来?そんなこと、わかるものか。
俺はまだ二十三歳だ。何とでもなる。日本に帰ったら、またその時考えよう。今は、ひたすら、旅をしていたい。できたら、このまま永遠に旅行をして、世界中を回っていたい。
北米大陸のある空港に着いた。俺は、パスポートを係官に提示して無事入国を果たした。空港から、ちょっと古いシボレーを借りた俺は、ひたすら走る。街角で、上手くコルトを購入した俺は、砂漠に向かった。
ルート六六をひた走る。対向車がたまに通り過ぎるが、ほとんど誰も走っていない。目に見えるのは、青い空と、赤茶けた砂漠の大地と、まるで壁のように時折迫ってくる岩山だ。
ここで良いだろう。車から出た俺は、大量のコークの缶を置いて、ひたすらコルトを缶に向けて、ぶっ放した。
ドン!
ドン!
銃声がイヤマフ越しに、こだまする。両手に感じる力強い反動を感じる。コークの缶に向けて意味もなく乱射してみた。コークに命中するたびに、茶色い液体が飛散した。一瞬で砕け散って缶は四散する。
マガジンを五本ほど撃ちつくした。銃口からうっすらと白い煙が上がり、スライドは火傷しそうに熱くなり、陽炎がその上を覆っていた。
……あんな小さな島国では、こんな事も、決して、できないのだ……。
一体、日本人は何を楽しみに生きているのだろう。そんな事を考える。
モーテルに泊まった俺は、ベッドに泥のようにもぐりこんで寝た。枕元には、コルトが窓越しに差し込んできた月光を反射して黒く光っていた。
I want to travel around the world forever.
(俺は、永遠に世界を旅していたい)
翌日。モーテルを出た俺は、ひたすらシボレーを飛ばす。速度計は、すでに一〇〇マイルをさしていた。
時速一〇〇マイルで、アメリカの砂漠をぶっ飛ばす。アメリカンポリスに停められるんじゃないかと思ったが、結局一度もそんな事はなく、俺は東海岸に着いた。ニューヨークで車を捨て、自由の女神を眺めた。それから、大西洋を船で横断する事に決めた。
……大西洋の海原をただ、船はひた走る。三六〇度全ての方向を眺めても見えるのは、青い水平線だ。カモメすらいない。青い海と青い空と白い雲しか見えない。俺は、デッキのチェアーに腰を下ろしながら、先ほど仲良くなった金髪女性と一緒にカクテルを飲んでいた。
「ねえ、日本から来たの?日本はどんな国なの?」
「豊かだが、生きるのがこの上なく辛い国かもしれない」
「そうなの……。ねえ、私の部屋に来ない? もっと日本の話を聞きたいな」
彼女と二人で、席を立った俺は、彼女といつしか手が触れていることに気がついた。熱い胸の鼓動。どうしようもない情熱が、全身からこみ上げてくるのを感じずにはいられなかった。
昼間から、激しく愛し合った俺達は、疲れ果てて、デッキに出て潮風に当たっていた。
隣には、彼女が微笑んでいる。気がつくと、俺は彼女の肩を抱いていた。
「ねえ、知っているかい? 日本人旅行者の間で有名な言葉があるんだ」
「どんな言葉?」
「金の北米、女の南米、耐えてアフリカ、歴史のアジア、何もないのがヨーロッパ、問題外のオセアニア、豊かな青春、惨めな老後」
誰が言ったの?と聞いてきたから、俺は、タイの楽宮ホテルの壁に書かれていた落書きだという事を彼女に説明した。
「豊かな青春、惨めな老後、ね……」
「上手く言っているだろう?」
「確かにそうだけど、そうとも限らないかもよ」
「というと?」
彼女が髪を掻き分けたとき、かすかな香水の匂いがした。
大西洋の風にたなびく彼女の黄金色の髪の毛は、とても美しく輝いていた。どこまでも透き通るような白い肌。どこまでも深い青い瞳。
そして、どこまでも……どこまでも神秘的な彼女は、まるで空からやってきた天使のように見えた。
俺は、胸の鼓動がさらに高まってくるのを感じた。
彼女は、続けた。
「豊かな青春を送った人が、惨めな老後を送るとは、絶対限らないでしょ。
それに、惨めな青春を送った人が、必ず老後は豊かになるとは限らない……そもそも、老後が本当にあるかどうかなんて、誰にも解らないじゃない。
人間なんて、いつ死ぬか解らないのよ。
確かなのは、あるかどうか解らない老後じゃなくて、今じゃないかしら。あなたと私が出会ったのも、神様が決めた運命かも知れない。この今、私の隣にあなたがいる。そして、あなたの隣に私がいる。それは絶対に確かなことだわ。私は、あるかどうか解らない老後なんかよりも、今感じる、あなたのぬくもりを信じる。私には、この今だけが信じられる。私は今、感じているの。二人が出会ったのも、神様が決めてくれた運命だって」
「そうかもしれないね」
俺は、そう言いながら、彼女の肩を抱きしめて、青い水平線を眺めていた…。
――あれから、六十年が過ぎた。
私は、今、何をしているのだろう。
夢のように過ぎた人生をふと振り返りながら、私は楽宮ホテルの壁に書かれていたという落書きを思い出した。
「豊かな青春、惨めな老後」
あれは、嘘だったのだ。
私は、今、信じられないほどに豊かじゃないか。
たとえ、安アパートの一室で、夕日を眺めているだけの生活であったとしても、
私は、まぶたを閉じれば、二十三歳のあの日のことを、昨日の事のように思い出せる。
若い頃、上司に上手く取り入って出世していった大学の同級生たちは、定年後、軒並み大病をしたり、半身不随になったり、ボケてしまったり、死んでしまった。
早すぎる出世は、早すぎる死につながる。
そんな連中よりは、私は、ずっと楽しく生きてきた。
私は、人生の勝ち組なのだ。
……そう思った私は、生活保護費が下りて来るまで、まだ一週間もあることを思い出してしまった。
すでに電気代は滞納し、昨日から電気は止められてしまった。若い頃から一度も定職につかず、旅をしてきた私には、年金はない。
四十歳を越える頃から、バイトすらなかなか決まらなくなり、貧しく暮らしてきた。生活保護を受け始めたのも、その頃からだった。
海外には行けなくなり、結局日本でずっと暮らすことになった。以前は、たまにアルバイトをしたものだが、最近はそれすらほとんどない。
唯一の現金収入は、わずかばかりの生活保護費だ。もちろん、結婚もできなかった。両親もすでにこの世になく、兄弟もみんな死んでしまった。親類縁者もほとんど死に、わずかばかりいる親類とも疎遠になっている。死して屍、拾う者なし、だ。
だけど、私は人生の勝ち組さ。
たとえ電気を止められてしまっていても、それが何だ。
ろうそくをつければ良いじゃないか。
日が落ちた頃、私は、ろうそくをつけた。
暗闇の中、光り輝く炎を見ていると、不思議な気分になる。
「……ふふ。彼女も、嘘つきだったな」
なぜか、二十三歳のあの日のことを思い出した。情熱的な彼女のセリフに痛く感動してしまった私だったが、今となってはもう帰らぬ若き日の、若気の至りだ。
一人、にやっと笑いながら、ろうそくの炎を眺める。
なんだか、眠くなってきた……
寝ちゃだめだ。だけど眠い。
嗚呼、眠いな。
眠い……
朝になった。跡形もなく焼けてしまったアパートの敷地から、偶然、老人の書き残した日記が発見された。表紙はこげていたが、中身は読むことができた。
それには、こう書かれていた。
「金の北米、女の南米、耐えてアフリカ、歴史のアジア、何もないのがヨーロッパ、問題外のオセアニア、豊かな青春、惨めな老後」
「こんなものが出てきたのですけれど」
若い警察官が上司に報告する。
「回収しておけ。また身元を調べてから、遺族に送ってやれ」
「解りました」
若い警官は、その日記を回収すると、再び現場検証を始めた。
「豊かな青春、惨めな老後、か」
独り言のように、つぶやきながら。