『好き』を知らない男の子
夜の学校、そこは通い慣れた場所のはずなのに普段いる時間から数時間遅いというだけで、まるで違う世界かのような錯覚を覚える。クラスメートたちの明るい笑い声も、その笑い声を発する存在も、誰一人居ないこの暗い教室はひどく寂しい。
だけど、今の私には静寂に包まれた空間だからこそとても居心地が良かった。
なぜなら、今私は泣いているから……。
もうどれほどの時間をここでこうしているのだろう。流しすぎた涙はもう溢れてくることはないが、沈んだ気持ちは涙に溺れてしまったのか、浮上してくる気配はない。
こんなんじゃ駄目だ、明日もここで顔を合わせるのにこんな気持ちのままではいられない。切り替えよう、切り替えなきゃだめ!
何度かこうやって自身に発破をかけてはいるが、私の弱い心はなかなか立ち直ろうとしてくれない。誰にも打ち明けられないこの悩みを私はしっかり受け止めなければいけないのだが、私の弱い心はいうことをきかない。
私って、嫌な女なのかな……。
情けなさと自己嫌悪に枯れたと思っていた涙がじわりとこみ上げてきた時、不意に。
「成瀬か?」
と、静寂に包まれたこの空間に似つかわしい静かな声が私を呼んだ。それでも当然私の心臓は大きく跳ね、振り向いた先の教室の入り口からこちらに歩み寄って来る人影を捉えた。頭をよぎったのは宿直の先生に見つかってしまったかということだったが、私に近付き月光に照らし出されたその顔はクラスメートの山中くんのものだった。
「あ、山中くん」
「こんな時間になぜこんなところで泣いているんだ?」
「え? あ、何でもないの」
泣いていたことに言及され、顔がかぁっと熱くなるのを感じる。あ、しまったと思ったが、咄嗟のことで言い訳も浮かばず、そう言うのが精一杯だった。
「そうは見えないが」
「本当に何でもないの。些細なことだから」
「その些細なことを訊いている」
普段全くと言っていいほど会話したことがなく、また山中くんが誰かと話をしているのをほとんど見たことがない私には、こんなふうに何度も訊ねてくることが意外だった。さして興味があるようには見えないものの、それでも山中くんは私の斜め前の席に座る。
「使ってほしい」
「え? あ、ありがとう」
おもむろに差し出されたのは美しい刺繍の入った藤色のハンカチ。ドラマや映画などでイケメン俳優がスマートにこなすのと遜色ない山中くんの所作に、私はついドギマギしてしまう。受け取ってみたが、どうやって使えばいいかよくわからず、とりあえずもう一度お礼を言ってから軽く目元を拭いてみた。すると清涼感と清潔感に満ちた爽やかな匂いが香り、澱んだ気持ちと心を洗い流してくれるような心地良さに包まれる。
「いい匂い。ラベンダーかな? とっても落ち着く」
「そうか」
山中くんの落ち着いた雰囲気と気遣ってくれる優しさが、ラベンダーの香りとともに今の私を癒やしてくれるような気がして、私は胸につかえる思いを打ち明ける事にした。
「実はね。……本当につまらない話なんだけど」
山中くんにとってはどうでもいい話なだけに、そう前置きしてから私は話しだした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「と、いうわけで。ごめんなさい、本当に些細なことなんだ」
山中くんは私が話している間ただ黙って聞いてくれていた。途中に相槌を打つわけでもなく、その整い過ぎたマネキンのような顔と涼し気な瞳を私に向け、私の話に真剣に向き合ってくれているようだった。
「好きならば告白をすればいいんじゃないか?」
山中くんは率直な意見を述べてくれた。確かに、私みたいにうじうじしていても仕方ないのかもしれないけど、私にはとてもそんな勇気はもてない。俯いて首を横に振る。
「そんな簡単にできないよ。振られちゃったら今の関係も崩れちゃうし、何より明日香とも……」
明日香とは本名を橘明日香といい小学校時代からの友達で、今でも一番仲の良い親友だ。そんな親友と同じ人を好きになってしまい、何でも打ち明けられる存在だったにも関わらず、その事だけは秘密になってしまっている。親友を出し抜くような事はしたくないけど、それはあくまで言い訳で私は振られてしまうことが怖いのだ。そもそも同じ人を好きになってしまい、どちらか一方がその恋を成就させたからといって関係が崩れてしまうようでは、それは親友とはいえない。ただの仲良しごっこだ。
気まずい沈黙が流れ、つまらない話を聞かせてしまったことに対する申し訳無さが今更ながらに募る。
「一つ質問させてもらっていいかな?」
「え? うん。私に答えられるかわからないけど」
「好きになるとはどういう感じなんだ?」
山中くんの質問を聞いて、私は、え? と思う。少し口も開いてしまったかもしれない。だけど、山中くんの質問はそれほどに唐突なものだった。
「山中くん。好きな人がいたことないの?」
「そもそも好きって気持ちがわからない。成瀬は知っているようだから訊いてみたんだが」
好きな人がいたことがないというのならわかるが、好きという気持ちがわからないというのはちょっとすぐには信じられない。だけど、山中くんの目は素直にその答えを求めているようで、私はそんな山中くんの力になりたくて質問に精一杯答えようと一生懸命考える。ひとえに『好き』と言っても色々な『好き』があると思うが、私は恋焦がれる好きを、人を好きになることを山中くんに伝えたいと思った。
「胸が……暖かくなるの」
私は想い人である片山くんを思い浮かべて、私が思う『好き』を山中くんに伝える。
「その人の事を考えるだけで幸せな気持ちになれて、見ているだけで笑顔になれて、だけど、たまに苦しくなる。そんな感じかな? ごめんなさい。うまく説明できないや」
なんともわかりにくい、纏まっていないことを口走ってしまった。一生懸命考えた末にこの程度の回答しかできない自分が情けないし、山中くんにも上手く伝わってないかもしれない。
山中くんはやっぱり何も言わず、ただ私の顔を見つめて私の言葉に耳を傾けている。
「山中くんも素敵な人を見つけて素敵な恋愛をしてね」
全然納得のいく『好き』を伝えられなかったが、それでも私は今心から思うことを口にした。おそらく、クラスメートのほとんど全員が山中くんを誤解している。私も人のことは言えない、山中くんを誤解していた。いつも冷静で、端正な顔の中の目には冷たい印象を受けていた。口数も少なく他人に興味なさそうな雰囲気、きっと山中くんは人と関わりたくないのだろうと勝手に思い込んでいた。
山中くんは好きという気持ちがわからない男の子。だから人との付き合い方が少し下手なだけで、本当の山中くんを知ればきっとみんな違う接し方ができるはず。そして、本当はとっても優しい。そんな山中くんには是非とも素敵な人を好きになって、素敵な恋愛をしてほしいと、心から思ったのだ。
山中くんの静かな表情には変化はなく、返事もない。それでも少しでも山中くんの心に響くものがあればいいな、と思い口を噤む。
「そろそろ帰らないか?」
「あ、そうだね。すっかり遅くなっちゃったね。ところで山中くんは何で学校に?」
「俺は特に理由はない。あえて理由をつけるなら、そうしてみようと思ったからだ」
山中くんが学校に来た理由は理由になっていない気がしたけど、人の考え方は人それぞれで一人一人違うのだからそういう気持ちになることもあるのだろうと納得する。
校舎を後にすると冷たい外気が体を包み込み、思わずブルッと震えてしまう。「寒いね」と呟き私はマフラーで口元までを覆った。
校門を出て丘を下りきり、道が左右に別れる所で立ち止まると、私は借りたハンカチを握りもう一度お礼を言った。
「ハンカチ本当にありがとう。汚れちゃったから洗って返すね」
「別に構わない。それより送っていこう」
「え? でも山中くん、逆方向じゃ……」
「別に構わない」
送ってくれようと気遣ってくれる山中くんだが、もう時間も時間だし、家の方向も違う。慌てて遠慮しようとしたが、山中くんは有無を言わせずすたすたと私の家の方向へ歩き出した。
申し訳ないと思いつつも私は山中くんの背中を追い、その背中にお願いします、と呟いた。帰り道は後ろめたい気持ちで一杯だったが、それでも送ってくれることがとても嬉しかった。
身長も高くて足も長いモデル体型の山中くんの歩調は、普通に歩いているだけでも私にはとても速く、途中つい小走りにその背を追ってしまう。すると山中くんは振り返るわけでも、一声掛けるでもなく歩調を緩めてくれた。その気遣いが嬉しくて思わず口元が綻んでしまうが、ただただ自然なその対応にお礼を言うのは、何となく憚られた。
何度か「ここ右です」とか、「しばらく真っ直ぐです」など声を掛けながら、無言の背中を追って歩くこと十五分、大きな畑が向かいに広がる私の家に到着する。
「山中くんどうもありがとう。この辺りは暗いし一人じゃ心細かったから、送ってくれてとても嬉しかった」
「別に構わない。ここが家か?」
「うん。よかったら何か温かい飲み物でも飲んでいって?」
「いや、遠慮しておこう」
山中くんはそれだけ言うと、足早にもと来た道を戻って行く。
「あの!」
私は慌てて声を掛けた。つまらない話を聞いてくれた上に、寒い中遠くまで送ってくれた山中くんに、せめてもう一度ちゃんとお礼を言いたかった。
山中くんは立ち止まり振り向いてくれた。
「山中くん、今日は私なんかの話を聞いてくれてありがとう。山中くんって優しい人なんだね。これからも仲良くしてね」
黙って私を見つめる山中くんの無感情な瞳。だけど、私はもうその目に冷たい印象を抱く事はない。だって、山中くんはただ好きという感情がわからないだけで、本当はとても優しい人だってわかったのだから。
「また明日、学校でね」
そう言った直後、背を向ける山中くんが「ああ」とだけ言ってくれた。たった一言の返事だったけれど、その一言は山中くんが少し、ほんの少しかもしれないけど、心を開いてくれたんじゃないかな? と、思えるものだった。
私は山中くんの後ろ姿が見えなくなるまで見送り、そして家の中へ入った。
空から初雪が舞い出すのを見上げ、私は静かにドアを閉めた。
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