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火花を散らすパンタグラフ

作者: .2.2

 其れは彼が高二の五月。

 長袖の学ランが鬱陶しくなって半袖が待ち遠しくなり、立夏を過ぎて木々の青が激しくなり始めた頃。

 進級時に編制が変わり、クラスの全員が理系クラスの野郎の多さと暑苦しさに慣れ始めた頃。

 彼は珍しく早く起きたので、早めに駅に辿り着いていた。

 息を切らせてホームへの階段を一段飛ばしで駆け上がる。しかし此の階段は生憎と奇数なので最後は二段飛ばし。

 ふうっと息を吐いて振り返ると、カーブを曲がって急行が姿を現した処だった。

 警笛を鳴らして電車はホームへ滑り込む。

 其れを尻目に進行方向最前列から数えて三番目、六両目の一番扉の位置へと向かう。

 何時も其の位置には誰もいない。

 しかし其の日は人が居た。

 制服からすると、どうやら同校の女子生徒らしいが、見た事のない顔だ。

 同学年なので二年は大体把握しているが、上級と下級はカヴァー仕切れていない。

 真新しい服に着られいている様からすると、未だ一年だろうか。

 ゴォッと風を切る音と、ガタンゴトンと線路を滑る音。

 額に浮かぶ汗を手の甲で拭って、女子生徒の後ろに就ける。

 彼よりも頭一つ半分は低い。じっと、やって来る電車を見詰めている。

 其の彼女の目の前を電車は通り過ぎて、驚いて彼女は肩を竦める。

 風を切る音に驚いたのではない。

 肩を竦めた彼女の視線の先には、火花を散らすパンタグラフがあった。


『火花を散らすパンタグラフ』


 此の駅はとある地方都市の郊外にある私鉄が通っていて、各駅と共に急行は止まってくれても特急は止まってくれない。

 唯、割と街の中心部に近い高校の最寄り駅迄は一本でいけるので彼としては使い勝手が良い。

 使い勝手が良いのだが、其れは他の客も同じの様で、首都をぐるりと巡る山手には及ぶまいがうっかりすると圧死するのではないかという程、人が乗る。仕方がない。中心部迄一本でいけるのだ。他の線への接続も良い。利便性が良いのだから皆、乗りたがる。

 高校に通い始めた頃は彼も面食らったが、既に一年経ったのでもう慣れた。

 彼女はどうだろうと気配を伺ってみるが、どうやら臆している様子はない。

 開いた扉の脇に立って、降りやしない乗客を一応待つ。

 其れから彼女と彼は何とか乗り込んだ。

 横に立った彼女の真新しいブレザーを見遣ると左上襟に付いている筈の学年色の校章と級章が無い。

 何故だろうと想った所で回転半径七十のカーブにさしかかり、背後に立っていた大分割腹の良いサラリーマンに彼女諸共彼は押し潰されたので考え事は総て已めてしまった。


 しかし其の疑問は、想わぬ形で解答が突きつけられる。


 朝学活迄の時間を机に突っ伏して潰した彼は担任の声で半身を起こした。

 呆けた頭でなんとか「嗚呼、先生、髪切ったな。」なんて想っていたら担任は「御早う御座います。」の後に出席を取らず、どうもずり落ちやすい眼鏡を上げながら「イレギュラーですが、転校生が来ました。」なんてぽつりと呟いた。

 そう、呟いた。此の担任はどうもぼそぼそと独り言と喋ってるのとの境目のような声で物を言うので、クラスの全員が悉く重要な案件を聞き逃すという悲劇がクラス運営が始まって一月一寸なのに何度もあったのだが、今回ばかりは全員が聞き咎めた。

 今の今迄寝惚け眼だった彼を含めたクラスの全員が、結構想いきった顔で驚きを表している。そう、此の一月一寸で明らかになったのだが、此のクラスの連中は須く感情の表し方が想いきっている。

 担任が珍しく声を張り上げて「入って下さい。」と言い渡すと、ざわつく教室に一人の少女が入ってきた。

 「あ、」と想わず声が漏れた。少女が今朝駅で見掛けた彼の少女だったからだ。

 少々緊張した面持ちで、しかしながらはにかんで人に好かれそうな笑みを浮かべた少女は氏名を名乗り、ぺこりと礼をして「宜敷御願いします。」と告げた。

 何だかキラキラした子だ。見た目が、ではなく、内面がキラキラした子。クラス全員がそう想った。

 「嗚呼、だから校章も級章もなかったのか。」と彼は納得した。

 何せ此の高校、戦前から続く老舗の進学校で県下じゃ指折りの有名校なのだが、どうも好い加減な処があって、制服があるのにも拘わらず、ズボンかスカートを履いてさえいれば上は学ランだろうがブレザーだろうがセーターだろうがカーディガンだろうがパーカーだろうがジャージだろうが門は潜れるし、授業だって何の支障もなく受けられる。当然、靴にも靴下にも鞄にも指定はない。其れでも授業はほぼ完璧な秩序が保たれているし、生徒は己の領分を弁えているのだから此の高校が進学校たる所以なのだが、矢張り、好い加減な事には変わりない。

 どの位好い加減かというと、今年の二年の文理比率が学校側の予想をあっさり覆してしまった、詰まり、理系選択者が例年になく多かった為に、級章が足らないという珍事が発生したのだ。御陰で五月の頭迄、学年の総ての理系が級章がない儘過ごした。

 其処へ此のイレギュラーな転校生が来てしまったのだ。

 余れば来年に廻せば良い物をぴったり全員分しか発注しなかった為に学校側には在庫が無く、制服を取りに来た時には未だ彼女の分の級章がなかったのだ。御陰で彼女は今日漸っと校章と級章を手に入れ、今は胸ポケットに大事に仕舞い込んでいる。

 担任がぐるりと九十二の瞳を見回すと、彼にひたりと視線を合わせた。「丁度良いので鈎碕君の後ろで。」と彼女に言い渡す。

 成る程、確かに丁度良い。此のクラスの机の並びは七列掛ける七列で、両端の列と窓側から二列目の最後尾に机が無い。窓側二列目に机が加われば、丁度線対称になる。美しい。

 机が今朝、一つ増えていたので何故だろうと想っていたら、こういう事だったのかと一人で彼は納得している。

 納得していたら、前の席で両肘をついてジィッと転校生を見ていた女子ががばっと元気よく手を挙げた。そして、声を張り上げる。「先生、鈎碕君は図体がデカいので、鈎碕君を後ろに下げた方が善いと想います!」遠慮のない台詞は此の女子の仕様だ。一年時からの付き合いだから彼も一々突っ込まない。其の女子の提案に担任はぽんと手でも打ちそうな勢いで納得し、「じゃ、其の寸法で。」と言い渡す。流石に「俺の意思は無視かい。」と漏らして立ち上がると、既に傍迄やって来ていた転校生は実に申し訳なさそうな顔をした。不安げに曇った其の口から次に何が飛び出すのか何て容易に解ったので笑って、「気にしないで。」と先に釘を刺した。

 尚も晴れない彼女の表情に前席のクラスメイトが話しかける。「大丈夫、大丈夫。気にしない、気にしない。」其処で漸く彼女の表情が晴れた。緊張も解けた。

 ―――様に端からは見える。「でも未だ様子見だな、目が。」と彼は内心で断じた。

 でも、彼の目から見ても彼女は矢っ張り何だかキラキラしていた。


 其の日の終学活終了後に日直日誌を職員室迄届けに行く。数学科の前で鞄を降ろして廊下に放置。厳冬期以外、開きっ放しの室内に向かって「失礼します。」と断って入る。担任は定位置にちょこんといた。持ってきた日誌を差し出すと「有難う。」と受け取って、椅子に座った儘、彼を見上げ、相変わらずずり落ちた眼鏡を直しながら担任はぽつりと漏らした。「鈎碕君と同じ所に住んでますよ。だからイレギュラーなんです。」主語がすっぽ抜けていたので、一瞬、何の事だか解らなかったのだが、直ぐに合点がいった。

 彼女の事だ。

 目を丸くしている彼をじっと見上げて担任は云う。「表立ってどうこうしろ、とは云いません。唯、困ってるようだったら手を貸して遣って下さい。君達には君達にしかない大変さがあるだろうから。」彼は「嗚呼、はあ。」と気の抜けた返事を返した。


 担任に頼まれはした物の、彼女なら特に自分が手を貸す事は無いだろうとぼんやり想いながら彼は電車に揺られている。

 御帰宅ラッシュには未だ早い此の時間帯ならば此の線はがらがらだ。

 足許に鞄を置いてきちんと一人分に収まってぼんやりと外を眺めていた。未だ蒼い空の大分向こうを飛行機雲が趨っている。


 最寄り駅に辿り着いて、彼は億劫そうに電車から降りる。階段を下り始めた所で前方に例の彼女が居るのが解った。

 とんとんとんと軽快に下っていく。其の背を見て、矢っ張り未だ制服がしっくり来てないな、なんてぼんやり想った。其れも其の筈だ。今日が初めてだったのだから。


 同じ所に住んでいるという事は、同じ職種という事だ。父親か、母親かは解らない。恐らくは九、一位で父親だろうが。取り敢えず、彼女を養っている何方かは、彼の父親と同じ職種だ。

 日陰者になる事に全身全霊を掛けている此の職種は名が知れている割に余り世間に憶えが良くない。高校に入って何かの折に父の職種を同窓に述べたら「初めて見た。」と珍獣扱いされた。世の中の認知度なんてそんなもんだ。一寸知っている位じゃ転勤が少ないなんて想ってる方も居る。

 実際は、違う。確かに転勤が少ない人もいるだろう。唯、生憎と彼の父は転勤が多い方であった。

 中高は父が踏ん張ってくれたので目出度く一校ずつで済んだが、幼稚園は二つ、小学校には三校通った。決して多くはない。多くはないが、御陰で小学校に於ける運動会の勝敗は五勝二敗だ。

 しかも父が踏ん張っているとは云え、自宅が変わっていないだけで職場は転々としている。次、何処へ飛ばされても可笑しくはないのだ。下手をすれば本州にいないなんて事もざらだ。県境処か国境を跨いでいたりもする。

 だから、子供が大きくなれば家を買って父親のみが単身赴任するなんて手もある。中学校が同じであった友人はそうだった。

 一方で自分は家族毎、父親について廻っている。どうやら彼女も、らしい。

 そうは云っても此の時期はイレギュラーだ。普通ならば、春夏冬の子供の長期休暇に集中する。週に二、三軒が出たり入ったり何て事も見掛ける位だ。エレベーターが一日中占領されてるなんて日だってある。何か都合があったのだろう。「父親の仕事に振り回されるだ何て良い迷惑だ。」と小学校の頃の担任がしたり顔でほざいていたが、自分達は是が当たり前だ。転校の際に父を恨んだ事なんて、一度もない。だって養われているのだ。勝手に御前様の尺で自分等を計らないで頂きたい所存だ。

 しかし、そうは想った所で是は彼の感覚だ。彼女は違うかも知れない。

 官舎へと続く坂をぼんやりと上りながら空を仰ぐ。

 飛行機雲は失せ掛けていた。


 イレギュラーな転校生が本領を発揮し始めたのは、三日後だった。

 徐々に、クラスが彼女中心に回り始めているのが解る。しかも、巧みに。

 其れを見て彼もほっとしている。担任の心配はどうやら杞憂に終わりそうだ。そして、彼もどうやら手を貸さずとも済みそうだ。

 自分等転勤族には暗黙の了解がある。

 決して、意識はしていない。唯、徹底はされている筈だ。

 新たに人間が入ってきたら、受け皿になる事。

 座席が近ければ尚更だ。

 例え座席が遠くても巧くクラスの波に乗りきれぬようであったらさり気なく、巻き込んでやるのが鉄則だ。

 だって、自分がそうされていた筈なのだ。記憶にはなくとも。

 別に、どちらかが何処かへ越してしまう迄、ずっと懇ろに成るつもりは御互いにない。気が合えばそうなろうが。

 気が合わなければ、其の内離れれば良い。唯、切欠は必要だ。何時の日だったか、切欠になってくれた誰かに酬いる為に、出番が来れば切欠にならなくてはならない。

 だから、基本的に自分達は学校内で人見知り何てしていられない。

 官舎でもだ。

 彼らが住んでいる官舎もそうだが、昨今の官舎は其の変のマンションと変わらない作りになっているから一概に言い切る事は出来ないが、一寸前の官舎、そして今も地方に残っているだろう官舎は矢張り一寸前の公営団地と同じ作りをしている。階段で括られた御近所さんは常に煩わしさと有り難さの狭間にいる。官舎と言えど、所詮社宅。旦那の階級で奥様方は水面下で火花を散らしている。

 其れを子供は敏感に感じ取る。

 だから、入れ替えの激しい小父さん小母さん相手に顔を憶えぬ儘、挨拶するのだ。だって、昨日脇を素通りした小母さんが後日父の上司の奥方で、しかもなかなかの性格でいらっしゃったなんて事が解ってみろ、笑えない。父親同士は解っているからどうにでもなろうが、問題は母親同士だ。気の毒なのは自分の母だ。そんな目には遭わせられない。

 こんな事を一々考えちゃ居ないが、自分達には其れが刷り込まれている。

 以前はこんな事に一々注意を向けるなんて事はなかった。だって彼にとっては当たり前だった。

 気になったのは、先日、父と同じ職種であるどこぞの官舎の幼い子供が何処の馬の骨とも知れぬ外国人に誘拐された揚げ句に殺されたというニュースを聞いてからだ。

 其のニュースについてしたり顔で語るコメンテータが「何で知らない人間に愛想を振りまくんだ。」と呆れていたからだ。

 悔しかった。単純に。何て事を云うんだと想った。

 夕飯を掻き込みながら二つ年上の姉が低い声で漏らした。「人見知り出来ないんだよ、私等は。」と。例え、其れが誰であろうと、と云う台詞は飲み込まれた。

 歳をとれば其れなりに判別は付く。でも、幼かったら。

 味噌汁を飲み干して「つけられないじゃない、判別なんて。」とテレビを睨み据える姉の目は辛辣さを売りにしているコメンテータを殺せそうだった。

 愕然としたのは翌日だ。

 学校の授業中、隣の隣のクラスの先生の受け持ちの授業中。其のニュースが話題に上り、先生も彼のコメンテータと同じく呆れた様子で吐いた。「莫迦だねぇ、全く。」

 彼は結構に好きだったのだ、其の先生は。授業は明確で、調子よく進む。試験の点数も悪くなかった。だから、余計に好きだった。

 だのに。

 ―――だのに。

 裏切られたなんて感情は此方の一方的な想いだ。勝手に好きになって、勝手に失望してるんだから。実に一方的だ。

 でも、本当は云いたかった。色々な事をだ。想いの丈をだ。ぐるぐると云いたい事が頭の中を巡って、前日の姉の言葉も頭を巡って、結局「先生の想定してない世界で僕等は生きてます。」が残った。「俺は文学青年か。」と自己突っ込みをしたが生憎と彼は理系だ。其れに、先生に向かって物を言う事はもう無いだろう。元々仲が良かった訳でもなかったのだし。

 授業終了後にシャープペンシルの芯を仕舞いながらも未練がましく失望感を引き擦っていた。だって、先生の話は面白かったんだ。視野は広く、視点は多岐に渡る。何て沢山の尺を持っている人だろうと感心していた。別に、傾倒する程ではないにしろ。

 けれども、もう其れも仕舞いだ。

 先生は、彼等を計る尺を持っていない。多分、一生持たないし、持てないだろう。

 だから、仕舞いだ。

 そして、自分達は矢張り人見知りをしては成らない。此度は、彼女の為に。

 けれど、其れはどうやら必要なかった。

 巧く自分で受け皿を見付けたらしい。

 其の上、彼女は彗星型だ。

 彗星型と、気体型。転校生は此の二つに大別出来る。

 彗星の如く現れて、例え誰がクラスの主導権を握っていようと自分が其れをさらりとかっさらってしまう、彗星型。

 現れる事は現れるが、無色透明無臭な気体の様にクラスの空気に紛れ込んでしまう、空気型。

 彼は後者だ。一方で彼女は前者。しかも、巧い。

 誰もが不快に感じることなく主導権を物の見事にかっさらった。彼女の人徳の致す所だろう。

 「だからキラキラか。」と口にも表情にも出さず、彼は納得している。


 其れにしても、彼女のクラスの廻しっぷりは見事だった。

 二、三年は持ち上げなのでクラス編制は変わらず、其の廻しっぷりに担任も含めた皆が肖って、一年が経った。

 彼が何となく彼女に合わせて早起きをするようになって、満員電車でともすれば押し潰されている彼女を躯で頼まれもしないのに勝手且つ暗黙の了解で護って遣るようになって、一年が経った。


 最近彼女に覇気がない。

 相変わらずクラスをぶん廻してはいるのだが、何処か上の空なのだ。多分、彼以外の誰も気が付いちゃいないだろうが。


 彼女の様相が可笑しくなって、其れを彼が見過ごせぬ程になってきていたある日、彼は漸く彼女に辿り着いた。


 其の朝、彼女は強張った顔で駅前のポストに封書を投函していた。

 無視なんて、出来なかった。けれども、声を掛けるのは一瞬躊躇った。今、自分が声を掛けたら、彼女が酷く困るなんて事は彼には解っている。

 けれど、素通り出来なかった。「誰にだ。」

 掛けられた声に、彼女は可哀想な位びくりと身を竦ませて、恐る恐る振り返った。彼を認めると、泣きそうな顔をした。

 初めて見る顔だった。


 「無理に言わなくて良い。」とは、云えなかった。今回ばかりはそうもいかない。彼女は元々溜め込む質だ。周りが気が付かぬうちに溜め込んで、溜め込んで、溜め込んで溜め込んで溜め込んで、其れからたった一人で其れを片付ける。そして、吹っ切るのだ。

 其れが、出来ていない。溜め込んだ其れが、溢れそうになっている。

 駄目だ。間違っても学校で、ぶちまけさせる訳にはいかない。

 だから。


「御前、今日開いてるか。」

「―――え、」

「予備校は。」

「あ―――、無い、今日は。」

「じゃ、御前、俺に付き合え。」

「へ?」

「放課後、カラオケ往くぞ。」


 一方的に話をつけた。

 御陰で一本電車を見逃した。


 放課後、渋る彼女を自分の奢りだと説き伏せて彼はカラオケボックスに突っ込んだ。

 どちらも予約すらぜず、彼が勝手に頼んだ夕飯を黙々と食べている。

 ミネストローネを行儀悪く器ごと啜りながら、彼は辛抱強く彼女が口を開くのを待っている。

 無理に急かしたりはしない。御膳立てしか、しない。


 一通り腹ごしらえを終えた彼女がぽつりぽつりと喋り出したのは、手元のフリードリンクが半分迄減った頃だった。

 其れは、想いもよらない衝撃の告白から始まった。


「告白されたの、中学の頃の同級生に。」


 想わず、彼は目を剥いた。

 しかし彼女は手元に目を落としているから彼の様子に気付かない。唯、空恐ろしい程淡々とした調子で続ける。


「気にも留めてなかった。卒業して、高校入ったら速攻忘れた。同じクラスで、学級委員したけど。

 だって、同級生の顔なんて、皆、一々憶えてるもん?そんなもん?私、直ぐ、忘れちゃうよ。だって、高一の頃だってもう怪しいもん。

 中学の頃なんて、相当灰汁が強い奴じゃなきゃ忘却の彼方だし。

 だから、其奴も私、忘れてた。

 でも、手紙が来たの。折角忘れてたのに。嗚呼、別に何か悪い想い出があった訳じゃないんだけど、可もなく、不可もなく忘れてたのに、って意味で。

 無視すれば、良かったんだと想う。最初の一通目。でも、しなかった。

 彼の時も、今、想い出しても薄ら寒い文面に、私、結構高圧的な文面で返した。

 確か、『冗談じゃないなら話は聞く。』って。是に特別な意味なんて無いよ。其の儘。だから。是ならもう、来ないだろうって想って。

 でも、封筒、ポストに突っ込んだ時、拙ったかなって、気付いた。

 何て云うか、こう、使う尺を間違えたって。

 ―――あのさ、私、高校生活幸せだったんだよね。つか、今もそうだから現在進行形なんだけど。

 だってね、周りに莫迦が居なかったんだよ、私以外に。誰もいなかった。

 私が想ってる儘を云って履き違える奴なんて、前の高校にもこっちの高校にもいなかった。あ、想ってる儘って、考えてる事其の儘全部云うって事じゃなくて、云いたい事を其の儘って意味。一々、相手に解るように直さなきゃとか、そんなんしなくて良かったの。私、幸せだったの。

 だから私、尺、間違えた。

 そしたらさ、案の定。勘違いした返事が来たの。一通目より更に舞い上がって薄ら寒い二通目が。

 しかも、『逢いたい』って。

 勘弁してよって、想って。でも、切り捨てられる優しさなんて、私には無かった。私、そんなに優しくない。でも、良い格好はしてなきゃいけなかった。だって未だ其の頃の友達とは何人かとは繋がってるし。其れに、立つ鳥跡を濁さずってね。猫は被ってなんぼでしょ、脱いじゃ意味無いもん。ま、私の友達は別に猫脱いだって引いたりしないけど。

 脱げば良かったんだよ、猫。でも、脱がなかった。

 正直、脱いでやるのも面倒臭かった。

 私、そんなに優しくない。断ってやる優しさもないんだ。

 二通目の『逢いたい』って、流石に断った。

 で、惰性で何通か其の儘遣り取りして、で、遂に振り切れなくなった。真逆、県境跨いで押し掛けるとも想えなかったし。

 でも来たの。で、こないだ逢ったの。

 向こうが押し掛けてきた。

 彼の、中間テストの一週間前の土曜日ね。

 一日引き擦り回された。本気で、死ぬかと想った。

 しかも、最後の締めが海浜公園のベンチ。二時間半。十七時半から二時間半。

 寒かった、本当に、どうしようかと想った。

 私、十七時には放して貰えるって想ってたんだ、だって十時集合だよ、放してよ、十七時には。で、帰り際にさよなら云うつもりだった。

 でも云わせて貰えなくて、しかも、其の二時間半、延々奴は私の事をどれだけ好きか語ってた。私と二ケツしたくてバイクの免許取っただとか、母親に私と文通してるのが張れて冷やかされだとか、そんな話。

 中学の頃からずっと好きで、他の、男子の同級生には張れてたから、事ある毎に冷やかされてただとか、私に張れないか冷や冷やしてただとか、本当に私が気付いてなかっただとか。嗚呼、でも私が気付かないのなんて、当たり前なんだけど、私、だって全然眼中になかったから。

 嗚呼、私はしっかりしてて、自分が其れに追い立てられる感じで、自分の母親と父親もそんな感じだったとか、そんな話迄された。後、私の事を絶対に母親は気に入るとか、そんな話もあった。

 て云うか、皆、少女漫画とかドラマとかさ、好きになる方ばっかり描いてて、好きになられる方は描かないよね。しかも、其れが迷惑な時なんて絶対。そら、面白くないだろうけどさ。実際全然面白くないし。でも、何で周りはあんな勝手に冷やかすんだろう。何で勝手に舞い上がるの。こっちの都合は、全然気にしないんだ。勝手に、こっちの心情なんて、全部無視して。全部。好きに成られた私は向こうが勝手に作った私で、私じゃないのに。

 好きになられる方の都合は?全部無視?しかも親迄?

 冗談じゃない。

 でもそう言う話が二時間半。延々ループ。

 如何に私が好きか、其れから、私に好かれてるかどうか不安だとか、そんな話。自分の想いに対して返しが少ないって。

 当たり前じゃん、これっぽちも好きじゃないんだもん、意識すらしてなかったよ。

 あのさ、鈎碕サンも良く知ってると想うけど、私、本当によく喋るのね。今もそうじゃん、一方的じゃん。

 其の私が、だよ。ずっと聞き役に廻ってた。

 本当にもう、早く帰りたくて。

 帰りたくて帰りたくて帰りたくて帰りたくて。

 でも、其奴云ったんだ。

 『明日も逢えるか。』って笑顔が引き攣らないようにするの、大変だった。結構頑張ったよ、私。

 でも本当は、怒鳴り倒してやろうかと想ってた。

 だって私、ちゃんと先に云ってたんだよ、中間があるって。ウチの高校は今年は変則で他より一寸遅れるんだって。

 ちゃんと、何回も云った。其の日の内にも云った。

 でも、彼奴、此処、此処に居座るって。ファミレスで一晩過ごして、次の日も私に逢うって。

 ―――冗談じゃないよ勘弁してよ。私は中間があるのに、ちゃんと、云ったのに。勉強しなきゃってのも、云ったのに。

 私、必死に宥め賺して、巧い事煙に巻いて、だって、もう切り捨てる気力もなかった、だから、今日は肩すかし喰らったと想って、帰りなさいって、どうにもこうにも成らなかったって云って、皆に笑われればいいって、そう言って。

 其の日、ぼろぼろになってお家帰って、何とか眠れたんだけど、次の日はもう、気になって眠れなかった。

 気分が悪くて。だって、もう彼奴に考えられてるってだけで厭だ。

 人に好意を寄せられるのってね、そんなに悪い事じゃないと想うんだ。

 想うけど、でも、もう厭だ。

 厭で厭で、本当に厭で。

 どうしようもなくなって。

 だから、其れこそ中学の頃の友達にメールしたの。全部、洗いざらいぶちまけて。引かれるんじゃないかって、びくびくしながら。

 でも、友達、全然引いたりしなくて。

 しかも私より先に怒った。

 メールでも、解る位、滅っ茶怒ってて、何か、『殴りたい!』って連呼してて。

 有難い友達だって、想って、本当に有難いなって。

 其れから、私、嗚呼、怒って良いんだって。

 そしたら、止まらなくなって、腹立ってきて。

 本当は、私が最初に相手に合わせた尺を用意出来なかったのが一番悪いんだけど、でも、向こうの我が我がってのも、腹が立って。

 其れで、今朝、手紙出したの。最後の奴。

 其れが、彼。」


 其処で、彼女は止まった。

 彼は、両脚の間で組んだ手が白くなっているのを頭の裏あたりで解っちゃいたのだが、どうしようもなかった。切り忘れて伸びた爪が食い込んでいるのも解っちゃいたが、矢張り、どうしようもなかった。

 俯いていて、良かったと想っている。頭の裏あたりで。だって、こんな酷い顔は彼女に見せられない。

 駄目だ、落ち着け、と何度も彼は自分に言い聞かせる。

 何度も、何度も。

 だって、自分は聴いてるのが役目だ。其れだけだ。

 嗚呼、駄目だ。落ち着け。何度も繰り返す。

 其れから感謝する。会った事もない彼女の向こうに残してきた友人に。

 彼女の為に激高してくれた友人に、腹の底から感謝する。

 其れから。

 其れから。

 会った事もない其奴を腹の底から殴り倒したい衝動を必死で押さえ込む。

 県境を二つも三つも跨いでいなけりゃ、今直ぐにでも飛んでいって、自分の此の手で殴り倒してる。


 彼の其の心境を知る由もなく、彼女は乾いた声でぽつりと漏らす。


「もっと巧く、さよなら出来れば良かった。

 誰にも想い出されない位、巧く。

 私がどうでもいい人の事、全然憶えてないのと同じみたく、巧く。

 勝手に想い出されて、勝手に脚色されて、勝手に美化されて、勝手に妄想膨らまされたんじゃ、溜まんないよ。」


 乾いている、恐ろしい位乾いている。

 彼女の、声が。


「私は、誰にも想い出されたくない。

 私の忘れた人になんか、絶対に。もういっそ、私が憶えてる人にも、全員に。

 大事な想い出なら私が後生大事に墓場迄持って逝くのに。」


 嗚呼、乾いている。


「私とさよならしたら、」


 彼女の、声が。


「皆、私の事なんか忘れてくれれば良いのに。」


 衝動を全力で抑え込みながら、彼女に何て声を出させるんだと、彼は腹の底で慟哭している。


 其の後、吹っ切れたらしい彼女はマイクを握り締めて力一杯、吉幾三の『俺、東京さいくだ』を熱唱した。しかも、本人が一時期東北地方に住んだ事がある上に、去年も今年も合唱コンでクラスのソロに選ばれているのだから折り紙付きだ。

 彼は、彼女が満足する迄歌わせ続けた。

 無論、自分も歌ったが。



 其れから一ヶ月と半月程経って、今日は一学期の終業式だ。

 じりじりと皮膚を焼く真夏の太陽に曝されながら、彼は黙々と駅迄の道程を歩く。

 もし彼が好きだという云う想いを定義するなら、其れは妄執に基づく固執だ。恋愛は、少女漫画やドラマに描かれる程美しいもんじゃない。

 自分もそうだ。

 彼だけ殴りたいと想った見知らぬ彼奴と変わりゃしない。

 彼女が好きだ。しかも、かなり。

 発露を聴いておきながら、彼女の事は恐らく忘れないだろう。忘れようとしないだろう。

 だって、事ある毎に想い出して、より深く記憶しようとしている自分が既に居るのだ。紛れもなく。

 そして出来れば彼女も自分の事を想いだして欲しいとすら想っている。烏滸がましくも。

 卒業式に好きだと告げて、引きちぎった第二釦を押し付けてさよならしてやろうか。そうすれば、屹度彼女は自分を暫くは忘れまい。

 でも、出来はしない。頭の中で考えるだけで、決して出来はしないのだ。

 だって自分達は、先ず、相手がどんな反応をするか、考えてしまう。特に、相手の尺が大体解っていて、しかも、こんなに大事なら。

 彼女の事を考えたら、出来はしないのだ。

 そんな、酷い真似は。

 だから、屹度、自分は是を引き擦りながら卒業するのだ。

 何事もなく。


 普段通り、改札を抜けて階段を駆け上がる。

 果たしてホームの定位置には彼女が居た。

 背を向けて、彼を振り返りもしない。是も、普段通り。

 真夏の生温い風に着慣れたスカートがふわりと浮き上がる。

 腕時計を見遣る。デジタル表示は七時三一分丁度。

 カーブを曲がって三十一分発の電車が遣って来る。

 彼女の後ろにつけた。相変わらず頭一つ分は低い位置にある彼女の後ろ頭を見下ろす。


「榊原、今日暇か。」


 白線の外側を歩いていた通勤客に向けて、滑り込む急行がけたたましい警笛を鳴らす。


「何で。」


 彼女のスカートが風に煽られて翻る。


「今日、カラオケ付き合え。」


 彼女は、彼の日と変わらず架線を見詰めている。

 彼女の目前を先頭車両が通過する。


 そして今日も彼女の視線の先でパンタグラフは火花を散らす。


「良いよ。」




『火花を散らすパンタグラフ』了

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