幸せ
呑まれてしまいそうな暗闇の夜道。そこにポツンと置かれた一台の車。車内でその暗闇以上に孤独な私たち。
背もたれに寄り掛かっている先生は天を仰いでいた。私はその横顔を見つめていた。
私の知らない先生。初めて知った先生の心の一部分。初めて先生と出会った時のことを思い出した。
君との関係はこの一回きりで終わりにしたい。
先生にそう言われた時のことを思い出して、私もゆっくりと背もたれに寄り掛かった。
私はずっと自分を買い被っていた。心のどこかで先生の心を自分のものに出来るのではと思い込んでいた。欲深くて無意味な優越感を抱いていた。可哀想な人間だね?
でも私は、
「今でも華絵さんが好きですか?」
先生を見つめて発した言葉。先生は私の顔を見ることなく瞳を閉じて眉間に皺を寄せた。何か考えている。
「分からない。」
しばしの沈黙の後、それが先生の出した答えだった。
分からない。そうですか。私は黙り込んでしまった。
「だけど、今でもまだ…」 先生が再び口を開いた。
先生の言葉は重かった。遠くを見つめて話す先生はまるで“現在″を生きていない人だった。生命をどこかへ置き去りにしてしまった。
「苦しい。なのに死ねない。僕は自分を許していないよ。許されない人間なんだ。」
可哀想な人。そう思って先生の横顔を眺めていた。しかし心の奥で私が本当に憐れんでいるのは先生ではなかった。それは私自身、思い上がっていた私という女の部分だった。まるで棍棒で頭を殴られたような衝撃で何も知らなかった自分を心底、馬鹿だと思った。馬鹿女。
「もう誰も死なせたくない。絶対に、誰もね……」
先生が背もたれから体を離してハンドルを握った。辺りは暗くてもう帰らなければならない時間だった。携帯に来ている無数の母からの連絡をずっと無視している。
先生も死なないで。
その言葉は絶対に言えない。心の中にだけ留めておく。私の心の底からの願い。でも口にしたら先生は本当に消えてしまいそう。
「もう帰らないといけない時間だね。」
車内の電子時計を眺めながら先生が力なく笑った。言葉を発するのが苦しい。私は喉が詰まって上手く言葉を発せなかった。
「ありがとうございました。」ようやく振り絞って出せた言葉。
ドアを開けて最後に先生を見ると先生は運転席から私を見つめて優しく目を細めた。
「こんな男が初めての相手でごめんね。」
先生がすぐに視線を離して前を向いてしまった。虚しく並べられた先生の言葉の羅列は私の心の中に置き去りにされてそのまま行き場を失った。
先生、私は……言いたくても言えませんでした。
車のドアを勢いよく閉めて、今頃、家で血眼になって私の消息を心配している母の元へ帰らなければならない。
今の私が求めているのは温かい家庭でもなく、安心して出来る恋でもなく、この泥沼にはまった気持ちを息も出来ないくらいに手で押さえつけて、さらなる沼底へ巻き込む人だった。何故ならば、それが私の幸せ。その人が私の救世主。走り去るシルバーの車。その中にいるあの人が初めて出会ったあの日からそうだった。
「何考えているの?」
体育の時間、麻由の言葉にハッとする。
隣を見ると麻由が笑顔でこっちを見ていた。
「美海、なんか難しそうな顔していたよ?」
そう言って笑う麻由。今日はバスケで私と麻由は同じチームだった。隣のコートでは既に男子たちが試合を始めていた。ジャージ姿で走りながらボールを追う真山君の姿が横目に入る。
「なんか顔色悪くない?」
麻由に尋ねると、「そう?」と首を傾げた。私の気のせいだろうか…
「試合始まるみたい。」
クラスで二つに分けられた女子チームがコートに集合している。みんなやる気なさそうにノロノロと歩いていた。私と麻由もそれにつられてコートの中に入った。
体育の先生が審判となってコートの真ん中でバスケットボールを高らかに放つ。それを代表者二人がジャンプして、手を伸ばすとボールは私たちの方へと向かってきた。
麻由は運動神経が良い。彼女はボールを素早く手にしてコートを走りこんだ。私はその背中を眺めながら受け取る気もないくせに積極的にボールを受け取る子達から適度な距離を取って、やっている振りをした。
ボールを追ってもいないのに、追っている振りをしながら私の頭の中は全く別のことを考えていた。
別のこと。それは先生のこと。
あの日の夜、車の中で先生から聞いた話。そして先生の姿。
あれから私は先生になんて声を掛ければいいのか分からなくて先生と何一つ会話を交わすことが出来ていなかった。先生から私に声をかけてくることもなかった。授業中、教壇に立っている先生を見ても目が合うこともなく、私と先生はあの日から今まで以上に他人同士となっていた。
だってどうすればいいのか分からない。先生が美咲さんを愛していなかったとしても、まだ華絵さんのことを忘れることが出来ていなかったとしても、私には何が出来るっていうの?
先生、私は……自分の気持ちを言うなんておこがましい。どうすれば先生は幸せになれる?そこまで考えてまた思う。この気持ちだって私が先生を愛するための自己満足に過ぎないのではないかと。
私が苦しんでいる以上に先生は苦しんでいるのに、私は自分のことばかり。そんな自分が許せない。
「麻由、大丈夫!?」
クラスメイトの言葉にハッとして顔を上げるとコートの真ん中で肩を揺らしてへたり込む麻由がいた。
私も慌てて彼女の元へ駆け寄る。
「具合悪いの?」
クラスメイトの質問に麻由は首を振るが、明らかに顔が真っ青だ。体育の先生が麻由の元へと駆け寄る。
「貧血だな。保健室に行こう。」
先生がそう言って麻由に立てるか聞くと、彼女の肩を自らの背中に回して外へつながる扉へと歩いて行った。離れて行く麻由と先生の背中を見つめながら呆然としていると試合を終えた男子たちの視線も麻由へと集中していて、真山君も静かにそれを見つめていた。
体育の時間が終わると私は早く保健室にいる麻由に会いたい気持ちを抑えながらいったん教室に戻って制服へと着替えた。明美と怜奈のくだらないお喋りに適当な相づちを打ちながら素早く着替えを終わらせると教室を出て足早に保健室へと向かった。
保健室と書かれたサインプレートを見ながら近づいてい行くと扉が開いて中から真山君が出てきた。
思わぬ人が出てきたため、私は思わずポカンとする。真山君が私に気づいて目が合う。彼はまだ体育着姿のままで制服に着替えていなかった。
「あれ、麻由に会いにきたの?」
内心、驚きながら尋ねると彼は顔色一つ変えることなく、「まあね。」とだけ返した。
「そうなんだ。」
そこまで仲が良いと思っていなかったので意外だなと思いつつも真山君とこれ以上、喋ることがなかったので彼の横を通って保健室の中へと入った。
「あ!美海!」
保健室に入ると麻由が私に気づいて、嬉しそうに笑った。
「体調、大丈夫?」
心配して尋ねると麻由はまた大きく笑った。
「全然、大丈夫!朝から鉄分足りなくてフラフラしていただけだよ、きっと!でももうベッドで少し寝たら元気になったよ。」
「早退するの?」
麻由に尋ねると彼女は困ったような笑顔を見せた。
「一応ね。親が心配して迎えに来るみたい。過保護なんだから!」
過保護。笑いながら麻由が放ったワードが何故か私の心に絡みついて離れなかった。嫌いな言葉だ。
「そういえば、さっきここから出てくる真山君と会ったよ。麻由の面倒見に来るなんて優しいね。」
「ああ!なんか体育が始まる前に私と喋っていたから心配になったみたいでわざわざ来てくれたの。優しいのかな?結局、私の体調聞いた以外ほとんど喋らないで帰って行ったよ。」
麻由の話に思わず笑った。いかにも真山君だ。無口で何一つ冗談も言えず、会話のキャッチボールが下手で、だけど嫌いになれない。存在しているだけで誰も嫌いになれない、邪魔だと思えない人。
保健室の先生が麻由に迎えの車が来たことを伝えた。
「私が麻由の制服と鞄持ってくるから待ってて!」
私が言うと麻由は嬉しそうな顔で、「ありがと!」と返した。
教室に向かうため、保健室に出ると体育着姿の真山君と目が合った。
まだいたのか…。着替えた様子もなく、保健室前に立っている真山君を見て何て声を掛ければいいのか分からない。
「あ。」と言ったきり言葉が出ない。何を言えばいいのか。
対する真山君は私の目をじっと見ていた。無表情で、何を考えているのか全く分からない。
ようやく口を開いたのは私ではなく真山君だった。
「好きになる相手はよく見極めてから選んだ方が良い。喜び以上に苦しみが勝つ恋愛なら、それは幸せじゃない。」
表情は無機質なのに真山君の口調は怒りや苛立ちがこもっていて、まるで私を責めるようだった。
どうしてそんなこと言うの?
哀しい気持ちが私の顔に出てしまっていただろうか。真山君を見つめると彼は私を見離すように背中を向けて去っていく。
それは幸せじゃない。
私は先生が好きだ。先生が幸せだと思える瞬間を提供することが出来たら、それが私の幸せとなる。
真山君は何故、私の幸せを気にするの?
無機質な表情に合わない彼のつよい口調が私の脳内でグルグルと駆け巡った。
校内は真っ暗で生徒たちはもう誰もいない。
練習を終えた野球部たちが集団で帰宅している姿を車の後ろで隠れながら眺めていた。野球部たちが最後で後はもう残っている生徒は私だけだった。
誰かが通るたびに先生の車の後ろに身を隠してから何時間が経ったのだろうか。外の灯りは街灯と月の光のみとなっていた。夜の虫の音が聴こえる。
携帯には家族から、まだ帰ってこないの?とメッセージが入っていたが無視をした。
今日は麻由の家によると嘘を吐いた。家族が麻由といると知ると少し甘くなることを分かっていた。みんな麻由に全面的な信頼を寄せている。
コンクリートの壁一枚を隔てて背後から聞こえる道路を走る車の音。屈んだ体勢で頬杖をつく。
するとやがて誰かがこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。もしかして……期待すると同時に目の前の車のキーを開ける音が響いた。
来た!私は立ち上がり、すぐに車の後ろから姿を現した。ひょっこりと顔を出した私と車のキーを持った先生と目が合った。先生は驚いたようで目を丸くして、そのあと辺りを気にするようにキョロキョロ見渡した。
「先生!」小声で呟くと先生が慌てた顔で何も言わずに手で、車の中に入るよう合図した。
私は車に乗り込んだ先生と一緒に助手席に乗る。先生は私にフロントガラスに映らないように屈んで隠れるように指示した。屈みながら何度も先生と呟く私は実に滑稽だったろう。先生は屈んだ私に合わせるように体を倒して、「何しているの?」と聞いた。
私は素直に、「先生と話したいからずっと待っていました。」と話した。
先生は呆れたようにため息を吐いて、「もう二度とこんなことしないで。」と冷たく言った。
私は納得したと伝える代わりに深く頷いた。
「先生。」
何度、呼んでいるか。先生は面倒くさそうにこっちを見る。だけど私を映すその瞳の中に今まで見たことがないような先生の感情が込められている気がした。
「私、先生が好きです。でも好きだからと言って先生に何か答えや見返りを求めません。先生に幸せになってほしいんです。そのためには私に何が出来ますか?」
下から映る先生の顔を眺めながら尋ねた。先生は少し困惑の表情を浮かべたが、すぐに呆れた顔になって鼻で笑った。
「何が出来ますかって……僕は君に何も求めていないよ。ただ普通に僕と関わることなく一人の生徒として過ごしてくれれば幸いさ。」
違う。それじゃ意味がない。私の心が呟く。
「それは先生の幸せじゃないです。だって先生はまだ苦しんでいる。私は先生の苦しみを和らげたいんです。」
「大きなお世話だよ!」先生の苛立った声が車内に響く。
「赤の他人である君が苦しみを和らげるなんて不可能だよ。僕のこと何も分かっていないのに勝手なこと言わないでくれ。」
先生は私から視線を外して目元を手で覆った。
「先生、私は先生の心の中にあるものを分け合いたい。それで先生の気持ちが軽くなるのなら。でもそれが出来ないのなら他の方法でもいいです。これはきっと私の我儘なんです。私は自分の心を満たすために先生の役に立ちたいと言っているだけ。だから先生、私のエゴに付き合って。」
懇願の眼差しを先生に向けた。目を覆っていた先生が手を離して私を見る。迷っている。その瞳の中は沢山の感情と闘っているようだった。
長い沈黙が車内を襲っている。暗くて静かな夜だった。
「じゃあ僕と……」
先生はようやく沈黙を破って私を見つめたまま顔を近づけた。先生の息が私の鼻に当たる。私の胸が今までないほどに張り裂けそうだった。
「僕と一緒に苦しめばいいよ。」
先生がそう言って自らの唇を私の口に押し付けた。私は一瞬、驚きで目を見開いて心臓が飛び出しそうなほどの鼓動を感じながら、先生に応えるように目を閉じて唇を押し付け返した。
静寂な車内でのキスは暗くて、私は身を隠した状態で誰かに見つかったら全てがお仕舞いなのにそんなことすらどうでもいいと思えた。
〝現在”を生きて、それ以外などどうでもいいほど私は幸せだった。
ようやく……また次話まで時間がかかりそうです。