過去②
華絵さんの死後、僕は自分が生きていたのかどうなのかさえ思い出せないほど空白で意味のない日々を送っていた。
友達をつくるわけでもなく、誰かと恋をするわけでもなく、ただ毎日を流れ作業のように過ごしていただけの日々。その中でふとした瞬間に蘇る華絵さんの記憶。
春の進級する季節になるたびに僕は華絵さんの死を知ったあの日のことを思い出した。どこにいてもどんな状況に置いてもそれを思いだすと僕は泣きそうになり、周囲の人々に涙を悟られないように、何事もないように上手く振る舞った。僕の中には永遠にあの人がいて、忘れることはできない。それが苦しくて、でもいつか忘れてしまうのではないかという恐怖心が同時に襲ってくる。
こんなにも悲しいのなら僕はいっそのこと華絵さんを忘れたかった。けれど忘れるという行為は僕の中に生きている華絵さんを殺してしまうも同然で、それは僕にとって最も罪深い苦しみだった。簡単に自然に忘れることが出来るのならばどれだけ楽だろうか。
華絵さんが亡くなってから夫であった奏基は仕事を辞めて酒浸りのクズ男へ堕ちていた。元からクズであったがついに体裁良くしようとする見栄も失った。父は仕事が忙しいのを理由に奏基の面倒を母に押し付けた。面倒なことが嫌いで、元から奏基を好いていない母は父の指示通りに動いていたがその目に嫌気がさしているのが分かった。
実家にいるのが嫌だった僕は高校を卒業後、地元を離れて東京の大学へと進学した。
東京の大学で教育学部に入った僕を父は反対していた。父は僕に自分の仕事を継がせたいと願っていた。けれど僕は父のような人生を望んでおらず、何よりもあの奏基という憎い男だけが残された何もない地元に帰るのが嫌だった。東京の大学に入ってそのまま永遠に東京に留まりたいと思っていた。東京じゃなくてもいい。あの世界に戻らなくて済むのならばもうどこだっていい。
僕は華絵さんの存在だけを引きずったまま兎に角、華絵さんと幼い僕が生きていた狭くて小さな世界と決別したかった。
そのために実家を離れて東京で一人暮らしを始めた。
十八歳の夏休み、東京での学生生活やアルバイトに明け暮れていた僕は一度も帰っていなかった実家に数日間、戻ることになった。
実家に帰れば会いたくもない奏基と顔を合わせなければならないのかと思うと僕の平穏な心は不穏に変わる。心の中に渦巻く黒い闇を隠しながら揺れる電車内で車窓を眺めると外の景色も僕の心と同じように黒い雲で覆われていて今にも雷雨となりそうだった。窓の外を眺めている間、僕は暗かった。暗い。表情も心も握っている携帯電話の画面も、何も見えないくらいに真暗だった。
「おかえりなさい。天気悪いから雨降っちゃうんじゃないかと思ったけど降らなくて良かったわね。」
実家に着くと玄関先で真っ先に母が僕を迎えに来て安心したような笑みを浮かべた。母の笑みを見ると抗えない肉親への同情心が芽生える。でも結局、好きじゃないのだ。家族の繋がりはしつこくて切れない感情を創りあげるが、それと同時に薄くて中身はスカスカで何も詰まっていない。
「おお、帰って来たか。」
廊下を歩いていると部屋から出てきた父が僕を見て嬉しそうだった。僕は極めて他人行儀に、「帰ってきました。」とだけ返すと父は満足げな笑みを浮かべた。僕の暗い顔と父の明るい笑顔が陰と陽のように対比していた。
「帰って来たんですか。」
僕と父が向かい合っていると、父の後ろから知らない男の人が現れて僕のことを物珍しい生き物を見るような目で眺めてきた。僕は人が自分に向ける視線で嫌いな視線がある。初めて僕を見た時に、下から上までじろじろと見る人が嫌いだ。いや、見る人が嫌いなのではなくその視線が嫌いだった。上辺だけで値踏みされて価値をつけようとされているような気がして、それが嫌いだった。人間の価値が一度見ただけで決定するのなら人間は履いている靴以下だ。靴ですら履いてみないと買った価値があったのか分からないのに。
「誰ですか?」
笑うことなく僕が尋ねると父がその人を僕に紹介した。
「川屋孝介さんと言って私の会社の取引先の人でね、とても話が合う方で尊敬できる方だよ。」
仕事の人間か。お世辞を当たり前のように受け止めて納得の笑みを浮かべるその人と父の顔を見比べて僕はさっさと自分の部屋に戻りたいと思っていた。
「そうだ、今日はたまたま彼の娘さんも遊びに来ているんだよ。良かったら顔を出してもらって…」
父の一声で孝介は慌てて部屋の扉を開けるとその先に向かって、「こっちへ来なさい。」と手招きして囁いた。すると部屋から僕と同い年ぐらいの女性が出てきて僕と目が合った。
「娘の美咲って言います。」
孝介の言葉でその女性は軽く会釈した。僕も同じように返して笑うことなくその人を見つめた。
「お前と同い年なんだよ。高校を卒業してね…大学には通っていないんだが……」
「ニートなんです。」
父が言葉を詰まらせていると美咲が僕の目を見てハッキリと笑顔で答えた。孝介は慌てた顔で、「決して働くのが嫌な訳じゃないんだよ。辛い過去があったからね、まだ心の傷が癒えてなくてね…」と弁明する。
「辛い過去?ああ、中三の出来事ね。付き合っていた彼氏にふざけて海に飛び込もうって言われたから飛び込んだら私だけ生き残って彼氏が死んだ話のことね。それが辛いって言って高校入ったら色んな男と遊びまくって中々家に帰ってこなかったわよね。あの時はごめんね、お父さん。」
彼女の言葉に僕は彼女の中にある傷つくことへの恐れを感じた。何も感じていないようで本当は傷つくことを誰よりも恐れている人ではないかと思った。
「まあ、でも歳が一緒だからね。何かの縁だし、連絡先でも交換したらどうかな。」
父の言葉は僕に有無を言わさない威圧的な何かが込められていた。僕は美咲の顔を見て、同情した。彼女も同じなのでないか、そう感じた。それは恋愛感情ではなく、一種の仲間意識だった。好きかではなく、楽になれるか。現実逃避をするために娯楽に走る人間をこじらせたような。
僕たちは連絡先を交換した。
「付き合うんじゃなくて友達ですもんね。お互い友達がいる中の一人、連絡帳に名前が増えただけ。」
乾いた笑みを見せる美咲を見ながら僕の脳内は別のところへ行ってしまっていた。
海。彼女の言葉から僕は別の記憶を蘇らせた。それは浜辺を歩く華絵さんの姿。振り返って僕を見つめる華絵さん。笑った時の子供ような笑顔。波の音が脳内で再生されて華絵さんの笑い声が耳の奥で響き渡った。
「あんなこと言っていたけど美咲は本当は死んでしまった彼を忘れられていないんだ。今でもたまに夢にうなされていたり、海には恐くて行けないんだよ。多分、一生海には行けないね。巧君は真面目でいい子だとお父さんから聞いているよ。美咲は友達が沢山いるわけではないから、どうか仲良くしてやって欲しいな。」
孝介は帰り際、外で待っている美咲を置いて僕の元へ来るとそう小声で囁いてこの家から出て行った。
「何て言っていた?」
出て行った孝介を見送ると探るような父の視線と言葉が僕に向けられた。僕はさらっと流すように、「何でもない。」と呟いて父を置いて自分の部屋に向かおうとすると不満げな表情を浮かべる父の顔が見えた。
「おっと。」
部屋に戻ろうと廊下を歩いていたらキッチンから出てきた奏基とぶつかりそうになり、奏基が声を上げた。
僕と奏基の目が合う。奏基は成長した僕を一瞬だけ眺めるとすぐに視線を外して酒を片手に二階へと上がっていった。階段を上がる奏基の情けなくて醜い後ろ姿を眺めながら自らの中でムクムクと湧き上がる怒りを鎮めるように右手を抑え込んだ。
殺したら駄目だ。殺したら負けだ。
この感情を創りあげたのはこの男のせいであり、この感情は鎮めてくれるのはあの人だけだった。
あの人は僕がそうなるのをきっと望んでいない。だから僕は真っ当な人生を送る。あの人のために。
季節は流れ、体中をしつこく覆うような暑さが涼しい風を運ぶようになり、やがてその風が当たると痛くなるほどの冷たさに変わった。
街を歩けば世間はクリスマスモードであちらこちらにイルミネーションがキラキラと輝いていた。大学の友達も、街の雑貨屋も、スーパー、コンビニまでもが訪れるクリスマスに歓迎モードだった。僕は寒くて冷たい風が肌に当たるたびに心の中を支配する虚無感に襲われていた。痛くて冷たい。それは風ではなく、僕の心だった。
12月24日はクリスマスイブであり、僕の19歳の誕生日だった。電話で実家に帰ってくるのか母に尋ねられた僕は友達が祝ってくれるから帰れないと伝えた。本当はそうではない。友人に自分の誕生日を教えたことなどないのだ。大学で友人と喋っている時も、一人でいる時も、僕の心は虚しくて満たされることはなかった。決して辛いわけではない。ただ生き甲斐がないだけ。僕の生き甲斐はもういないから。
その虚しい気持ちを決して人に話すことはしなかった。どんなに仲良くなっても、好意を抱かれたとしても話すことはなかった。話したところで分かりっこない。分かってもらっても困る。それは理解ではなく、ただ分かったつもり、勘違いなのだ。他人の気持ちを他人が分かるなんておかしな話だ。他人なのに。
「お誕生日おめでとう。」
家で何もすることなく一人、部屋の掃除をしていた僕に美咲が電話をかけてきた。
僕の誕生日を父から聞いたらしい。僕たちは紹介されたあの夏から頻繁に連絡を取っていた。それは父の思惑通りであり、仮に僕たちが付き合うとしたら最も利益を得るのは父だろう。寄り添う僕と美咲を見て、ほくそ笑む父の顔が浮かんだ。
もうどうでもいいよ。そう言いたい。全部失った人間に後から何を付け足されようと興味ない。拒む必要もない。しかし手を広げて歓迎することもない。そんな男の相手となる美咲は気の毒だった。
僕と美咲は電話で他愛もない話をした。僕は大学の友人の話や授業の話をした。美咲は最近、仕事をする気になったみたいで求人で見つけた職場に面接へ行ったことや、母親とショッピングをした話などを聞いた。僕はその話を聞きながらテレビを点ける。画面に映ったのはクリスマスの特番でサンタの格好をした司会者とひな壇芸人たちが談笑していて客席から笑い声が響いていた。机の上に置いたリモコンをもう一度掴んで音量を小さくする。
「あのね……巧君が良いならの話なんだけどね……」
美咲の言葉に相づちを打ちながら半分はテレビの方に気が行っていた。
「試しに付き合いたいの。」
テレビに向かっていた僕の気持ちは美咲の一言でようやく戻ってきた。僕は沈黙してリモコンのスイッチをオフにする。テレビの笑い声で賑やかだった部屋が静かになった。
「前に話した過去のことなんだけどね」
彼女の言葉で初めて出会ったとき、孝介が言っていたことを思いだした。
多分、一生海には行けないね。
「私、本当は死んだ彼のことが好きだったのか分からないの。まだ中学生だったし、私から好きになったわけじゃない。最初はそうでもなくても、好きだと言われたら私も好きかもって思うことあるでしょ?その感覚であの人と付き合ったから……よく分からないの。」
僕には美咲の感覚が分からなかった。ただ黙って、呆然とそれを聞いていた。
「よく分からないまま死んじゃった……」
美咲の呟きで僕の脳裏に華絵さんが動く。笑っていて、肩が揺れている。
電気が点いているのに、僕の部屋はいつだって薄暗い。
「付き合おうか。」
僕の声がポツリと部屋に残った。美咲は静かなままで中々、声を発しない。
「それがいいなら。」
美咲がようやく声を出した。
楽だ。力のないやり取りだった。僕の肩の荷がほんのわずかに下りた。それと同時に父の顔が浮かんで、安堵と同時に悔しさが残った。思い上がるな。
「あ。あと一分で二十五日だ。」
時計の針を眺めながら僕が呟くと美咲が、「嘘!?」と声を上げて、「本当だ…」と言った。
「最後になっちゃうからまた言うけど、お誕生日おめでとう。私から何もプレゼントはないけど…」
「ありがとう。」
僕と美咲がやり取りをしていると時計の針は零時を過ぎていて、日付は二十五日に変わっていた。僕はそのまま流れるように生まれた日を通り過ぎて行った。
美咲と付き合うことが決定したあの日から僕は一生、彼女と人生を共にする気がしていた。それは運命を感じたとか、盲目的に愛していたとか、ただ単純に好きだったとかでなくて、それが流れだった。
僕の人生に組み込まれた流れ。生きるという流れ作業。死ぬという自然現象。その中で出会う人たち。心の中で生存し続ける人。生涯を共にする人が激しく感情を揺さぶる人ではなく、この人なのか、この人でいいか…と思ってそのまま流れるように一緒に暮らすように、運命とはお互いの強い感情で芽生えるわけではないのだ。
強い感情は消えた。あれは僕の中の青春だったのかもしれない。青春とは永遠じゃない。いつか失うもの。だから苦しい。