過去①
夏の海だった。
今でも鮮やかに覚えている記憶だ。
砂浜の上を歩くその人は楽しそうで笑顔で、もういい大人なのに子供のような屈託ない表情だった。
思春期真っ盛りの僕は楽しそうに僕を見て笑い、手招きするその人を眺めながら15歳以上も歳の離れたその人にまるで子供を見るような目を向けた。するとその人は僕のその表情に気づいてまた楽しそうに顔をくしゃくしゃにして笑った。僕の心にじんわりと広がる温かい気持ち。未だかつて感じたことのないこの心の中の熱を何なのか分からず説明できない自分に戸惑いを覚えた。
波打ち際で彼女はずっと笑っているのだ。塩の満ち引きで迫ってくる海水を静かに追いかけたり逃げたりして、ちょっと嬉しいと僕を見た。僕はそれを黙って見つめながら笑い返すことはなかった。当時14歳だった僕にとってまだ笑い返すのには気恥ずかしさと子供っぽさが残っていた。
僕の中で彼女は一番で、それは年上の女性に対する憧れとかそんな軽いものではなく、彼女は僕にとってこの何の喜びもない田舎町で唯一、苦しみやいつの間にか失っていた生きる希望を癒してくれる存在だった。彼女を失うのなら、僕の心はきっとその日から死ぬだろう。彼女以外に愛せる存在などいないから。
「僕が勉強を頑張れば華絵さんの悩みはなくなるよ。だから今の僕はもう何も辛くない。」
海辺で体育座りする僕と華絵さん。華絵さんは僕の言葉を聞いて、「そう……。」とだけ呟いた。その声の裏に半信半疑が残っているのが分かった。見切り発車の一過性のものだとでも言うように。
「僕は頭のいい高校に行くよ。もう同じ失敗は繰り返さない。そして三年経てば……」
そこで静かになって高校を卒業する自分を想像した。誰よりも凛々しく、逞しくなっている自分を。
「三年経てば…?」
華絵さんが僕の顔を覗き込んで尋ねた。大人な女性の落ち着いた声と裏腹の赤子のようなあどけなさが僕の瞳を映した。その日、僕はずっと決意していたことをようやく口にすることが出来た。僕はこのために生きている。大げさな話ではなかった。
「一緒に逃げよう。」
僕の声が風と共に海を渡ってその先にある見ず知らずの世界まで運んでいるようだった。カモメの泣き声が聴こえる。僕の言葉を海は呑まずに受け入れて、カモメがそれを称えているように感じた。そう思えば、自分がいくらでも頑張れて、強くなれるような気がした。
華絵さんは、ふふっと笑って僕から視線を外した。僕の強い気持ちを本気にしている様子ではなかった。中学生の戯言だと思っているのだ。
座っている華絵さんの肌に触れたいと思う気持ちはあった。けれど触れることはできない。指一本も触れることが出来ない。それは思春期などという一過性のものではない。華絵さんの抱えている苦しみが大きすぎて僕は彼女を守りたいと心の底から思う反面、まだそれを出来る人間ではないことを分かっていて、だからこそ直視できなかった。その彼女が持っている孤独を、笑顔の裏にある誰にも見せない悲鳴と嗚咽が走るほどの涙を。
僕の苦しみよりも大きな苦しみを抱えているのに、彼女は僕にとって唯一の光だった。
「巧、こっちへ来なさい。」
彼女と初めて出会ったのは僕がまだ10才の時だった。
家で一人、ゲームをして遊んでいると父に呼ばれた。学校は春休みで僕はまだ勉強という行為に何の苦痛も責任感も感じていない頃だった。言われた通り父のいる玄関へと向かうとそこには伯父の奏基が立っていて隣には大人しそうな黒髪で和顔の女性が奏基に寄り添って立っていた。
「華絵さん。今日から巧の伯母さんになる人だよ。」
伯母さん。父の言葉を頭の中で繰り返す。彼女をそう呼ぶにはまだ若い気がした。年齢はその時まだ分かっていなかったが彼女の顔は子供の僕から見てもどこか子供っぽくてあどけなかった。
「10歳も年下の女と結婚なんてお前もやるなあ!」
笑いながら父が奏基の肩を勢いよく叩いた。それは兄弟同士の戯れと呼ぶには少し当たりが強いような気がした。奏基の顔が一瞬、引きつったのを僕は見逃さなかった。その時から僕は父と父の兄である奏基の間に埋めることのできない溝があることを何となく黙認していた。
幼いころから優秀で自己主張が強い性格の父は決断力があるところや積極性などを祖父に買われて祖父が地元で数店舗、経営している家具店の後継ぎとなることが約束されていた。父は自信家で、いつだって自分の意見を一番に大切にする。兄の奏基への態度も無意識にその自信が滲み出ていた。そのたびに奏基の顔が引きつっているのを父は気づいていないのだ。それに気づいているのは幼い僕だけだった。
長男でありながら祖父から認められず自分の意思とは関係なく会社を継がせてもらえなかった奏基。プライドが高く、見栄っ張りの奏基にとってそのダメージを大きかっただろう。奏基は祖父の仕事を手伝わずに地元の市役所で働いていた。
「これからよろしくね、巧君。」
華絵さんが僕の顔を覗き込んで笑った。僕は一切、笑い返さずに華絵さんを見つめていた。
「また新しい女を捕まえて結婚か。随分若いけどそのうち別れるだろ。」
その日の夜、トイレに向かう途中で僕の存在に気付いてない父と母の会話を聞いた。
「28歳だけど奏基さんとの結婚をご両親に反対されて今は家族と絶縁状態なんですって。」
母の言葉にたばこの火を点けてふかしながら父が鼻で笑った。
「見かけによらず強情な女だ。まあ、しかしすぐにその気持ちも消えるだろう。あの男は顔はいいが中身に問題があり過ぎる。前の女とは暴力が原因で別れた。」
父を見て母は一言、「私たちに影響がなければどうだっていいんだけど……」と呟いた。
僕はその日の夜、夢を見た。華絵さんが初めて出会った僕に笑いかける夢だった。夢と言うよりは現実に起きたことを僕が鮮明に覚えていて、それを脳が記憶として処理しているだけだった。僕は華絵さんの笑顔を脳裏に焼き付けて、ぼんやりと目を覚ますと朝だった。
「巧君、何しているの?」
華絵さんが僕の部屋の扉をノックもせずに開けて笑顔で覗いてきた。
無神経な華絵さんの行動に中学一年生になった僕は一瞬、苛立ちを覚えたが彼女の笑っている顔を見ると不思議とその感情は消えて行った。
僕と華絵さんが初めて出会ってから二年以上の月日が経過していた。華絵さんは定期的に奏基と共に父の家へと遊びに来ていた。父に会いに来ている訳ではなく、僕たちと一緒に暮らしている祖父に会いに来ている感じだった。しかし奏基は自分の父親である清太爺ちゃん(僕の祖父なので僕はそう呼んでいた)のことを父として尊敬している訳でもなかった。自分のプライドをズタボロにした男に奏基が親しみを持つなどありえないことだった。しかしそれでも清太爺ちゃんに呼ばれれば愛想よく顔を出すのはこれもまたこの男の小さなプライドを守るためだった。この男は常に外面だけは良かったのだ。
「また勉強しているの?中学受験が終わったばかりなのに。」
華絵さんが僕の部屋の中へと勝手に入ってきて机の上に教科書とノートを広げる僕を見て困ったように笑った。
僕は地元の公立中学校に入学をした。本当は県内で名門と呼ばれている中高一貫の市立中学校に入学するために家族の期待を勝手に背負わされて懸命に勉強に励んだにもかかわらず僕はその学校の試験に落ちた。
「まだ中学生だからこれからよね。」
落ちたことが分かった当初、そう言って笑いかける母の目に落胆が色が見えた。父は僕と同い年の頃、その学校を受験して合格した。その息子である僕が落ちた。
試験結果について何も言わない父を僕は怯えた。本当は落胆している、僕が息子であることを恥じているに違いない。僕の心は奈落の底に突き落とされたように暗く、重く、そこから救い出せる人間などいないと思っていた。
「華絵さん、上にある赤い本を取ってほしいんだ。」
僕が部屋の本棚の方を指して高い本棚の一番上にある参考書を教えると華絵さんは嬉しそうに、「分かった。」と言って本棚の方へと向かうと背伸びして一番上へと手を伸ばした。
プール開きが始まった夏の季節、窓から当たる日差しは暑くて眩しい。手を伸ばす華絵さんのTシャツが上に上がって背中の地肌が見えた。そこから覗く無数の青痣。華絵さんは子供のような人だった。隠しているつもりでも、ふとした瞬間の無防備な行動で露呈する。あの男の欠陥、本性が。
「はい、取れたよ。」
華絵さんが本を取って笑顔で僕に渡す。僕は弱弱しく笑ってそれを受け取る。
どうすることも出来ないのだ、現在の僕には。だからこそ、悔しくて苛立つ。外面だけ良くして裏では自分を愛する女に手を上げる男も、それに耐える貴女も、見て見ぬふりをする父も母も、無力な己も、全員許せなかった。
三月。長く厳しい寒さがようやく終わり、暖かな気候で雀の鳴き声が穏やかになっていた。
僕は帰宅するために小走りで歩きながら逸る気持ちを抑えるように当時の古くて分厚い携帯電話で番号をコールした。
何回もコールしているのに電話に出ない。
家族よりも先に僕は華絵さんと奏基の自宅へ電話をかけていた。
その日は第一志望の高校受験の合格発表だった。僕は選ばれた者のみが記された受験番号の羅列を眺めながら自らの番号を探した。僕の側には沢山の受験者たちの波が出来ていて喜びの声を上げる人や泣きながら携帯電話を握っている人もいた。
自分の番号を探す。長くて一文字でも読み間違えればとてつもない勘違いとなる受験番号。自分の番号を見つけた瞬間、僕はその番号を何度も読み間違えていないか確認した。そして自分の番号だと確信すると喜び以上に安堵した。僅かだが、これでようやく一歩前に進めたのだ。
あと早くて三年……いやもう少しかかるかもしれない。僕は早く大人になりたい。大人になって幸せにしてあげたい人がいる。
番号を確認し終えて人々の波をかき分ける。長い人ごみからようやく抜け出すと僕は真っ先に華絵さんに伝えたいと思っていた。それなのに何度かけても華絵さんの声を聞けない。
受験中、僕と華絵さんはほとんど会うことが出来なかった。僕は受験勉強でほぼ休みなく家と塾の往復をしていた。華絵さんは以前ほど奏基と一緒に遊びに来ることはなくなっていた。電話をする暇もないくらい、毎日ひたすら机と参考書と向き合う日々が続いた。
華絵さんと連絡を取ることは出来なかったが、僕はどんな時でも頭の片隅に華絵さんの存在があった。勉強の合間にわずかな休憩をはさむとき、僕の思考を支配するのは華絵さんの存在だった。華絵さんといる日々を思い返すと僕の負けそうな心が活力となって強くなった。華絵さんの力は偉大だった。彼女のために生きたい。
何度、華絵さんの家に電話をかけても出ないため僕は仕方なく家族に電話をすることにした。
携帯電話から自宅の番号にコールすると一発で電話に出たのは母だった。
「もしもし、お母さん?」
「……どうだったの?」
挨拶もなしに母が僕に結果を尋ねてくる。
「合格したよ。」
僕が伝えると母は安堵したような短い溜め息を一つ吐いて、「そう…それは良かった。」と呟いた。
第一志望に受かったのに思っていたよりも喜んでいないな。電話越しでも母の声が落ち着いているのが分かった。
「こんな状況で言いにくいけどね……」
電話越しで母の言葉を僕は黙って聞いていた。
「華絵さんが首吊って死んじゃったんだよ。朝の出来事みたいなんだけど私もお父さんも色々バタバタしてて訳が分からない状況なのさ……だからあんたの合格祝いは今日は出来そうにないね。私とお父さんは忙しいけどあんたは何も面倒なことはさせないから、ただ葬儀にだけ参加すれば問題ないから。」
何を言っているのだろうか。電話越しで話している母は淡々としていて冷静だった。取り乱している様子もなく、まるで来る時が来たとでも思っているような口調だった。
僕は母の言葉を聞いている間、時が止まったように心が硬直して気づけば歩いている足が止まっていた。僕の姿をすり抜けて通り過ぎていく無数の学生たちを前に僕だけが立ち止まって動けず、同時に時も止まった。
電話をこのまま切ってしまいたかった。母は僕のことなど何も気にしていない様子で、「私たちは明日、お通夜に参加しないといけないからあんたは家で待機して……」と話を続けている。
長い長い母の言葉を聞き終えて電話を切ると携帯電話を握っている僕の腕が、ぶらんと下に落ちた。
穏やかな気候の中で絵の具で描いたような水色の空の中を小さな白い雲がいくつか浮かんでいた。
友達同士で合格発表を見に来た女学生が楽しそうな笑い声を上げて後ろから来ると僕の肩にぶつかって、僕の身体が弱弱しく揺れた。二人の女学生は気にして振り返る素振りも見せずにそのまま笑いあいながら遠のいて行った。
その後も無数の人々が僕のことを追い抜いて行って僕だけが立ち止まったままその場に留まっていた。
僕は頭の中で華絵さんの姿を思い浮かべながら、さっきまで母が話していた出来事が本当のことなのかさえ疑っていた。
けれど時が流れることによって僕はようやく華絵さんの死を実感することとなる。
人の死を実感するのは亡くなった直後ではないことを僕は華絵さんを通して知った。
亡くなった直後は現実を受け止めることが出来ないため心のどこかでその人がまだ生きているのではないかという錯覚に陥る。そして月日が流れてその人が姿を現さない時、初めて実感するのだ。嗚呼、もうあの人はここにいない。会いたいと思っても会えない。その人を思い出しても直接話すことは出来ない。その時になって実感する人間の死は残された者に他の誰も埋めることが出来ない虚しさを与える。
僕の頭の上で空を舞って通り過ぎていく雀の鳴き声が聴こえた。
僕はもう、死んだのだ。華絵さんがいなければ僕に生きる糧は何もない。
華絵さんが僕の生きる活力だった。その人のために生きていたのに、その人を失った今、僕には生きると言う何の意味も持たない流れ作業だけが残された。
僕には一体、何が出来たというのだろうか?
僕の過ちは何だったのですか?