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硝子の衝動  作者: 黒乃白
3/7

偶然

「宮部先生、宮部先生。」

 その名前を呼ぶ声が聞こえるたび、ドキッとする。

そして反応して先生の顔を見たくなる。でも見れない。見ることが出来ない。

目が合ってしまったとき、私はどう反応すればいい?先生は気づく?

気づかれてしまった時を想像するだけで冷や汗が出る。しかしその一方で、もしも先生が私に気づかなかったのなら?と想像する。すると私の心は途端に色を失って全てが灰色になっていくのだ。

「廊下を走らない!」

小さい子供のように燥いで走り回っている女子生徒に注意する宮部先生の声が聞こえた。走り回っている女子生徒の一人が先生の方を見て嬉しそうに、はーい!と声を上げて走る速度を落とした。それを見つめている先生の後ろ姿を私は遠くから先生に見えないように眺めていた。

「次の授業なんだっけ?」

「現国だから宮部先生。」

私の傍で明美と怜奈が会話を交わす。

「宮部だったら寝れるな。授業中寝てよーっと。麻由あとでノート見せてね。」

明美の言葉に麻由が笑顔で頷いた。

「ごめん、私ちょっとトイレ行ってくる。」

私がその場を離れようとすると明美が、「私もトイレ行きたいわ。」と言い出した。私たちは誰かがトイレに行くと必ず一緒にいる子達もトイレに行きたがり、結果、芋づる方式でみんなが同じ目的を持って向かうのだった。

「うーん…私お腹痛いから一人で別館のトイレに行ってくるね。」

私の言葉に明美が、「じゃあ、いいや。やっぱり行かない。」と返した。私は三人を置いて一人、その場を離れる。廊下を歩いていると友人といる真山君が視界に入った。彼の視界にも私が入っていることを悟る。私は何も気づいていないように歩き続けた。彼も何も言わずに友人の方へと視線を向ける。常に互いの存在を意識しながら他人のふりをする。私と真山君は最近そんな感じだ。

休み時間はそんなに長くない。私は早歩きで廊下を歩きまわって宮部先生を探した。ついさっきまでいたのに見つからない。そんなはずがないと私は廊下の奥の方まで探した。

まさかと思いながらも視聴覚室の扉を開けて中を覗く。中は真っ暗でシーンとした空間になっていた。

いるわけないよね……。溜め息を漏らして扉を閉めようとすると、誰かが私の背中を押して視聴覚室の中へと押された。驚きで短い声を上げて振り返ると電気が点いてスイッチに指を乗せた宮部先生と目が合った。

私の心臓が高鳴っているのが分かる、うるさいくらいに。

目が合った先生は私から視線を外すことなく、じっと見つめたまま、「嘘だったんだね。」と言った。

胸が締め付けられる。先生が私に向ける軽蔑を含んだ視線が心の奥底まで焼き殺してしまいそうだった。

「すみません。」

私はそれ以外、何も言えなかった。どう詫びればいいのか分からない。謝って許されることではない。私は立ち尽くしたまま胸が苦しいのが分かって後ろで隠した両手をきつく握り合った。

「いくら払えば黙ってくれる?」

ポツンと浮かんだ先生の言葉。え?

自分の耳を疑うように先生を見た。先生は冷静な表情で私を見ながら、「訴えられたら僕は教師クビだからね。君はそれを望んでいるの?それなら仕方ないけど、もしも僕との過去を誰にも言わないのならいくらでも払うよ、払える限りだけど。そしたら君のプライドも、僕の仕事も失わないで済む。君はお金ももらえるしね。」と言って短い溜め息を一つ吐いた。

淡々と無表情で語るこの男に無性に苛々して怒りが込み上げてきた。ムカつく。一言で言えばその感情しか今の私には湧いていない。

「お金なんていりません。心配しなくても私はあの日の出来事なんてこの前まで忘れていました。先生があの夏のときの人だったってついさっき気づいたんですよ。それで私も家族とか友達にバレたら嫌だから黙っていて欲しいって言いたくて探していたんです。」

急に強気な口調になった私を見て先生は優しく笑いながら、「それは良かった。好都合だね。」と言った。何が好都合だ。ますます苛ついた。

「そうですね。あの夏の出来事はなかったことにしましょう。その方がお互い嬉しいですし。私たちは教師と生徒。今年の春に初めて会った、これから一生、親密になることはない、ただの教師と生徒。それでいきましょう!」

これでいいでしょ?良かったね、自分の都合のいい方に話を持っていけて。

傷ついた心を隠して得意げな表情で先生を見ると先生は冷静な顔のまま言った。

「過去は永遠に消えない。一生残って忘れたいと願えば願うほどに染みついたまま離れない。だから過去をなかったことにするなんて言葉として成り立っていないね。」

は?何言ってんの、この人?

苛ついたのも束の間、先生の冷たい表情の奥で寂しげな瞳が見えて私は何も返せなかった。

言っていることと表の顔は一致しているのに目の奥が不安げに揺らめいている。

あなたは私に一体何を求めているの?



「宮部先生と彼女ってどこで知り合ったの?」

 授業中のノートを書く時間、黒板に書いてある文字を書けばあとは宮部先生が座っている教卓の上にそのノートを置くと提出したことになり残りは自習時間になる。前の席に座っている好奇心旺盛な騒がしい生徒たちがノートも執らずに先生にくだらない質問をし始めた。

「実家だね。父親の紹介で知り合った。」

先生は嫌がる様子もなく平然と笑顔で答える。平気で他人に言えるような関係。また私の心が苛ついてチクチクと痛む。

「へえ~。先生のお父さんと先生の彼女が知り合いだったってこと?」

生徒の疑問に先生が笑う。

「いや、違うよ。僕の父親と彼女の父親が仕事の関係で付き合いがあってプライベートでも仲が良かったんだ。それで息子の僕と取引先の娘である彼女と知り合って付き合った。」

「それってつまりお見合い?」

先生は生徒の言葉に首を傾げて少し悩んだ。

「うーん…そうなるかな?」

「付き合って何年なの?」

別の生徒まで楽しげに質問に入ってきた。

「19歳からだから…もう付き合って七年かな……」

「彼女は何歳?」

「同い年さ。」

どんどんと先生と彼女の情報が嫌でも耳に入ってくる。私は聞きたくないと思う一方で知りたい気持ちもあった。ホラー映画を観て、恐いからと目を閉じている振りをして薄目を開けているような気分。

「彼女も東京にいるの?」

「いるよ。僕の家から少し歩いたところに住んでいるね。」

それじゃあ頻繁に会っているんですね。私と過ごしたあの夏の日の後も……グルグルと黒い感情が私の中で渦巻いている。どうしようもない壁。試合をする前に負けと言われたような感覚に似ている。卑怯だと言って負けを認めない一方で、それは紛れもない敗北なのだ。

「じゃあ、もう少しで結婚?プロポーズはどこでするの?言葉は?もう決まっている?」

「指輪とかまだ買っていないの?早くしないと彼女が可愛そうだよ!」

生徒たちが燥いで先走ったことを口々に言う。先生は困ったように笑ってみんなを見ている。

「彼女も仕事をしているし、何よりも僕がこの学校に慣れるまでまだ結婚どころじゃないよ。」

生徒たちの愉しそうな笑い声。先生の笑顔と少し困惑した瞳。私は苛々しながら書き終えたノートを見つめて、持っていたシャープペンシルを置いた。

「19歳で運命の人に巡り合うなんて羨ましい。私も彼氏欲しいよ~。先生、私今フリーなんです。」

「いや、僕に言われても……」先生が苦笑する。

私はノートを提出するために立ち上がった。質問タイムの間も何人かの生徒がノートを提出しに立ち上がって教卓にノートを置いていた。

「19歳で付き合った人と永遠に一緒か……めっちゃ純愛じゃないですか!」

男子生徒の大きな声が教室内によく響いた。私は教卓の前に座っている先生の側に立って積み上げられたノートたちの上に自分のノートを乗せた。先生の視線が私へと向いた。先生が私を見ている。

私はノートを置いた後、大人しく自分の席へと戻らずに余計な言葉を残してしまった。

「私はこの世に永遠なんてないと思います。今抱いている感情が永遠に続くと思わない。一度離れしまえば気持ちはなくなって友達も恋人もただの過去の人になると思います。」

突然の私の言葉に男子生徒がポカンとした表情で私を見た。燥いでいた連中も静かになって、どうした?とでも言いたげな顔でこっちを見ている。

私はハッとして早々とそこから逃げ出そうとした。何言っているんだ私……

自分の席に戻ろうと顔を上げると目の前にいる先生と目が合った。

先生は黙って私を見つめているだけだった。ただその表情はいつもと違っていて、私を憐れむような目で見つめていた。

その目はまるで何も知らない子供を見るような目。馬鹿にするわけでもなく、心の底から可哀想だと思っているような目。その目が私の自尊心を傷つける。私が一番嫌いな目。

私を最も苛立たせ、怒りの火を点ける目だ。そして迷子になった子供のように出口の見えない暗闇で泣きわめく心を創る瞳だった。

傷ついた心を隠すように、何も気にしていない様子で自分の席に戻った。周りを見渡さなかった。

その日は一日、先生の顔を覗けなかった。自分の言ってしまった言葉、それに対して言葉の代わりに返ってきた先生の瞳を思い出しては、心が地面を濡らす雨のように冷たくて寂しかった、寂しかった。



「美海、今日帰りに明美と怜奈とご飯食べに行くけど一緒に行ける?」

 学校が終わった快晴の日、麻由の言葉に私は頭の中でこの後の予定を思い出す。

「あー……今日は特に何もないから行ける!」

笑顔で応えると麻由も嬉しそうに笑って、「明美たちに言っておく!」と返した。

頷きながら頭の片隅に、親に連絡しないと…と思うと心の奥に黒い斑点が出来た。

いつ、どこに、何時頃まで、夜は遅くないか、誰と。

携帯画面に並べなければならない文字を考えただけで心が重くなる。

心配されるのが嫌なわけではない。束縛されるのが嫌だった。心配という仮面で隠して束縛をする父と母が嫌いだ。あの人たちの固定観念が嫌い。あの人たちの響さんに向ける視線が嫌い。軽蔑するような眼差し、存在を否定するような、罪人を見るような眼差し。その眼差しを見て、私はあの人たちを同じ眼差しで眺める。そうすると血のつながり以上に嫌悪感が芽生える。その一方で、彼らを嫌いになれない、血のつながり故の虚しい性が、流れる血の奥でいつまでも居る。でも家に帰りたくないのだ。父と母の思い通りになりたくない。

 下校時刻になって四人で廊下を歩くと先生が向かい側を歩いてくる。

顔を上げて先生を見ると先生は無視するように、不自然なくらい私たちを見ることなく通り過ぎてすれ違った。誰も気にしない、よくある日常の一コマの中で私は延々と先生のその顔を頭の中で再生する。その隣で麻由たちが何も気にしていない様子で楽しそうに笑っていた。

「もうお腹空いた。」

学校を出ると明美がこの言葉を何回も言っていた。

「また言っているよ。」

怜奈が呆れて麻由が笑う。私は麻由の大らかな笑い声が好きだ。

「あの、すみません。」

駅まであと少しというところで誰かに声を掛けられた。四人が一斉に振り返る。私たちの視線の先に女性が立っていた。

「その制服って○○高校の生徒さんですよね?ちょっと……高校までの道のりが分からなくて……」

大人しくて真面目そうな雰囲気の若い女性だった。と言っても私たちよりは年上で大学生でもなさそうだ。

「あー……そうなんですか……」

笑顔で返した明美だがどうやって説明をしたらいいのか分からず頭を掻いて、どうしよ…と小声で呟いているのが聞こえた。駅付近の騒々しさの中で私たちだけが静まり返る。

「道のりだけ教えてくれれば自力で行くんで……」

女性の控えめなお願いに無意識に口が開いていた。

「ここから歩いて十五分くらいなんで私が案内します。」

驚きだ。自分にこんな善良な気持ちがあるなんて。麻由たちも少し驚いたような顔で私を見ていた。

「本当ですか?ありがとうございます!」

女性の心の底から助かったとでも思ってそうな曇りのない輝いた視線に私はたじろいだ。

「どこにいるのか連絡してくれればそこに行くから麻由たちは先に暇つぶしていていいから。」

三人にそう言い残して私はその女性と学校まで道を共にすることになった。

「本当にありがとうございます。学校に行くの、初めてなもので……」

一緒に道を歩いていると、女性が再び感謝の言葉を発した。

「いえ、いえ。高二は暇人なので…時間に追われている訳でもないですし。」

私が返すと女性が、「二年生なんですか?」と尋ねてきた。

どういう意味だろう…と憶測が飛ぶ。その女性の視線で推測するのだ。年相応に見られているのか、それよりも上か、あるいは下か…。

「はあ…まあ一応。」

控えめに返すと女性は私の顔をじっと見た。

「どうしてだろう…」

急に消え入りそうな声で呟いてきたので思わず、「はい?」と聞き返してしまった。

「あ、ごめんなさい。すごくどうでもいいことなんです…えーと……名前は?」

女性に聞かれて、「太田美海です。」と答えた。苗字だけでいいのに何故かフルネームで伝えてしまった。

「美海さん!あ、私は川屋美咲っていいます。」

彼女の言葉に、はい。としか返せない。道案内しただけで今後もう会うことはないと思うのに何故、自己紹介する羽目になったのか。

「なんか芸能人でも顔は全然似ていないのに雰囲気とかで誰かに似ているねって言われることあるじゃないですか。そんな感じです。どこが似ているのだろう…分からないけど美海さんを見ていると浮かぶ顔がいるんです。」

誰のことを言っているのか。そもそもこの人と知り合ったのが今さっきなのだから私に分かるはずがない。

「学校に何の用事で行くんですか?」

私と美咲さんの前に学校が見えてきた。ついさっきまで授業を受けていた変わらぬ建物。

「大した用じゃないんですけど…凄く馬鹿みたいな話で…。見てみたかったんです。」

何を?この建物を?照れ笑いを浮かべる美咲さんの言葉に私はポカンとした表情になる。美咲さんはそれに気づいて、「ああ、ごめんさい!」と謝ってまた照れた顔をする。

「何言っているか分からないですよね。実は恋人がここで教師をやっているんです。そういえば二年生の副担任になったって言っていたような……あ、あそこにいる!」

学校の校門付近を見た美咲さんが声を上げて手を振った。そして嬉しそうに笑ってその人の名前を叫んだ。

「巧!」

美咲さんの視線の先で下校する生徒を見守る宮部先生が立っていた。宮部先生がこちらを見て、静かな表情を浮かべた。私と目が合った。

宮部巧。

美咲さんは黙ってこちらを見ている宮部先生を見ながら、「巧っていつもあんな感じなんです。生徒の前でもあのままなのかな?」と呟いた。

私は静止する宮部先生を黙って見つめた。今、先生の中にどんな感情が揺れているのだろうか。



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