再会
「あ、麻由ちゃん!」
休み時間の廊下を麻由と二人で歩いていると隣のクラスの千田が麻由に向かって手を振った。
麻由が私の方を見て、「千田がいるから一緒に来て。」と言われた。クラスの違う千田といつの間に仲良くなったのだろうか。何となく返事をして一緒に千田の近くへ寄った。
「今日、いつもと髪形違うね。」
千田が笑顔でそう言って麻由の頭を撫でた。千田の馴れ馴れしさに私の身体から鳥肌が立つのが分かった。
「ちょっと結んでみたの。いつも結んでないから気分で一つに結わいてみた。」
「似合ってるよ、可愛い。」
千田の胡散臭い笑顔が見えた。麻由はこんな男と何故、仲良くなったのだろうか…
「おい、黙ってないで真山も何か言えよ!」
千田に笑って突っ込まれたのは、私の前で私と同じくらい静かに乾いた目をしていた真山君だった。彼とは廊下で何度か見かけたことはあるが、一度も喋ったことはなかった。
「ああ、似合っている似合っている。」
棒読みのセリフを吐く真山君に、「ちょっと、めっちゃ棒読み!」と麻由も突っ込んだ。
「こいつ、いつもこんな感じだから気にしないで。」
私は千田の隣で全く笑う素振りすら見せない真山君を不思議に思いながら見たが、真山君は私が傍にいることも分かっていないんじゃないかと思うほど周囲の人間をまるで空気のように扱っている様に見えた。
私も彼の目からは空気か……。真山君が私を空気として扱っていたとしても私にとってそれは不快なことではなかった。むしろこんなにも人と戯れることに対して露骨に関心を示さない彼が羨ましいと感じた。
「そろそろチャイム鳴るね。」
私が言うと麻由が頷いて、じゃあね。と二人に手を振った。千田は振り返したが真山君は一切振り返さず、無表情だった。ただ少しだけその場を離れた際、私たちへの視線を感じて振り返ると彼と目が合った。しかしそれもまた一瞬で彼は表情一つ変えることなく視線を外して教室内へと入って行った。
セーターとブレザーを着ないと廊下を歩けないほど肌寒い冬だった。
上半身は暖かい格好をしてもスカート丈は長くしたくない維持で教室内ではひざ掛けを授業中に掛けている女子生徒がほとんどだった。季節問わずに変えないスカートの短さから女子高校生たちのプライドが見えた。私もその仲間に入りたくて懸命に真似っ子をしていた。
数日後、帰宅途中の私は電車に乗って携帯をいじっていた。
流れる景色はいつも通りで、学校の最寄駅から家の最寄駅までは電車で約二十分程だった。
同じく帰宅途中と思われる別の学校の制服を着た女子高生の甲高い声が耳の奥で響いた。
もう少しで駅に着く。持っていた携帯電話をしまって私は今でも頭の片隅で忘れることが出来ていないあの人への想いを巡らせた。
もう二度と会えない。あの夏の出来事から私は本当にあの人に連絡をしていなかった。本名も分からない。職業も知らない。彼女がいるのに知らない女と寝てしまうような怪しくて、世間の常識から離れた男。それでもあの人の哀しみに満ちた横顔を見ていると今まで感じたことがない胸が締め付けられるような気持ちが芽生えた。会わない方が賢明なのに心のどこかで偶然の再会を期待している私がいる。
最寄駅到着のアナウンスを聞いて車内から出ると一気に寒い風が体を包んで底冷えした。
さむっ。と思わず小声で漏らしてしまうほどだった。出来るだけ体を縮こまらせて、駅のホームを出ると改札口に向かう私の前を見たことのある後ろ姿が歩いていた。
真山君じゃん。心の中で呟いて、静かに歩く彼の背中を眺めた。
最寄駅が同じであることを初めて知った。中学校は違っていたが、同じ地域の人間だったとは。
それにしても歩き方暗いな。決して遅いスピードではないし、姿勢だって悪くないのに真山君の背中には何か陰を背負っている様に見えた。私は歩いている彼を無意識に追いかけていたが、少しよそ見をしているうちに彼を見失った。
まあ、いいや。ちょっと興味があっただけのことだし。
気にせず帰り道の方へと向かうと、怪しかった雲行きから雷が鳴って突然の雷雨となった。ポツポツと大粒の雨が落ちたかと思うとすぐにバケツをひっくり返したような大雨となった。体が濡れていき、ますます冷え込んでくるのが分かった。
最悪だ。慌てて雨宿りできる場所を探していると後ろから誰かが来て私の真上に傘が映った。振り返ると傘をさした真山君が無表情で私を見ていた。
「ありがとう。」
真山君の傘の中に入ってお礼を言うと彼は黙って頷くだけだった。
私は自分の家の方向を彼に言わなかったし、彼も特に聞かなかった。進んでいる方向が彼の家であることを悟っていた私は何も言わずにそれに従った。歩いている間に私たちから言葉では表せないような奇妙な空気が流れているのを感じた。ほとんど喋ったこともないのに、あまり顔を合わせることもないのに私たちは何か目には見えないもので繋がっているような感覚になった。
歩き続けているとやがて一つのマンションの前まで辿り着いた。ここが真山君の家……。
「傘、持って行っていいよ。」
マンションのエントランス前で真山君が口を開いた。私は頷いて、ありがとう。と礼を言う。彼の手から傘を受け取って離れようとした。傘の手元に触れて、私の手と彼の手が当たった時、彼が呟いた。
「入る……?」
雨の音が耳の裏でポタポタと鳴いている。雨音の中で混ざり合った真山君の声。私は彼の静かな目を見つめながら本能的に頷いた。
そこからは淡々と物事が進んでいった。彼の家の中に入ると中には誰も居らず、灯りが点いていない部屋の中は薄暗かった。私と真山君は濡れた鞄を置いて奥にある彼の部屋へと向かった。
部屋に入ると彼が私を抱きしめた。私も彼の背中に手を回してそれに応える。濡れている私の身体は冷え切っていて、真山君の身体は温かかった。離れると、真山君は上の制服を脱いで上半身裸になった。家族以外の男の身体を眺めるのはこれで二回目だ。最初で最後のあの人だけ。
私も濡れているセーターとシャツを脱いで下着姿になるとスカートは履いたままで彼のベッドへと向かった。ベッドの上で私に覆いかぶさる彼。私たちは特にキスなどせずにただ黙って見つめ合って、薄暗い空間で外の雨音だけを聞きながら彼が私の身体に触れることを感じながら少しずつ、息を温めた。
来る。彼がゆっくりと私の身体を触って二人の荒くなる呼吸が一致した時、私はその瞬間を確信した。
ベルトを緩める音と制服のズボンが擦れる音が聞こえる。嗚呼、来るんだ。
それなのに、その音が鳴り止むと静かな空間により一層、雨音が響くだけだった。瞳を閉じていた私は目を開けて真上にいる真山君を見た。
真山君は絶望した表情になっていた。ベッドの上で膝立ちをしたまま私を哀しみの表情で見ている。
「どうしたの?」
聞かずにいられなかった。彼は黙ったままだったが、その顔はプライドがズタズタになっているようだった。
アレが立たない。それを悟った。
「ごめん。やっぱり無理なんだ、太田さんでも。」
私は何も返すことが出来なかった。彼もそれ以上、何も言わなかった。真山君が諦めたようにベッドから離れて、私も体を起き上がらせた。重くて暗い彼の背中を眺めながら何も感情が湧かないはずがない。
私は窓の外の雨の様子をぼんやりと眺めて、上に上がった下着を元の位置に戻した。真山君は部屋を出て、姿を消した。私は彼を探すことなく雨で濡れた冷たい制服を元通りに着て、何事もなかったかのように彼の家を出た。
玄関に立てかけられた雨粒が沢山ついた傘。さっきまで私と彼を繋ぐ役割を果たしていた。
彼の家を出る時、一度振り返ってみたが薄暗い家の中はシーンとしていてその奥で暗い哀しみが見えた気がした。
春。一年前まで新入生だった私たちは当然のように二年生へと進級した。
「麻由!同じクラス!私たちC組だよ!」
校内で渡されたクラス表を持って麻由を見つけると私は彼女に向かって叫んだ。麻由は顔を明るくして私の方へと駆け寄った。二人で燥ぐと手を繋いでルンルンと教室へ向かった。
教室の扉を開けると中には既にクラスメイト達がそれなりに集まっていた。名前順で自分の席を探して着席しなければならないが、先生が来るまでの間は席に着かずに麻由と喋っていた。視界の端に真山君が映っていたが私は見えていない振りをした。クラス表を見た時、私と同じクラスの欄に麻由よりも先に彼の名前を見つけた。彼の部屋の中で起きた出来事は誰にも話していない。私と彼のあの出来事を知っているのは私たち二人だけだった。私にはもう一つ、誰にも告っていないことがあるけど。
チャイムが鳴ると担任の安田が教室に入ってきた。安田は40代の女でバツイチ、子供はいないと誰かから噂で聞いたことがある。
安田から今後の予定と今日一日の流れの説明を受けると始業式がるため体育館へ向かうように促された。クラスメイト達の波と共に廊下へと出ると他のクラスの生徒たちも移動していて、視界が大量の生徒たちで埋まった。
「あれ?同じクラスじゃん!」
前にいる生徒に向かって麻由が驚いた表情で明るく言った。その生徒が振り返って麻由を見る。真山君だ。背中が見えている時から彼だと分かっていた。
「もしかして千田も一緒のクラス?よろしくね。」
麻由が真山君に笑顔を向ける。真山君は少し面倒くさそうな顔をして、うんとも言わずに前を向いてしまった。よろしくね。麻由がそう言った時、一瞬だけ真山君と目が合った。彼と視線が合うのはあの日以来だった。
「麻由、美海、やっほー。」
クラスは違ったが一年の時から共通の友人を通じて交流があった明美が私たちを見つけて、声をかけた。
その傍にいる怜奈とはまだ交流がなくてお互いに警戒した表情を浮かべた。心を開いていない、素性の知らない人間に向かって浮かべる表情は何も気にしていないような振りをしながら本当は相手の様子を細部まで窺っている。その時点で私は怜奈とほとんど喋ることなく体育館に辿り着いた。
生徒たちが並び始める。もうすでに整列を終えているクラスが何組もあった。館内に響き渡る生徒たちの喋り声。やがて生徒指導の教師が騒がしい生徒たちを鎮めるように話し始めた。
静かになる生徒たちの中で何人かが口を開くと、その何人かの友人がクスクスと笑う。いつもの光景だ。
クラスが変わっても、一年生が二年生になっても生活はほとんど変わらない。三年生になれば進路という問題が起こるけど、それだって夢や欲がなければ何の問題もない。私は結局、何も変わらない生活をまたこれから繰り返し送るのだ。校長先生の話をほとんど耳に入れないまま漠然と感じていた。
ぼんやりしている状態のままでいたら校長先生の話はいつの間にか終了していた。
遠くにあるステージの上に立つ教師。学年主任だった。
「それではこれから新任の先生方を紹介したいと思います。」
学年主任の言葉を聞いてハッとした。ステージの上には新任の教師たちが数人、前に立っている。
「それでは一人ずつ紹介を……」
偶然とは皮肉なものだ。忘れることが出来なくてもこんな再会は望んでいなかった。
「宮部巧先生です。C組の副担任となります。」
宮部巧先生が礼をした。周りの生徒たちが小声で話した、若そうだね。と言う言葉が耳に入った。
先生。あの人は教師だった。だからリスクを恐れていた。今日、私はついに自分の吐いた嘘の過ちに気が付いた。副担任…。先生が私の存在に気づかないはずがない。いつかバレる。バレた時、私は先生にどんな顔をすればいいのか分からない。
制服のスカートを思わずギュッと握りしめた。切ない気持ちの裏側で胸が高鳴っているのが分かった。再会を哀しんでいる様に見せて、本当は喜んでいるのを速まる心臓の鼓動で感じ取った。高揚する気持ち。
素性の知らなかった男の正体を知れた。そして再び会うことが出来た。
忘れられないあの人は教師だった。
始業式が終わると生徒たちは並んで教室へと戻ることになった。各クラスが順番に教師の先導の下で廊下へと出ていく。廊下に出ると列は乱れて生徒たちは友人同士で固まりながら移動し始めた。
私は麻由と合流して一緒に歩いた。そこへ明美と怜奈が入ってきて四人となった。他愛もない会話を交わす。
「てかさ、新しい先生カッコよくない?」
「ああ、宮部先生だっけ?普通にモテそう。」
明美と怜奈が先生の話で盛り上がっている。その横で下を向いている私。
「美海。」
名前を呼ばれてハッと顔を上げると麻由がこちらを見て微笑んでいた。
「何?」
何事もないように笑顔を取り繕った。
嘘吐いた?
冷や汗が出る。誰かがそう言ったように聞こえたのは私の幻聴だった。
私を見ている麻由は、「これ、見てよ。」と携帯画面を私に見せてケラケラと笑っている。それは誰かが作ったふざけたおもしろ画像だった。私は横でそれを見ながら、ああ。と言って自分も面白く思っているように笑って見せた。麻由の何もやましい気持ちがない爽やかな笑顔が羨ましく感じる。
教室に戻ると再び担任の安田が戻ってきて解散までの流れ、明日の日程などを話して、プリントを配った。
その間、生徒の後ろに副担任の宮部先生が立っていた。どんな表情をしているのか、顔を見たい一方でバレてしまったら全てが終わりだと思った。
いつかバレる、必ず。
後ろにいる先生の視線が私に向いていないか不安で仕方がない。しかし不安な気持ちの一方で私は矛盾した心を抱えている。
私に気づいて。私を見て。
心の奥底でそんなことを思っているのだ。救いようがない馬鹿だ。
先生は何も悪くない。罪は私だ。
背中から感じる先生の気配が私のあの夏の記憶を思い出させた。先生が触れた時の体温と息が今でも指先まで残って、耳の裏で聴こえる。
こんな再会は望んでいなかった。でもどんな形であれ、私は先生をあの夏から忘れることが出来ずにいた。
生活の一部に先生が入り込めば、一度しか会っていなかった先生の嫌なところが見えて気持ちが冷める時が来る?
私はそっちの方に期待したかった。