出会い
真っ白な紙の上にサラサラと絵が描かれた。
白の上の黒の線がいくつも重なって、その上に鮮やかな色が置かれていく。
私が先生といた記憶は真っ白で何もない紙に初めて絵を描いてもらったようなものだ。
後から新しい真っ白な紙を重ねて誤魔化しても、透けて見える。重ねた紙に絵を描いても、その下の絵は消えずに重なるだけ。
重ねても重ねても記憶がある限りその絵はずっと透けて見えて、思い出そうとすると鮮明な色彩を放つ。
記憶が薄れたとしても、心の片隅で常に先生がいる。そしてふとした瞬間に私の中で手を伸ばして、私は永遠に先生を忘れられないことを実感する。
男女が混合して賑わう教室内は熱気でむわっとしていた。
狭い箱の中で大量に並べられた机と椅子。その間に器用に収まって私たちはまるで何もかもが自由なように思い思いに喋って、詰め込まれた高校二年生たちは大して楽しくもない話でもうるさいくらいに大きな声で笑う。
「宮部って顔はイケメンだよね。」
「素っ気ないし、なんか暗いけどね。」
仲が良いわけでもないクラスメイトの椅子を勝手に拝借した明美はそれをまたいで座って、後ろの席に座っている怜奈に顔を向けている。二人はさっきから先生について好き放題、噂をしていた。私はそれを側で立ちながら何でもないように黙って聞いている。
「そんなこと言ったら美海に悪いよ。」
明美がそう言って私を見ながらニヤッとした。バレてる。先生への気持ちを友達に見透かされて顔が熱くなるのが分かった。
「でも七年も付き合っている彼女がいるからね。」
怜奈が笑って言うと明美は、「七年ってヤバくない?私たちが十歳ぐらいの時から付き合ってんだよ!」と声を上げた。私の向かい側に立っている麻由が苦笑する。
玲奈は私を見ていつものように言う。
「美海はさ、性格も中身もまだ子供っぽいからね。二十六歳の先生には中々、女として見られないよね。」
その言葉。友人が何気なく言うその言葉が私の内側でマグマのように熱くさせドクドクと鳴っている。
明美が携帯をいじりながら、「先生の彼女って同い年でしょ。十九歳から付き合っているとか、もうすぐ結婚するんじゃない?」と言って笑った。
しない。先生はまだしない。二人の会話を黙って聞きながら心の中でそう断言できた。私は先生のことを何も知らない。けれど少なくともここで憶測だけでものを言っている子達よりも先生のことを知っている。
だって私と先生は……
教室の隅で騒がしい男子たちの横で涼しい顔をしている真山君と目が合った。彼の目が何かを言いたそうだった。
「子供っぽいって言っても美海は私たちと歳は一緒だから結局同じだよね。」
麻由が突然そう言うと私の顔を見て優しく笑った。私が言われたくないことを言われた時、麻由はいつもそれに気づいてさり気なく私を庇ってくれた。
麻由の急な言葉に明美と怜奈は鼻で笑って、
「急にどうした。」
「麻由って本当に何考えているか分からないよね。」と言いたい放題だった。麻由はそれを特に気にする素振りも見せずに笑顔で聞いていた。私も彼女のように大らかになりたかった。大らかになって他人の言葉を受け止めても気にならない性格だったら、あんなことにはならなかったのに。
授業が始まるチャイムが鳴ると次の授業の担当教科である噂の宮部巧が来た。生徒たちはゆっくりと面倒臭そうにそれぞれの席に着く。クラスメイトの席を勝手に占領していた明美はパンツが見えそうなことも気にせずに堂々と股を開いたまま立ち上がってのろのろと歩き始めた。明美が席に着くのが一番遅く、彼女が椅子を引いて座った際のガタッという音が教室内に響き渡った。その頃には私も麻由も自分の席に戻っていた。
気だるげな起立と礼が終わると先生は名簿を見ながら座っている生徒たちを一瞥した。そして欠席者だけを確認していつものように暗ったい声で、「それでは教科書の二百七十六ページを……」と言って授業を始めた。私は教科書を開いて森鴎外の舞姫の文章を目で追いながら時々顔を上げて先生を見る。喋りながら黒板に文字を書いて、時々振り返る先生と目が合うことはなかった。
私と先生が出会ったのは十六歳の夏だった。
私は高校一年生だったがその時、先生はまだ私たちの学校にはいなかった。
先生は私が証拠として差し出した保険証を見て眉間にしわを寄せた。待ち合わせをしたのは私の家から少し遠い街で蝉がミンミンと鳴いている大きな木の側にあるベンチに先生は腰を掛けていて、私はその傍で立っていた。
こんな人なんだ。もっと汚い感じのおじさんが来るのかと思っていたため、若くて綺麗な顔をした先生を初めて見た時は、ほっと胸をなで下ろした。
「君、本当に二十一歳?」
目を疑うような感じで私と保険証を交互に見る先生が困ったように聞いた。
「童顔だねってよく言われるんです…大学の友達にも。」
お姉ちゃんから借りた保険証を見せても先生は慎重な面持ちで私を見ながら保険証を返した。
上手くいくだろうか。私の目的は一つだけ。それさえクリアできればこの人との今後はどうでもいい。お互い利用するために出会い系サイトで連絡を取り合ったのだから大丈夫だよね?
先生の突き刺さるような鋭い目が私の心を突き破るような感覚になった。先生は柔らかい顔をして笑った。
「止めた。」
ふっと笑って立ち上がる先生を私は、え?と声を出して見上げた。
「僕はリスクのある性関係を築きたくない。成人していたとしても僕の判断では君とそういうことは出来ない。」
笑顔で言う先生にはらわたが煮えくり返る。確かにメールで合意の上でと連絡したが、待ち合わせまでしてやっぱりなしと言うのは身勝手だ。
「私の見た目に何か問題でもあるのですか?」
苛立ちを抑えながら冷静に聞いた。ここで怒り狂うのも何か子供っぽくて嫌だった。
先生は笑いながら、「違う、違う。」と返した。
「君の顔がタイプじゃなかったとか、君に問題があった訳じゃないよ。僕が軽はずみだっただけさ。僕は仕事の立場上、リスクを背負えないんだよ。出会い系で会った人で断った人は君だけじゃない。君だって面倒なことには巻き込まれたくないでしょ?」
確かに面倒なことには巻き込まれたくない。特に私が今、やろうとしていることを何かの切っ掛けで家族にバレてしまえばそれこそ大変なことになる。
私は今、出会い系サイトで知り合ったばかりの見ず知らずの男に処女をあげようとしているのだ。それを知って家族が怒り狂う姿は容易に想像できる。
「誰だって知られたくない一面は持っているよね。わざわざここまで来てくれたのに申し訳ないね。帰りの電車賃とちょっとしたお小遣いに。」
彼はそう言って財布からお札を出して私に握らせた。そして人目を気にするように周囲をチラチラと見て、「じゃあ、僕はもう行くから。もう二度と会わないと思うけど、さようなら。」と柔らかく笑って私の前を通り過ぎた。
私は握らされたお金に目を落として目の奥が暗く沈んでいくのが分かった。お金じゃない。お金を与えられることよりも処女を失ったという称号が欲しかった。これじゃ何の意味もない。こんなお金いらない。
私はどこに行くのかも分からない先生の後を追いかけた。
先生はついてくる私の存在に気づかぬまま人ごみの中で歩みを進めていく。
やがて先生は駅に向かうのではなく女性が入りそうな雑貨店へと入った。後を追っている私も雑貨店の中に入り、先生の様子を窺う。
先生は棚に並べられたマグカップを眺めていた。手に取ったマグカップを真剣な表情で見つめている。
私は先生のその姿を眺めながら何気なく近くに置かれていたグラスを手に取った。買う気のない薄ピンク色のグラスをつまらなそうに眺めて私に気づいていない先生の横顔を見ながらグラスを元の場所に戻そうとすると、手からグラスが滑り落ちる感覚が伝わった。
パリーンッという音が店内に響いて私は呆然と自分の足元を見た。私の足元に今さっきまで持っていたグラスが見るも無残な姿となって破片があちらこちらに散らばっている。
まずい。と思っていると間もなく店員さんがこっちへと来た。グラスが割れた瞬間、店内にいる人たち全員の視線を感じたことは見渡さなくても分かった。私はハッとして先生の方を見るとさっきまで私の存在に気づいていなかった先生と思いっきり目が合って、思わず苦笑いしたが先生は笑い返さなかった。
「勝手に後をつけたのに弁償までしてもらって、新しいものも買ってくれるなんて……すみませんでした。そしてありがとうございます。」
私が頭を下げると先生は渋い顔のまま納得したように頷いた。私たちは雑貨屋を出て、当てもなく人通りの多い道を歩いていた。
「可愛いマグカップ見てましたけど買わなかったですね。」
先生が喋るのを待っていたら永遠に話が出来なそうだったので私から意を決して話した。
「彼女が好きな感じではなさそうだったから止めたんだ。」
彼女。私は少しの間、ポカンとした。この人は彼女がいるのに出会い系サイトで知り合った見ず知らずの女と関係を持とうとしていたのか。
「彼女さんいるんですね。」
私が言うと先生は頷いて少し微笑みながら、「僕と彼女は長く付き合っているんだ。」と返した。
じゃあ何故、この人はこんなことをしているのか。彼女が可愛そうだと思わないのか。
同じ女としての疑問や苛立ちを必死に抑え込んだ。見ず知らずの女のことを考えてはいけない。そもそも出会い系で知り合って体だけの関係を行う人に道徳心なんて考える必要ないではないか。私も含めて。
私はここまで来て引き下がりたくなかった。ゆっくりと足を進めながら、普段は何も入っていない空っぽの脳みそを頼りにした。
「あなたは待ち合わせの時にリスクを背負えないと言った。……だけど長く付き合っている彼女がいる時点でそれはもう大きなリスクを背負っていますよね?私だって少なからずリスクを背負っている。たとえ成人していても援助交際でお金をもらって処女を失うのは世間から見れば常識外れですよ。それでもしてみたいと思ったから私と連絡を取ったんじゃないですか?」
都会の空はまだ明るく、夕方になるには時間が沢山あった。先生は私が脳みそをフル回転させて考えた言葉に何も返せないと言った感じで黙り込んだ。私は先生の沈黙から希望を見出した。
互いに無意識だったが気づけば道は怪しげな方向へと向かっていて、私たちの側にはラブホテルが立ち並んでいた。
「私はあなたと付き合いたいなんて言わない。あなたは羽目を外して、私は処女を卒業して都合よくお互いを利用する。リスクが恐いならば連絡先を消してなかったことにしてしまえばいい。気に入ったのならば都合のいい関係を続ければいい。私はあなたの言われたとおりにするだけ。この関係にメリット以外何もないですよね?今の時代、成人している童顔なんて山ほどいるし大人っぽい未成年も同じくらいいる。見た目だけで判断していたら折角のチャンスが勿体なくないですか?」
目の前にあるラブホテルは古びていてまだ明るいのに独特な色のランプが今にも消えそうなほど頼りなく光っていた。まだ尚、静かなままの先生を見つめて私は言った。
「私にチャンスを下さい。」
その言葉で先生はようやく私の手を頼りなく引いた。私の嘘を先生は信じてしまった。だけどあの時の私たちはまだいくらでも引き返せると思い込んでいたのだった。
先生に処女を引き渡したとき、喘ぎと痛みの中で私は初めて男というものを知った。
先生は最初、扱いに慣れているような手つきだったが時折、私を見て困惑したような表情を浮かべる時があった。私に何か問題でもあったのだろうか。今はそう思い返すことが出来ても、あの時はそんな余裕は私の中で微塵もなかった。
セックスを終えた後の私は疲労感とわずかな痛みの中で幸福感に満ち溢れていた。まるで欲しいものを手に入れたような感覚になった。横で同じくらい息を荒げた先生の横顔を眺めると先生は悲しげな目をして天井を見つめていた。
「ありがとうございます。」
ズキズキとわずかに痛む子宮を感じて喜びながらシャワーから出た後、ベッドに座っている先生に向かって礼を言う。すると先生は、「大丈夫?」と心配そうに尋ねた。
「大丈夫です。何かあったら連絡しますが迷惑はかけないつもりです。私のためにやってくれたようなものなので……」
本当にそのつもりだった。私が答えている間、先生は下を向いていてどこを見ているのか分からない状態だった。シミだらけの床を見ていたのだろうか。それとも力なく膝の上に乗っていた手のひらでも見つめていたのだろうか。しばらく何の返答もなかったがやがて静かに口を開いた。
「君との関係はこの一回きりで終わりにしたい。」
顔を上げて私を見つめる先生に返事をする代わりに力強く頷いた。
目的を達成したのだ。それ以上のことをこの人に求めてはいけない。普段、この人の傍にいる顔も知らない彼女の姿を思い浮かべながら私は髪の毛を乾かすことにした。
「僕が眠っている間に帰ってほしい。お金は財布から好きなだけ取って。」
そう言って先生がシャワー室に入った。私は髪の毛をドライヤーで乾かしながらシャワー室の方を見つめた。
まだ子宮の痛みを感じている。それは証拠となる歓びの証だった。
私はもうこの人と二度と会えないのだ。
数回の連絡と一回の性行為で情が湧くのは私が処女だからなのだろうか。処女じゃなければこんな感情は湧かなかった?
髪を乾かし終えると立ち上がって、もう帰る準備に取り掛かった。着替える時、股が擦れると子宮の鈍い痛みを感じた。
帰りの準備を終えると先生の財布を覗くことなくホテルを出て行った。
この時、私はまだ先生の名前も職業も、それ以外のことも何一つ知らなかった。メール上でやり取りしていた先生の偽名と私が名乗った姉の名前。私たちは嘘で塗り固めて心の内は何一つ見せることなく体だけ重ねた。そんな虚しい出会いだった。