蝶のはばたき
竹沢は部下の折原を従え駅に入っていった。営業まわりに出かけるのだ。大抵は車で行くのだが、先方の交通事情や駐車場の有無により月に何度かは電車を利用することもあり、今日はそんな日に当たった。
竹沢は券売機の前で足を止め、路線図を眺めながら呟いた。
「どの経路で行くのが速いかな……」
「あ、それならいいものがあります。ちょっと待ってください」
折原はバッグの中をごそごそと探りスマホを取り出すと画面に触れアプリを立ち上げた。
「乗換案内かい? それじゃ頼むよ」
「はい。乗換案内なんですけど、これは新しいやつで。昨日入れたばかりなんですが、運行のトラブルを事前に予測して、そのリスクを回避した経路を示してくれるんです」彼女は画面を見つめたまま答える。
「トラブルの予測? 事故とか?」
「そういうことですかね……出ました。えっと、○○駅には△△線に乗って××駅で乗り換えるのがいいそうです」
「△△線⁉ ずいぶんと遠回りじゃないか?」
「そうですねえ。でもアプリがそれがベストだって言ってますから従ってみませんか? 時間的にも十分余裕がありますし」
「うーん……」竹沢は考えた。ここで頑固な面を見せて物分かりの悪い上司と思われるのも嫌だ。それに、遠回りも若い女の子とならばそれほど悪くはない。「よし、それで行ってみるか」
そうして二人はアプリが示した路線のホームへと向かった。
電車に揺られながら竹沢は折原に訊いてみた。
「さっきのアプリだけどね」
「え? ああ、乗換案内ですね。なにか?」
「運行のトラブルを事前に予測するって言ってたよね、君」
「はい、説明にはそのように書いてありました」
「予測するって言ってもそう簡単な話じゃないんじゃないかなあ。そう『バタフライ効果』って知ってる?」
「聞いたことはあります。詳しくは知りませんが『ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす』ってやつですよね。ちょっとした出来事が次々と影響を与え続け最終的に大きな結果を引き起こすって話だと思いましたが」
「ずいぶん物知りだね。その通り。どんな物事でもほんの些細な出来事がきっかけとなって予測困難な混沌となるって話なんだ。運行トラブルなんて事前に予測出来るものなのかなあ」
「電車の運行に影響を与える要素なんて限定されたものですし、予測する先の時間も僅かなものですからなんとかなるんじゃないですか?」
「そんなもんかねえ」
「とにかく、なにも起こらなければそれはそれでいいじゃないですか。少し時間を無駄にしてしまったことになりますけど、今日は忙しいわけでもありませんし」
「まあね。だけど君、トラブルを期待してない?」
折原はその問いには答えずに眉を少しだけ上げた。ふたりはのんびりと社内の噂話などをしながら、ささやかな旅の時間を楽しんだ。
ふたりが乗り換えの××駅のホームに降り立ったちょうどその時、アナウンスが鳴り響いた。
「ただいま□□線は全線運行を見合わせております。お急ぎのところお客様には大変ご迷惑をおかけ致します」
ふたりは思わず顔を見合わせた。折原は急いでスマホを取り出すと画面を睨んだ。
「架線事故のようですね。突風で木が倒れて電線が切れてしまったそうです。復旧にはしばらくかかりそうですね」
「危なかったなあ。普通に最短経路を選んでいたらその路線に乗っていたところだろう?」
「そうですね。あの辺りは迂回路がないから停まった場所によってはそのまま足止めでしたね」
「アポの時間に間に合わなかったかもな。いやいや、それにしても見事に的中したね」
「ほんとですね。正直ここまでの精度だとは驚いてます」
「え⁉ 君、信用してなかったのにこっちの路線を勧めたの?」
「信用してなかったといいますか、占い程度に考えてました」
彼女は屈託のない笑みを浮かべ、彼はそれを呆れたような感心するような思いで見た。
予定をすべて終え、ふたりは帰社することとなった。駅に着くと竹沢は言った。
「それじゃ、またお願いするよ」
「はい。少々お待ちを」折原は件のアプリを立ち上げた。「んと……◆◆線がいいそうです」
「また遠回りだね。何か起こるのかな?」
「どうでしょう」
ふたりは考えるまでもないといった様子で◆◆線の乗り場へと向かった。
ふたりは車内に並んで座り、竹沢はぼんやりと窓の外を眺めていた。穏やかな青空が広がり低い場所に位置取りをした太陽の光は少し赤味を帯びかけて夕暮れの訪れを感じさせていた。どこに目を凝らしてみてもそこには何の予兆も刻まれてはいなかった。どこまでも平穏で静かな遅い午後のひとときであった。折原はうたた寝をしているのか、ときおり彼の肩にこつんこつんと頭を当て、その度に甘い香りが彼の鼻腔をくすぐった。そのとき、車内アナウンスが響いた。
「※※線は人身事故の影響で運行の遅れが生じております」
折原はびくんと身を震わせると姿勢を正し、竹沢を見た。彼も彼女を見た。だがふたりとも言葉を発することはなかった。彼女は壁一面にどこか知らない国の言葉で書かれているメッセージを眺めるような目つきで窓の外を見つめていた。彼は、彼女がなにを考えているのか分かるような気がしていた。たぶん、自分と同じことを考えているのだろう。ふとドアの脇の液晶画面を見ると、その中では少女がペットボトルの清涼飲料を美味しそうに飲んでいた。CMなのだろう。すると、一頭のまっ白な蝶がひらひらと飛んできて少女の頭にとまった。その姿はまるで純白のリボンのように見えた。それを見ながら竹沢は考えていた。
『いったいどこで、どんな形をした蝶が羽ばたけば、猛烈な勢いで迫りくる電車の前にひとりの人間を押しだすことが出来るのだろう』