第四話 宗主代理の少女
武神家の屋敷──。
山中に座する広大な敷地。その中心部の和室で、武神紅憐は静かに人の到着を待つ。
「そうですか……本当に……」
脳裏に響く式神の声に、紅憐は深く頷いた。
『どうやら、先方も紅憐様に御用があった様子で……』
魂の契約を取り交わした術者と式神に距離は関係ない。例え互いの位置が地球の裏側であろうとも意思の疎通を可能とし、こうして念による会話をすることが出来る。
「それは到着してから、本人に伺います。ご苦労さまでした」
『いえ……。では、後ほど』
魂の回線が途切れると、紅憐はゆっくりと瞼を開いた。
最初に視界に入っていたのは、壮年の男性が正座した姿。
名を樋上。紅憐の父である先代の頃から武神の宗主に側近として仕える男である。地位はともかく、魔術士としての実力は一族の中でも五指に食い込むほど。現在では紅憐の片腕として日々を勤しんでいる。
「本当に……『あの者』をこの場に招くつもりですか? 宗主」
あの者――蒼耀の名を呼ぶことすら憚れるとばかりに、樋上は意向を再確認する。術者として、側近としても優秀な彼だが、やはりと言うべきか。蒼耀に対する嫌悪を抱いていた。そしてそれは彼だけではなく、紅憐を除く武神一族全員が同じであった。
側近の隠さぬ侮蔑の感情に、紅憐は溜息を吐いた。
「何度も言わせないでください。私は宗主ではなく、あくまで代理です」
「……では宗主代理、改めて伺いますが──」
「別に歓迎しろと言っているのではありません」
樋上の言い分のその先を、紅憐は遮る様に上塗りする。
「ただ私は、個人的に兄と話をしたいだけです。三年ぶりの兄との対話をするだけ。それに何の問題が?」
問題は大いにあった。
前代宗主の側近として、家族を除けば紅憐の成長を一番間近で見続けてきたのは樋上なのだ。十年以上もの時を同じくしていれば、娘も同然の少女が今も何を考えているのか、安易に想像が出来る。
「安心してください。仮にも一族の頂点を担うものです。皆の意見を聞かず、独断を押し通す様な事はしません」
樋上の心配を予想してか、紅憐はやんわりと彼の懸念を告げて見せた。彼女も同じく、十年以上もの時を樋上と共にしてきたのだ。
「それはこの樋上、紅憐様が愚かな選択をしないとは存じ上げています。ですが、それとこれとは話が別。此度の『あの者』の来訪は、他の者に示しが付きません」
「示し……とは?」
真顔であるのに惚けた様な切り返しに、樋上は口調を苦めた。
「……神聖である『継承の儀』で、試合を『放棄』した『あの無能』を、宗主代理がそうも易々と家に招き入れる。そんなことをすれば──」
「一族の長として、威厳が損なわれると?」
「……はい」
またも紅憐に言葉を先周りされ、樋上は嫌々ながらも首肯した。
「………はぁ」
宗主代理である少女は、もう一度溜息を吐いた。知る者が見れば、二歳年上の兄と実によく似た仕草であるとわかる。
心底呆れているのだ。
樋上が口にした『継承の儀』での兄の行動。彼の言葉と過去の事実には二つの差が生じていた。
蒼耀は『継承の儀』自体は放棄していない。長い年月に伝統されてきた礼節を踏まえ、宗主候補として恥じない振舞いをした。そして、彼は決して『無能』と称されるほどに弱くは無かった。むしろ、この二百年のうちでもっとも優れた才能を秘めているとされている紅憐を、真正面から打ち負かすほどの技量を持ち合わせていたのだ。
(驕りは間違いなくありました。ですが、たとえ一切の油断を挟まなくとも、兄には敵わなかったでしょう)
兄が家を出て行ってから三年間、幾度となく繰り返されてきた自問自答であったが、答えは変わらなかった。
武神蒼耀は、間違いなく武神紅憐に勝利したのだ
(いずれは、この事実を一族全員に認めさせなければなりませんね)
紅憐は宗主代理の地位になってから、武神の根底に凝り固まった概念にほとほと辟易していた。よくぞこれまで武神の権威が揺るがなかったものだ。
(一年や二年で劇的に変えられる筈もありませんが。やらねばなりません。でなければ、武神の力は衰えるばかりです)
改めて決意を固めると、紅憐は気を取り直す。
「たかがそれぐらいの事で、わたし宗主代理の地位が揺らぐと本当に思っているのですか?」
「いえ、そこまでは……。ですがッ」
己の失言を撤回しようと、樋上は慌てるが、紅憐は気にも留めない。むしろ、客観的な正論を冷たく述べた。
「仮に……万が一にも『そんなこと』があれば、それは私の宗主代理としての実力不足という事です。仕方がありません」
「め、滅相もございません! 宗主代理の才能は、先代であるお父上を凌がんばかりでございます! 代理が幼い頃よりお世話をさせていただいた、この樋上が保証します!」
声を荒げるほどのお墨付きに、表情の無かった宗主代理の頬が僅かに緩みを見せた。
「ふふっ、ありがとうございます」
何かと多忙だった父親の代わりとして何かと面倒を見てくれた樋上は、先代とは違った意味で父親と呼べる。彼に褒められると、やはり気分が良くなるのは自然だった。
娘も同然の少女が見せた頬笑みに、樋上はみっともなく取り乱してしまった事を咳払いで誤魔化す。
「と、ともかく。私としては『あの者』を家に招くのは反対です」
「強情ですね」
こうなったら宗主代理の権限を振りかざして押し通そうかと考えるが、樋上が次に出した言葉にその案を喉の奥で押しとどめる。
「ですが、紅憐様が決定したことであるならば、私に言えることはありません。誰かに命じて来客の用意をさせましょう」
「そうしてください。あと、事を荒立てないように皆の者に念を押しておいてください」
「御意」
──だが、結局のところ。
蒼耀への皆の感情は、紅憐が予想していたよりも遙かに悪く、状況は荒立っていくのだが、それが分かるのは数時間後の話であった。
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