第一話 後悔の追憶
その光景は当事者の片割れを除き、場に居た全ての人間にとって予想をはるかに凌駕していた。遠巻きに眺める何人もが、己が正気を疑う。
千二百年にも血脈を受け継ぎ、極東に名を轟かせる武神の一族。
その現実味の無い出来事は、次期宗主を決める儀式で起った。
「そんな……馬鹿な」
次期宗主の候補者であり、誰もがその地位を受け継ぐと思われていた少女。
名を、武神紅憐。僅か十四歳にして類稀な魔力を誇り、霊格として最上級に位置する九尾の狐──その幼子を式神として従える神童。
その彼女が、膝を付いていた。
──ただの一人を除き、その場に居合わせた全ての者達が疑わなかった勝利。
「何とかなるもんだ」
気だるげに、足元の少女に見向きもせずに呟くのは、武神蒼耀。
武神宗家の嫡男でありながらも、魔力を精製する才を有さず、唯の一匹の式神すら従えることの無かった。誰もが無能と、実の両親にすら蔑まされていた少年。
その彼は、二本の足でしっかりと地面を踏み締めていた。
──ただの一人を除き、その場に居合わせた全ての者達が疑わなかった敗北。
予想されていた勝者と敗者の構図の構図。
──しかし結果は、一人を除く全ての者を裏切った。
「そんな……馬鹿な」
少女は、上言のように繰り返した。
こうして膝を屈し、地に手を付き、全身に激しい痛みと疲労を受けながらも、現実を受け入れ難かった。
「蓮……」
傍らで蹲る小さな子狐。九の尻尾と銀の毛並みを持った式神は、力なく地に伏していた。息はしているが、しばらく動ける様子はない。それほどまでに、疲弊しているのだ。
「貴様……何をした!」
呆然自失としている娘に変わり、怒号を上げる武神の宗主。声の向かう先は実の息子ではあったが、そこに親子と言う感情は欠落していた。
「実の息子に貴様呼ばわりっすか。俺ってば泣いちゃうよ?」
「答えろ蒼耀! 貴様はいったい何をしたのだ!」
蒼耀の戦う姿はおよそ、武神が千年以上も守ってきた戦い方とは逸脱していた。それ故に、その兵法を色濃く受け継いだ現宗主には理解し難かった。
「何って、俺が持てる最高の戦法だとしか言えない」
「貴様のような魔力を持てぬ無能が、どうすれば我が娘に勝てるのだ!」
蒼耀は理不尽の怒りに震える父親から視線を外した。分かってもらおうとする労力すら惜しむように。
「……魔力の有無で実力を測る時点で、あんたには一生理解できないだろうけどな」
まるで眼中にないとばかりの扱いに、宗主の怒りはさらに温度を上げる。
「まぁ、紅憐は俺がどうやって戦ったのかは察しが付いてるだろう」
兄に己の名前を出され、紅憐はハッと我に帰る。
「くッ……」
紅憐は歯を噛みしめた
確かに、彼女は蒼耀の術を間近で、そして直にその身に受けたのだ。
傍から見れば理解しがたい。だが、種が分かれば至極単純。
それだけに、紅憐のこれまで築き上げてきた誇りは、完膚なきまでに叩き潰された
今までかれ蒼耀へと向けられた蔑みの眼で、今度はおのれ紅憐が見降ろされているのか。
父とはまた違った意味で怒りが湧き立つ。しかし、その怒りを形にする術は──力はもはや彼女には残されていない。体内に巡る《気》は枯渇し、『疑似神経』も機能しない。武器であり相棒である蓮も主と同じく動けない。
だとしても、せめて睨み返してやろうと、紅憐は顔を上げた。
憎しみを込めた視線で実の兄を射貫く。
「──ッ」
蒼耀はその眼に一瞬、気圧された様にたじろぐ。
そして、次に浮かんだのは、彼女が思っていたものとは別の類だった。
「……どうやら、とっくの昔に──―」
諦めに満ちた呟きが耳に届く。
抱いていた怒りは訳も無く消え失せ、代わりに漠然とした不安感に苛まれた。
「──俺の居場所は、この家には無くなってたみたいだな」
「……何を?」
どうして彼は勝利を喜ばないのだろうか。
どうして彼はわたし紅憐に蔑みの目を向けないのか
どうして──。
(──どうしてあなたは、そんなに悲しそうな顔をしているの?)
彼女の疑問は、彼が放った言葉によって明かされた。
「俺は今日を持って武神の家を出る」
迷いとは無縁の、揺るぎない宣言。
「今日からお前が次期宗主だ、紅憐」
どこか他人事のように彼は言った。
それから僅か一日も経たない内に。
武神蒼耀は、武神の家から姿を消した。
残されたのは、後悔だった。
「あの日の夢……ですか」
睡魔を感じることなくゆっくりと布団の中から身を起こした。だが、気持ちの良い寝起きとは程遠い。明らかに夢の内容が影響していた。
「いい加減に、心の整理を付けるべきでしょうか」
夢の内容は次期宗主を継承するための儀式。その日に起こった出来事のほぼ全てだ。
昔と言うにはまだ早く、色褪せるにはまだまだ時間が必要だろう。
だが、仮に色褪せたとしても、その時に抱いてしまった感情は変えようがなく、その後に苛まれた後悔は一生拭いされないものだ。
あれ程までに屈辱を感じた日は無い。
あれ程に自分の事を憎んだ日は無い。
あれ程に自分の事を責めた日は無い。
それは、人生の中で最も大きな『敗北』。
実の兄に、全ての面において『敗北』した日でもあった。
「あれからもう三年……ですかね」
思えば、あの日の『敗北』は彼女にとっては必要な『挫折』だったのかもしれない。
それまで彼女が築き上げてきたプライド己への自信とは、所詮は上辺だけだと思い知らされたのだ。少なくとも、十七歳の少女へと成長した彼女は過去の兄に対して、敗北を味あわせてくれた事にある種の感謝の念を抱いていた。無論、だからと言ってあの日の全てを肯定することはできない。
学生服に身を着替え、布団を押し入れに仕舞い込みながら、紅憐はふと思った。
「……ある種の予感……でしょうか」
兄が家を出て行ってしまった日から数か月は、毎日の様に同じ夢を見ていた。その度に歯をくいしばって込み上げる衝動を押し殺してきた。
だが、時が経つにつれてその回数は減り、この一年では滅多に見ることは無くなった。最後の見たのは、およそ半年と数か月。それにしたって、今日ほどに鮮明に思い出せたわけでは無かった。何せ、あの時に抱いていた醜い感情まで再現されていたのだ。まるで過去の自分に魂が乗り移ったかのように、リアルさ現実味を帯びていた。
(物は試しと言います)
「蓮、いますか?」
「……ここに」
名前を呼ばれるのと数瞬の後、彼女の背後には見た目十歳程の、茶の混じった髪の少女が跪いていた。身纏うのは和服を少々改造し、動きを重視したミニスカートの構造をしている。
「おはようございます、紅憐様」
蓮と呼ばれた少女は畏まり、主に向けてこうべ頭を下げる。そこには、絶対的な忠誠心と信頼感が滲みだしており、そうしているのが至極当然の様な光景だ。
「ええ、おはようございます。朝早くから悪いのですが、お願いがあります」
礼儀正しい口調でありながらも、紅憐は目上の者として少女に指示を出した。
「この数日から数週間の間に、日本に入国した者の中で『武神蒼耀』の名が無いか、今日か明日中までに調べてください」