幕間 イリス日記 其の壱
今日も朝早くに起床する。
ご主人様より早く起きるのは当然の事だ。
今日の予定に従い、荷物の準備と武具の確認をする。
朝、ご主人様が起きた時のお茶も用意する。
私の入れるお茶を、嬉しそうに飲むご主人様を見たいからだ。
全ての準備が済むと、私は何時ものように1冊の本を出す。
ご主人様に頂いた大切な本だ。
ペンとインクを用意して、思い出す出来事を書いていく。
奴隷なのにと思うけど、字を書く事は好きだ。
色々な出来事を書きとめておける。
それは、私にとって唯一許される宝物になる。
奴隷でも、私から記憶を奪う事はできないから。
元々エルフの村で、字は習っていた。
魔法書を読むにも、字を覚える必要があるから。
書けるけど奴隷には必要ないもの。
久しく忘れていたものだった。
日記とまではいかない。
だって毎日書くには紙が貴重で勿体無いから。
だから、私の印象ある出来事を書いた自伝みたいになっている。
本を買って貰えたのは偶然だ。
たまたま雑貨屋で1冊だけ売っていた。
貴族の不用品の中に埋もれていたそうだ。
私は物珍しく見ていただけだった。
それなのに、ご主人様はその本を買われたのだ。
奴隷の私が物を欲しがる気持ちを見透かされて、申し訳なくなった。
買わなくても良い、と言う私にご主人様は仰った。
「構わない」
何時も私を翻弄する言葉。
失敗しても、謝っても私をお許しにばる言葉。
時には苛立って私を責める言葉。
構わない・・・か。
その時は、私の行為を許す意味。
つい、ご主人様の言葉に甘えてしまった。
さて今日は何を書こうか。
今まで書いて来た事を見ながら考える。
【某月某日】
人攫いに捕まり、奴隷にされた。
父の言付けを破り、興味本位で森の外を出たのがいけなかった。
森の外では、人攫いが我よ我よと機会を伺っているのに。
私はそれを知らなかったのだ。
無知、我侭、子供、今なら馬鹿だったと解る。
捕まり、直ぐに隷属の首輪を嵌められる。
首輪の呪力により、私は抗う事が出来なくなる。
契約が済むまで、隷属の首輪は嵌められた者の行動を制限する。
抗う事、命を絶つ事を出来なくされた。
そして、私は奴隷商人に売り払われる。
【某月某日】
奴隷商人の館、その牢の1つに閉じ込められる。
中には同じ様に捕まった女性が幾人もいた。
皆一様に俯き、目に力が無い。
諦めたようにじっとしている。
私の様に、泣きじゃくった後のある子が何人も居る。
牢に放り込まれ、呆然としていた。
暫くすると奴隷商人と下男が来た。
牢に入って来くる2人の男性。
私は、何をされるのかと、身を竦ませビクビクしていた。
すると、下男が1人の女の子に向って突然鞭を振るいだす。
牢の中に響く、女の子の絶叫!
「おら!新入り達!逆らったり言う事を聞かなければこうなるんだぞ!」
隷属の首輪で、私達はすでに抗う事が出来ない筈なのに。
何も出来ない私達を、更に痛めつける下男に恐怖する。
容赦なく降り注がれる鞭に、女の子はぐったりとしだす。
私はその光景に絶望を感じ、怖さで身を硬くするしかなかった。
毎日毎日、痛め付けられる子は違う。
何時、自分の番が来るかとビクビクしていた。
【某月某日】
毎日繰り返される暴力。
私を含め、牢の皆は声も無く恐怖に脅えていた。
牢で繰り返される光景は、身も心もボロボロにさせる。
そんな日常に、変化が起こった。
いえ、変える事が出来ると知った。
「お願いです!何でも言う事を聞きます!どうかぶたないで!何でも!何でもします!お願い・・・許して・・・」
「・・・ふむ、何でもだな」
「はい、何でも致しますから!お願い・・・お願い・・・」
「では、俺の脚を舐めろ!ただし犬のようにな」
「・・・は・・・い」
1人の子が、遂に堪えられなくなり懇願したのだ。
痛いとか、止めてとかは、私も含めて皆が言っていた。
ただ、暴力から解放されたかっただけなのだ。
私達は奴隷として売られ、抗う事を許されない。
でも、心の何処かで誰かが助けてくれると、思う気持ちはまだあった。
それが此処から出る希望だと。
それが、1人の女の子の嘆願で消え失せる。
助けなど来ない。
だから自ら暴力を回避する為に、希望を捨てなければならない。
それは私達から助かりたいという気持ちを無くさせる。
女の子が示してしまった。
嘆願し、屈服し、心から奴隷になれば許される。
暴力から解放され、この牢からも抜け出せる。
そんな女の子の気持ちが伝わってきた。
諦めて奴隷になればいい・・・と。
下男の汚く臭い足を女の子は必死に舐める。
その姿はまさに奴隷。
傅き、言われるままに従う人形。
「よし、いい舐めっぷりだ」
「・・・ありがとう御座います」
「今日からお前は一人前の奴隷だ、別室に飯も風呂も用意してある。存分に体を休めろ」
「はい!ありがとう御座います」
女の子は下男に従い牢を出て行った。
「お前らも見習え!そうすれば此処を出られるぞ。ふふふふ」
そう言い残し下男は牢を後にする。
残った私達は皆思い知った。
心から奴隷にならない限り、この牢から出られないと。
する事は決まっていると・・・
【某月某日】
何人もの女性が心を折られ、本当の奴隷になっていった。
私もその1人となった。
奴隷になってしまえば楽だった。
言う事さえ聞いていれば、叩かれる事はない。
ご飯もベットも与えられる。
奴隷を買いに来る人がいれば、綺麗な服も着れる。
そう、心から奴隷になってみれば良かったのだ。
私はただ言う事を聞く人形、そう物なのだ。
下男や世話役の侍女達から奴隷の本分を叩き込まれる。
主になる人への身構えや言葉遣い、お世話のあり方。
異性の場合の奉仕の仕方まで教えられる。
処女の場合は、奉仕の実戦は無いが知識は詰め込まれる。
余り手練ていると処女の価値が無いそうだ。
私はただ言う事に従った。
そうすればあの牢に戻る事はない。
そう、奴隷はただ従えば良いのだから。
【某月某日】
何度か買い手の前に出ては売られる日を待つ。
やはり見目麗しく、胸の大きな女性から売れていく。
私は売れていく女性が羨ましくなっていった。
控え目な胸の私は選ばれない。
それが私を悩ませていた。
そう思う事こそ、私が心底奴隷になった証拠だったと今にしたら思う。
【某月某日】
何度目かのお披露目。
今回は若い男性客だという。
何時ものように伏せ目で買い手を見る。
幼さが残る男の子だった。
私は男の子の、黒髪黒目に目を奪われた。
今までにみた事のない神秘的な印象。
私は顔を伏せながらも男の子を見詰めていた。
不思議な感じだった。
何故か直感が働く。
買われるかも知れないという思いが、自然に沸いて来た。
思ったとおり男の子は、私を買うと言った。
とうとう売られるんだ、そう思った。
嬉しかった、買われるんだと思うと。
私だけのご主人様が出来たと。
契約が終わり、私は男の子の物となる。
男の子の名前はハヤト。
私のご主人様は決まった。
これからご主人様に奉仕し、気に入って貰わなければならない。
奴隷としてご主人様に奉仕できる事が私を喜ばせる。
その事で頭が一杯になっていた。
でも、ご主人様は今までに見た人と違い奴隷に興味を示さない。
私は困惑する。
見てきた人々は、必ずといっていいほど笑顔だった。
その笑顔の意味もわかっている。
なのに険しい表情をするご主人様。
買ったのに私を求める事がないのだろうか?
買ったのに私を必要としないのだろうか?
如何して言いかわからず、ただ従う事しかできなかった。
その夜、ご主人様の夜伽をしようとする。
せめて、こうすることでご主人様に必要とされたかった。
私は初めての行為に緊張しながら、ご主人様に触ろうとする。
怖かったけど、気に入って貰いたかったから。
受け入れて欲しかった。
奴隷は主に奉仕し、喜んでもらって初めて存在する。
だから勇気を振り絞ってご主人様に尽くそうとする。
なのに・・・ご主人様は何もさせてくれなかった。
いえ、するなと命令された。
私は如何していいか解らず、うろたえる。
奴隷になり言う事を聞いていれば楽なのに。
その為にご奉仕し、主の庇護を受ける。
私は何故買われたんだろう?
夜も、もう1つのベットを私に専用として使わせてくれる。
何をして言いか、如何して言いのか解らない・・・
不安を抱えて眠りについた。
【某月某日】
初戦闘で、緊張の余り腰を抜かす。
昨日の不安と今日の失態で、思わぬ言葉が出た。
私を気遣ってくださったご主人様に、愚問を投げ掛けてしまったのだ。
奴隷なのに何を言ってしまったんだろう。
言う事だけを聞いていればいいのに。
不安が不安を増幅させ、恐怖が襲う。
牢屋での出来事がフラッシュバックする。
殴られる!
酷い事を言われる!
そして、捨てられる!
ご主人様が怖かった。
奴隷が主に必要ないと言われる事。
それは絶対に避けたい。
なのにご主人様は優しくコップに水を汲んで与えてくれた。
更に私が落ち着くまで側に居てくれる。
不思議だった、もしかするともう捨てる覚悟をされたのか?
私は気を取り直し、お役に立とうと踏ん張る。
だから必死に許しを請うた。
それなのに、ご主人様は気にする風もなく許された。
余り感情のない対応。
安心はするものの、酷く困惑もした。
ご主人様の考えが読めない。
それなのに1つ解ってしまった事がある。
無表情に見えて、実はその目に悲しみを満ちさせている事に。
牢で泣き疲れていた女の子と同じ様に。
たぶん私も同じだ。
私はご主人様の目が忘れられなかった。
【某月某日】
相変わらずご主人様の態度は変らない。
少しはマシになったとは思うのだけど。
ご主人様は何をしても喜ばない。
だから何時も起きてベットに座って待っている。
ご主人様が起きて指示を出されるまで。
ふと、ご主人様の寝顔を見た。
魘され、苦しそうに身を揺すり・・・
目から涙が溢れていた。
ご主人様の初めて見せる感情の変化。
つい近付いてしまった。
買われた時に魅せられた黒い髪が、汗で額に張り付いている。
タオルを持ち出し、汗と涙を拭う。
ゆっくりと優しく撫でるように。
拭いていると、ご主人様が寝言を言われる。
「死ぬ・・・のか・・・」
誰が?
ご主人様が?
それとも・・・
私は驚愕しご主人様を覗き込む。
何時も無表情で冷徹なご主人様。
戦闘では苦しそうな顔をするのに、非情に振舞うご主人様。
ご主人様は無理をなさっているんじゃないだろうか?
こんなにも悲しい泣き顔は見たことが無い。
あの日見た悲しい目を思い出す。
流れる涙を拭き、お顔を見続けた。
「なにをしている」
突然起き出され、苛立ちを露にするご主人様。
叱責され、私は項垂れる。
余計な事をしたのだろうか?
余計かもしれない。
でも・・・
私の内から沸々と沸き上がる感情が抑えられない。
ご主人様の悲しみを和らげたいと。
人知れず涙するご主人様を癒したいと。
そしてご無理をさせたくないと。
翌日から、私は積極的にご主人様に尽くす事にした。
【某月某日】
少しは受け入れてくださっている気がする。
あれ以来、私は積極的にご奉仕した。
もちろん止められる事もあるけど、前程は冷たくあしらわれない。
寧ろ戸惑っていらっしゃるだけのようだ。
私とご主人様。
少しでも近付いているのだろうか?
ご主人様を癒せているのだろうか?
私は、ご主人様の事を・・・
一瞬過ぎる淡い気持ち。
頭を振って否定する。
奴隷の身でそんな思いは抱いてはいけない。
奴隷はただ尽くすのみ。
ただお側で尽くすのみ。
【某月某日】
戦闘が終わり、突然ご主人様が吐き捨てられる。
「ふざけるな!!!」
驚く私。
何かお気に触る事をしたかと問いかける。
「っえ!・・・ご主人様・・・わ・・私が何か・・・」
「・・・あ・・・すまない。違うんだ、イリスを怒ったわけじゃない」
私をお叱りになってはいない事は解った。
でも、見る見る険しい表情になるご主人様。
必死に何かを考え。
必死に何かに急かされるように行動される。
ご主人様の苛立ちが、焦りが、怒りが私に伝わってくる。
私は溜まらず、ご主人様をお諌めする。
そうしないとご主人様が居なくなる気がして。
「ご主人様・・・顔色が優れないようです。少しお休みなさっては如何ですか?」
私の言葉に耳を貸さないご主人様。
命令口調が私を縛ってくる。
それでも、こんなご主人様は放ってはおけない。
苦痛に苛まれながら必死にお諌めする。
「・・・わかったよイリス。少し休もう」
聞き入れてくださった。
痛みに体が悲鳴を上げていたけど満足だった。
だってご主人様をお助けできた気がしたから。
暫くしてご主人様に何故諌めたか聞かれた。
問いかけに素直に答えられた。
命令だけではない気持ちがそうさせる。
自分の気持ちをお伝えしたかったのかもしれない。
口論になったが結局ご主人様は私の言い分をお聞きくださった。
こういう所がご主人様の不思議なところ。
私を惹きつけて止まない。
【某月某日】続き
口論の後も緊張されているご主人様。
ずっとピリピリされていて話しかける事もできない。
食事の後、突然様子が変る。
見知らぬ裏路地まで行き、何かを待っておられる。
来たのは女性が2人。
何故?
女性の存在が私を不安にさせる。
暫く話をされていると、女性は服を脱ぎ始め、ご主人様を誘惑し出した。
その光景に眩暈を覚える。
ご主人様が私でない女性を抱かれるかもしれない。
そう思っただけで心臓が弾け、胸が痛い。
それに・・・ご主人様の裸を想像したら顔が赤くなった。
嫌な思いと恥かしい思いが混同する。
ご主人様の側に居る事がとても辛くなる。
私は居た堪れなくなり、その場を後にしようとした。
「いつでも『サンクチュアリ』を出せるようにしておけ」
帰ろうとする私に指示を出されるご主人様。
慌てて返事をし、ご主人様の様子に只ならぬ空気を感じる。
それから・・・
ご主人様は襲われ何とか撃退されたのだが・・・
瀕死のお姿に、私は自然と涙が溢れた。
ご無事だった事が嬉しかった。
居なくなってしまわれなかった事に安堵した。
そして、私がご主人様に好意を抱いている事に気が付いた。
だから、そのお背中にしがみ付き泣き叫ぶ。
好きな人が無事で生きている事に感謝して。
それは私の精霊魔法を無意識に発動させる。
『癒しの御手』はご主人様の傷を治していった。
読み返すと辛いやら悲しいやら。
それと・・・
ご主人様の寝顔を見て顔が赤くなる。
やはり胸が熱くなり、愛しさがこみ上げる。
奴隷でありながら、ご主人様に好意を持ってしまった心。
それは秘めるべき私の心。
でも、こうして日記に書くことで記録として残る。
奴隷の恋など所詮受け入れて貰えない。
解っている。
奴隷はただ言われる事を受け入れるのみ。
そして望む事が叶う事はない。
だからこそ此の想いを記した日記は宝物。
あとどれ程の時を一緒に過ごせるか解らない。
けど、此の想いは誰にも奪えない。
本を閉じ、ご主人様の顔を見る。
そろそろご主人様がおきられるみたい。
今日は何も書けなかったけど、また何時でも書ける。
私は本を閉じ、ベットから降りる。
ご主人様に喜んでもらう為に、準備していたお茶を入れる。