戦闘の原則その六・「指揮統一の原則」って何?
A取締役は「Aプランを進めろ」と言うしB取締役は「Bプランを進めろ」と言う。どちらに決めても角が立つし、どちらにも逆らう訳には行かないし……と悩む部長。よくある光景ですねえ。
そう、決断は明確に一つでないと下は動きようがない。終いにはどちらにもいい顔して半々でお茶を濁せ、という事にもなりかねません。
このように、ひとつの計画(目的)に複数の命令(方向性)を示され、それを実行すると大概が成功しませんね。軍事衝突でこれが起きると、有利だった側も立場を失い逆転を許すという事が随所で見られます。
これを戒めるのが「指揮統一の原則」。
そう、この原則は命令系統の一貫性と全体の意志統一の事です。共通の目的を共同協力で成す事です。
戦例で見てみましょう。複数の指揮官が生み出す負の方程式の例です。
まずは前回「機動の原則」にも登場した戦例、ナチスドイツ軍による「ベネルクス・フランス侵攻」で敵ドイツ軍より戦力が上、とも見られていた伝統の大陸軍、フランス軍の指揮系統を見てみましょう。これには、もう呆れてびっくりですよ。
ポーランドを席巻したドイツ軍がフランスと戦うのは時間の問題だった。
迎え撃つはずのフランス陸軍総司令官兼参謀総長はモーリス・ガムラン将軍。彼は陸軍の上に立つ立場にあったが、どうも持病(梅毒だったと言う)のせいで覇気がない。対独戦の備えもおざなりで、ある国会議員がアルデンヌの森方面(前節「機動の原則」を参照のこと)の防備が弱いと指摘すると反発し、防備の強化を拒否したという。
このガムランが直接軍を率いてドイツと対決するのかと言うとそうではなかった。
フランス北東方面、つまり実際にドイツと対する総指揮官はジョルジュという将軍。ところが、その下に付く軍隊の人事面はガムランが握っていた。結局ジョルジュ将軍もガムラン将軍も自分の権限で一体どこまで軍を指揮出来るのか分からないでいた。当然空軍は別の指揮系統を持ち、海軍は全くその外にいた。
それでもガムランとジョルジュが協力すればまだ何とかなったものの、二人の仲は決して良いとは言えず、お互いの司令部は55キロ以上も離れていて、しかもジョルジュの下で作戦を実行する筈の幕僚はそのどちらにもいない状態だった。彼らは全く別の場所にある司令部、地上軍総司令部のドゥマンク将軍の所に詰めていたのだった。
司令部間の連絡は何と!一般電話で行われ(盗聴は?戦争になったら通話殺到で不通!)、ガムランは無線機も置かせなかった。ドイツ軍は当然ながら積極的に無線を使用していたのに。しかも直通電話や伝書鳩の準備もしていなかった。この頃、総司令部の命令が前線まで届くのには通常48時間かかっていたというが、それに対して疑問や改善の声は遂に上がることはなかった。
さて、ガムランたち陸軍とは独立していたはずのフランス空軍。
空軍総司令部は空軍部隊に命令した。これは当然。しかし同時に地上協力空軍司令部という代物が存在し、こちらも同じく空軍部隊に命令した。下部組織である各地区司令官も上の意向に関係なく命令を出す事が出来た。そして驚くことに、陸軍の各司令官も必要な時、直接的に空軍部隊に命令を下せるというルールもあった。
まるで当然のごとく、各司令官の意見を統合する組織や方法も用意されていなかった。
こんな状態のまま、フランス軍はドイツ軍侵攻の日を迎えたのだ。
……これがどういう結果になったのか、書くのも馬鹿馬鹿しいですね。
さて、戦う前から訳の分からない権限の多岐化で敗戦を確実にしてしまった仏軍の後は、時計の針を大部過去へ戻します。
時は1565年4月、場所は地中海、シチリア島の沖に浮かぶマルタ島。
この島をスペイン王から下賜され住み着いた聖ヨハネ騎士団と、彼らの宿敵オスマン帝国との戦いが始まります。
聖ヨハネ騎士団(この頃からマルタ騎士団とも呼ばれるようになる)総長としてオスマン帝国と戦ったのはド・ラ・ヴァレット。正に戦う人で、若き頃、オスマン軍の捕虜となり辛苦の体験をしたこともあった。
彼の配下の騎士団は、敬虔な修道士にして軍人の集団。騎士だけでなく船乗りとしても優秀で、地中海の各地でオスマン側イスラム教徒の船を襲う海賊行為を行っていた。対するイスラム側もキリスト教徒の船を襲う。そんな中、オスマンは遂に遠征による騎士団殲滅を決したのだ。
このマルタ『大攻囲』を行ったオスマン帝国の皇帝は名高いスレイマン一世。大帝と呼ばれたオスマン帝国史上最高の英雄。その大帝の代理としてマルタに陸兵二万五千名でやって来たのは名将ムスタファ・パシャ。しかしマルタは孤島。陸兵は艦船に乗って来る。海軍の指揮官は若いピヤーリ・パシャだった。
ピヤーリ・パシャが率いた艦船は二〇〇隻、海兵一万五千。老獪なムスタファに対し若いピヤーリにも強みがあった。彼の妻は大帝の皇太子セリムの娘、つまりピヤーリは大帝の孫を妻として大帝から寵愛された王族の一員だったのだ。更に攻囲が始まったのちに増援として現れたのはドラグト・ライス。これも名将だった。
ドラグトは北アフリカの大海賊。しかし当時は海賊も立派な海軍。ドラグトも大帝の信頼厚い軍人だった。騎士団も海賊行為でオスマンを苦しめていたのだからお互い様……ここに三人の指揮官に率いられる事となったオスマン軍。片や騎士五百、住民兵八千だが総長一人指揮下の騎士団。悲惨な殲滅戦の結果は?
ムスタファとピヤーリは最初から上陸地点で対立、結局大帝の名代ムスタファの案で決まるが、両者にしこりが残る。その上ドラグトが来たことで指揮権は更に複雑化。直後にドラグト戦死と状況も目まぐるしい。
砲撃と猛攻にも騎士団と住民は耐え忍んだ。オスマン軍がマルタの城塞都市へ侵入成功か、と思われた決定的瞬間でも騎士団長自ら率いた少数の騎士団員の超人的な逆襲で敵を撃退する。
結局、攻撃は秋が始まる九月まで延々と続いたが、この頃、スペイン王から差し向けられた騎士団への増援が到着し始めたことでオスマン軍は去って行ったのだった。
最初の上陸地点の諍い。ムスタファの直接攻撃ではなく、ピヤーリの間接的な攻撃案の方が犠牲も少なく、騎士団の降伏も確実だったのではないか、との意見もあります。また、ドラグトはそれに気付いていたが、大帝の信任を受けていた年長のムスタファに配慮して口を噤んだ、とも言われています。
ムスタファは皇帝の代理として、ピヤーリは寵愛を受けた若手のホープとして、ドラグトは歴戦の勇者として、それぞれ配下から恐れられ敬われていました。そのため、いざ意見が割れると配下は動けない、決まっても採用されない側に不満が残ります。この負の図式は現在まで続く人間のサガなんでしょうね。
このように、指揮権というものは一定の範囲内で一本化されていないとハンデを背負う事になりかねない。勿論、何でも全て一本化すればいいのでなく、そこでは指揮官の質が重要なのは当然です。指揮権が一本でも敵より劣る指揮官や、独裁者で意見具申も聞かないでは全く意味がない。
高級指揮官の質も劣り、指揮統一の原則も無視して、相対的に有利な面を組織として消し去っていたフランス。船頭多くして、の例え通りに戦場で三すくみとなったオスマントルコ。
どちらも劣勢若しくは同等と思われた敵に破れ去りました。勝ったドイツは先述のグデーリアンや、彼と同じ様にフランドルを戦車師団で疾駆したロンメル将軍が脚光を浴び、栄誉を称えられます。
また、マルタ『大攻囲』を個人の超人的活躍と揺るぎない指揮権で戦い勝利したド・ラ・ヴァレット。
戦後まもなく亡くなった彼の遺志を継いだ騎士団は、絶対に破られない城塞都市を完成します。これが世界遺産、マルタの首都ヴァレッタ。
マルタは遠く第二次大戦でも独伊の猛攻を防ぎ、勝利まで耐え抜いたのでした。