戦闘の原則その三・「集中の原則」って何?
古来、戦闘は数の多い方が勝つ、という常識があります。一万の兵力に対し二万の兵力があればよほどの事が起きない限り負ける事はありません。そう、ランチェスターの第一法則ですよ。思い出して下さいね。
兵力が二倍差以上の正面衝突で数少ない方が勝利した例は非常に少ない。おや?と思う方も居るかも知れません。そう、戦史では数に劣る方が勝利したという例も多い。
数の少ない方が勝利、という戦例で思い付く有名な戦いに、織田信長の桶狭間、ナポレオンのアウエルシュタット、ヒンデンブルクのタンネンベルク等があります。これらの戦例は奇襲や兵・指揮官の質等が勝利の理由とされる場合も多いのですが、実は勝った方の兵力が負けた方を上回っていた、とも言えるのです。少し歴史に詳しい方、そんな馬鹿な、と思いますか?
桶狭間や源義経の鵯越は奇襲の傑作とも目されますが、別の見方をすれば、敵の弱点を一極集中して攻撃した、とも言えます。そう、ようやく出て来ました、これが軍事で言う「集中の原則」です。
桶狭間がよく知られているので、まずはこれで解説しましょう。
上洛を夢見た今川義元にとって何かと対立するお隣、尾張の織田信長は本当に邪魔者でした。しかし織田軍は多く見積もっても五、六千の兵力、対する今川軍は三万から四万、大勢に無勢、義元が本気で掛かれば負ける訳がない。遂に義元は織田征伐の軍を発します。このまま正面衝突したら信長の必敗です(くどいようですがランチェスターの第一法則ですよ、みなさん)。では数に劣る信長が打った手とは?
まずは偵察。小兵を今川軍の予想進路に繰り出し様子を探り、沿道の農民から情報を集めます。よくドラマで家臣が「殿!ご出陣を」「いや、籠城を」と迫ってものんびり昼寝をしたり遊んでいたりする場面。史実ではさすがの信長もそんな事はなかったでしょうが、情報が集まり「その時」が来るのを待っていたのでしょう。
さて、辺境の砦を守っていた小兵力が今川の先鋒隊と戦い始めると、ようやく信長は腰を上げます。幸若舞(よく能の方と間違えられます)「敦盛」を謡い踊る有名なシーンがここです。
「人間五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり」
そしてわずかに手勢数騎を従え、まずは熱田神宮で必勝祈願をします。実はここが大事ですが、先を急ぎます。
熱田に集まって来た兵力を加え、今川軍の支隊が立て籠る砦を配下の軍勢が囲む拠点まで進出しますが、ここでも待機を命じる信長。家臣の一部は信長立つの報に勇み立ち、信長を待たずに先行して全滅。正に勇み足。
他にも次々に入る信長の拠点陥落の報に気をよくした義元は、精鋭を他の拠点奪取に向かわせ、自身は五千前後の兵力で本陣を構えていました。
そこへ信長は二千の兵力、その時点で彼が使える全兵力で一気に今川本陣へ殴り込み。
結果、義元は討ち取られ、主将を失った今川軍は浮き足立って混乱、敗走したのでした。
と、いささか駆け足で桶狭間を紹介しましたが、信長の天下取り出発点とも言えるこの戦いは、奇襲の要素もありますが、集中の原則の金字塔とも呼べる戦いです。
敵の弱い部分と動向を探り、自身は時間を掛けて兵力を集め、敵の弱点を一気に突く。
集中の原則とはその時点・場所で敵より上回る兵力を集める事です。
それは全体の数ではなく、その地点、時間での対比で敵より上回る、ということです。
桶狭間ではまだ今川側が数千人多かったのですが、そこは本陣。司令部って現在でも事務官や参謀など非実戦用の人達が多いものです。信長側は実戦慣れした側近や精鋭だらけ。しかも信長は正に昨日お話しした「主動」を取っていたので……
軍事では勝利を握る決戦の時点を「決勝点」と呼びます。その決勝点へ自軍の精鋭を集中出来るか否か。信長は情報をにらみつつ、熱田や善照寺砦(桶狭間に行く前待機した場所)で兵力が集まって来るのを待ちました。信長は決して「尾張のうつけ者」ではなく、集中の原則を知っていた名将だったのです。
もうひとつ、集中の原則や後日お話しする機動の原則のお手本のような戦例を挙げましょう。
時は1914年8月。第一次大戦の序盤、帝政ドイツはベルギーとフランスを全力で叩いている最中でした。
相手はフランスとベルギー、そして大陸に馳せ参じたイギリス軍。作戦は当たり、ドイツ軍はパリ近郊目指して猛進しています。
さて、ここで思い出して下さい。第一次大戦の主要交戦国のこと。ドイツ、オーストリア、トルコの同盟国に対し、イギリス、フランス、ベルギーなどの連合国。アメリカ参戦はまだ先で、日本の参戦は同じ八月ですが(お間違いなく、連合側に立って、です)まだです。
さてどこかの国を忘れていませんか?そう、ロシア帝国です。
当時のロシアは十年前の日露戦争に敗れたとは言え、大陸軍国に変わりはありません。この時も英仏側に立って宣戦布告、西側のドイツ、オーストリア=ハンガリー国境に兵力を差し向けます。しかし、今と違い、数十万の大兵力が戦うには時間が掛かります。特にロシアは広大で工業力も西側各国より劣っていましたからほとんどが馬と足での移動です。この動員(兵隊を集め動かすこと)には悪路もあって長期間を要します。ドイツはこれを予想してまずは西側英仏と戦い勝利、返す刀でロシアと戦おうと計画しました。二正面での戦いを避け、一方に集中する、これも集中の原則を忠実に守る戦略でした。
さて、そうは言っても背後(東側)をがら空きにも出来ないドイツは一個軍十五万ほどの兵力をロシアとの国境地帯、東プロシア地方に置きました。これをドイツ第八軍と呼びます。
対するロシアは一個二十万ほどの軍を二個、ドイツ国境へ向かわせます。これがロシア第一軍と第二軍、総兵力は四十万を軽く超えていました。そしてドイツの予想より早く、ロシア第一軍が襲いかかって来ます。劣勢のドイツ第八軍はバルト海に面した要塞都市ケーニヒスベルク近郊まで後退、恐慌状態になったドイツの司令官は更に軍を大きく後退させようとしました。
慌てたドイツ本国司令部は弱気の虫が出た司令官を解任、歳こそ行っていましたが東プロシアをよく知る将軍を後任に当てます。これがヒンデンブルクでした。その参謀長には気鋭の将軍ルーデンドルフ。
ところで、第八軍にはホフマン中佐という参謀がいました。彼は十年前、日露戦争で日本側観戦武官(他国同士の戦争を見て本国に報告する士官)として奉天会戦などを視察していました。その彼がロシア側の弱点を目ざとく見抜きます。
ロシア第一軍の司令官と第二軍の司令官は共に日露戦争でも戦ったベテランでしたが、戦場のいざこざで犬猿の仲となっていました。二人は日露戦争中、奉天の駅で言い争い殴り合ったとも伝えられます。それを知っていたホフマンは軍の作戦を練り直します。まずは南から迫る第二軍を叩き、次に第一軍を叩くという大機動作戦でした。
ロシアの司令官たちは仲が悪いので決して協同して向かって来ない。そう確信した上での作戦でした。
ヒンデンブルクを迎え、ルーデンドルフがホフマン参謀の作戦を承認するや、ドイツ軍は速やかに行動に移ります。最初の攻勢が一段落し、にらみ合っていたロシア第一軍の前から密かに大部隊を引き抜き、鉄道を使って南側へ向かいます。ロシア第一軍の前にはわずかな兵力が残り、もし敵が攻めて来たら要塞都市に逃げ込み籠城して耐えろ、と命じます。
南ではロシア第二軍の攻勢が始まり、ゆっくりとですが劣勢のドイツ軍を追って森林の中を進撃します。森は不気味に静まり返っていました。敵はあらゆる方向から攻撃し、ロシア軍が反撃すればさっさと後退して行く。ロシアの司令官は不安になり、自分の背後を守る部隊にしっかり防御するよう命じます。
ところが、その部隊は突然思いもしない方角から現れた敵に攻撃され、耐え切れずに後退してしまったから大変です。前に進んでいたロシア軍は完全に包囲されてしまいました。驚異的なスピードで北からやって来たドイツの援軍が逆転を演じたのです。
結局、ロシア第二軍は九万余りの捕虜と八万近い死傷者を出し、残った一万は潰走、消滅してしまいます。
完敗を悟ったロシア第二軍司令官のサムソノフはドイツ軍の包囲下、静かに森に入りピストル自殺を遂げました。
勝ったドイツも休んでいられません。直ちに北へ向かいます。ロシア第一軍が南での悲劇を知った時には既に勝ち誇ったドイツ軍との交戦が始まっていました。数で同数となった戦いは、勢いの違いでドイツ側が勝利、ロシア第一軍も多数の犠牲を出して元の国境線まで押し返されてしまいました。
後刻、この戦いは、ロシア第二軍が壊滅した近郊の都市の名前、古くはドイツ騎士団がポーランドに破れた戦いと同じ名前を付けられます。
タンネンベルクの勝利者としてヒンデンブルクとルーデンドルフは英雄となり、その後大戦を指揮することとなるのです。
このように、一を持って二に当たる場合、速やかに一つずつ当たることを「各個撃破」と呼びます。
タンネンベルクの戦いは二倍以上の敵を破った各個撃破の金字塔、集中の原則の成功例として今日まで知られているのです。
こぼれ話
マックス・ホフマン
タンネンベルクの戦いをドイツ勝利に導いた陰の功労者、ホフマン参謀。この人は士官学校卒業以来、ずっとロシアに対する研究を続け、日露戦争で観戦武官として黒木大将の日本第一軍に付きます。
黒木大将の参謀長は藤井茂太少将で、この人はオーストリア=ハンガリー帝国に武官として赴任していたのでドイツ語が得意でした。そのお陰でホフマンは藤井にくっ付いて第一軍の戦場を歩いて回り、攻撃の意図などを質問しまくっていたと言います。
ある時など、日本軍が占領したばかりで、未だ硝煙や血の臭いがする高地に行かせろと駄々をこね、「日本人の血で購った土地を欧州人のお前と分かち合う必要などない」と一括される場面もあったそうです。
第一軍が大胆な夜襲で敵前を渡河、重要な高台を攻め落とした時はとても信じられなかった様子で、「成功率が20%以下の攻撃を行うなどバクチだ」と言い捨て、藤井に「戦争にバクチは付き物だ」と片付けられたとも。小柄な日本人の後ろを大柄で威張った感じのドイツ人が付いて行く様は、他の将校たちから「ほら、また藤井の巾着が付いて行くぞ」と笑われていたと伝えられます。
しかし、このお陰でホフマンはロシア軍の欠陥や弱点を知ることが出来た、とも言えるでしょう。更に言えば、藤井参謀の大胆不敵な作戦術を自分のものにして、タンネンベルクでの大胆な敵前離脱・大転向作戦を実行させた、とも考えられます。
「タンネンベルクの勝利は奉天駅で決まっていた」(ロシアの司令官二人の仲違いの発端に引っかけた)とは、ホフマンお得意の与太話だったと言います。
その後、ヒンデンブルクとルーデンドルフが本国に帰った後も彼は東部戦線(対ロシア戦)で参謀長として活躍し、最終的にロシア敗北・ロシア革命勃発の遠因を作ります。
元来、大酒のみだったと言う彼は戦後、体を壊し、軍を引退、1927年死去しました。