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戦闘の原則その一・「目的の原則」って何?

 企画というもの全てがまず考えなくてはならない事。それは「目的」です。

 何のためにこれを始めるのか。何故、そうしなくてはならないのか。この理由をあらかじめ考えるという行為って、とても当たり前な事に聞こえますね。


 軍事に関しても、まずこれを最初に考える。実に当たり前な事です。

 よく軍事作戦を描いた映画で、お偉いさんが作戦会議の壇上に立ち「この作戦の目的は、敵主力を誘き出し、その隙に敵の拠点を奪取する事にある」とかやっている、あれです。


 ところが戦争の歴史を見ると、往々にしてこの目的がはっきりしなかったり、途中から曖昧になって変化してしまったり、という事が見られます。

 一番身近な例は日中戦争から第二次大戦にかけての日本軍の目的でしょう。これは軍事的にも政治的にも無惨な例のひとつです。


 まず、事の発端の歴史解釈は棚上げしますが、中国と戦い何をなすのか、という部分。これがどんどん曖昧になって行きます。

 戦争はどこまでやるのか、という目的をはっきりさせないと引き際に失敗するものです。日本は軍部(陸軍の一方面軍である関東軍、そしてその裏にいる陸軍自体)に引き摺られるまま満洲(中国東北地区)事変(今風に言えば紛争)を起こし、当初の「目的」通り満洲を属国化しましたが、その後中国とどうするのか、という「目的」を曖昧にしたままでした。「大東亜共栄圏」なる言葉を夢見て、中国と仲直りして北のソ連と戦う、と言う者や、このまま中国と戦い、奪える領土は奪って(属国化・植民地化)しまえ、という過激な思想もあったようです。


 もちろん、中国も領土(当時は日本の戦国時代みたいで、軍閥の支配地域と呼んだ方が正しいのかもしれません)を奪った相手を許す訳がありません。抗議や小競り合いを繰り返します。日本はそれを口実に兵力を次々に拡大、上海事変から日中戦争が始まります。

 戦争は長期化の一途を辿り、しまいには「ここで止めたら今まで死んでいった兵隊に申し訳ない」等と言うオオバカモノまで出る始末。挙げ句、それまでの倍以上の犠牲を出す事になるのです。


「ここで止めたら死んで行った者に」というセリフは一見美しく見えますが、これほど訳の分からない見識もないと思います。一体何のために戦っているのか、目的は何なのか、これでさっぱり分からなくなりました。

 そして、この「ここで止めたら」式はこの先、米英との大戦中も繰返し表れる事となります。


 目的を忘れ、メンツや栄誉にこだわり続けて最悪の結果(全面降服)となる。軍事的に見てこれほどひどい戦いはそうありません。軍事計画(戦略的にも戦術的にも)の目的は最後まで維持しないと大敗に繋がります。達成出来なければ引く、これも勇気なのは優秀な登山家や経営者を見れば分かります。


 しかも、自分が達成出来る範囲内で目標(目的)を立てる事は大前提です。広大な国と戦う時には最初から「どこまで攻めるか」という地理的範囲を決めておかねばなりません。しかし、敵の誘いに乗ったまま、奥へ奥へと誘われるように進軍した日本軍は身の程を知らなかったと言わざるを得ません。

 その上更に米英との戦争を決した日本。自分の実力を無視する最低のギャンブラー振りだったとも言えます。


 イギリスという国、日の沈まない帝国を造った国にこういう言葉があります。「英国は百戦失えど最後の一戦を獲る」。小さな戦いは負けて(退いて)も最後の一戦(決戦)に勝つ。日本にも意味は多少違いますが「肉を削がせて骨を絶つ」があります。目的のためには後退もある。これって軍事だけではないですね。


 さて、ここでもうひとつ、目的の原則を守らなかったがため、勝てたかも知れない戦いを負けに転じてしまった戦例を挙げたいと思います。


 1940年7月。英国は崖っぷちにいました。北海やドーバー海峡の向こう、ノルウェーからオランダ、ベルギーを経てフランス全土がドイツに屈し、勢い上がるドイツ軍が直ぐにもやって来るかと言う状況。しかし、この海のお陰で英国はドイツ陸軍の直接侵攻を防いでいました。イギリスは大海軍国、いかなドイツと言えども簡単には手を出せません。


 そこでドイツはまず航空戦で制空権を得ようと考えます。ここに有名な「バトル・オブ・ブリテン(英国の戦い)」が始まりました。ドイツ空軍は連日、空を覆わんばかりの爆撃機や戦闘機を繰り出し、軍事目標(レーダー基地や飛行場、工場など)を爆撃します。


 しかし彼らにも欠陥がありました。航空機の航続距離が短く、特に戦闘機は目標上空に十数分も居れたら、という状況。イギリス本土の北半分は攻撃の範囲外で、イギリスの戦闘機パイロットたちは安全な北で訓練や休養などを実施、ローテーションで対抗します。工場も中央部に多く、ドイツの爆撃機がようやく到達する距離。護衛の戦闘機はたどり着けず、いざ爆撃と言う時にはいません。護衛のない爆撃機は戦闘機の格好の標的です。


 ここに最初の目的の原則無視があります。自らの能力(この場合技術的な)を超えた目的「英国を航空戦により疲弊させ、上陸の機会を作る」を設定した点です。

 実際にイギリス攻撃をゲーリング元帥(ドイツ空軍司令官)から命じられた二人の司令官のうち一人は最初難色を示します。もう一人も賛成はしますが目標を絞れば何とかなるかも、といった程度でした。結局、軍用機の数では大きくリードしていたドイツ空軍は、この技術的難点を無視してしまうのでした。


 それでも多くの犠牲と優れた飛行士や整備士の努力で、なんとかイギリス戦闘機軍団を追い詰めていきます。九月上旬には、パイロット不足と残ったパイロットの疲弊、戦闘機の損害上昇で生産が追いつかない事態に追い込まれます。後一ヶ月もこの状態が続けば、イギリス南部上空はドイツの空になるかも知れない。イギリス空軍司令官たちは頭を抱えました。


 ところが。ここで思わぬ展開となります。


 八月下旬のある日。一機のドイツ爆撃機が夜間空襲のためイギリス上空を飛んでいました。灯火管制のため地上は真っ暗。当時は機載の地形レーダーなどありません。航法ミスですっかり目標を見失った彼らは夜の闇でもうっすらと光る河を見つけます。対空砲火が激しく自分たちを狙う中、テームズ河沿いのドックを攻撃する予定の彼らは、これ幸いと川岸に見えた黒い建物群に爆弾を落とします。しかし、そこはドックではなく、ロンドン郊外の下町でした。


 それまでドイツは空軍のロンドン爆撃を禁止していました。大都市を無差別攻撃すれば、敵も報復し戦争は終わりが見えなくなります。また、民間の家屋を破壊するより軍需施設を叩いた方が勝利の早道だからです。ところが間違って爆撃してしまった。


 幸いにもこの誤爆による被害は軽微だったのですが、負けん気の強いイギリス首相のチャーチル氏は軍の反対を押し切って命令します。「ベルリンを爆撃しろ!」


 こうして双方の首都が爆撃されるという事態になりました。ドイツ総統のヒトラーも、常勝で浮かれていた民衆が激怒し「復讐だ!」と叫ぶ中、ついに命じます。「ロンドンを第一目標にせよ」。

 

 それまでは楽観論だった空軍部隊も青くなります。せっかく追い詰めた英空軍がロンドン空襲の隙に立ち直るからです。軍需施設は繰り返しイヤになるほど叩かねば直ぐに復活します。しかし、現場の声は復讐に燃える世論やナチス党や、「もしも敵の爆撃機侵入を許すようなことになったら、自分の事をヘルマン(貴族の名前)でなくマイヤー(平民の名前)と呼んでも良い」などと豪語していてメンツを潰されたゲーリングなどにより無視され、ロンドン爆撃が始まりました。


 この結果は有名です。最終的にドイツ空軍は大損害から攻撃を縮小せざるを得なくなり、尻つぼみに「英国の戦い」は終了。チャーチル氏は下院で「人類の歴史上、かくも少数の人間が……」という有名な演説をしました。


 このように、バトル・オブ・ブリテンは「目的の原則」を無視した結果、相手側に復活のチャンスを与えるというドイツ痛恨の悪手によりイギリス勝利となりました。


 目的は、自分の出来る範囲内でしっかり・はっきりと掲げ、それに傾注する。達成出来ないと判断すれば潔く引き、次の目的を速やかに決め、再び立つ。簡単なようで難しい事ですが、これが軍事の第一原則です。一般社会でも言える事なので、肝に銘じましょうね。



こぼれ話


バトル・オブ・ブリテン


 この史上初めての大規模航空戦は、様々なエピソードを産みました。中でも有名なものを列記しましょう。


☆ パイロット不足に悩むイギリス空軍は積極的に外国人義勇パイロットを参加させました。英連邦のカナダ人やニュージーランド人は当然かもしれませんが、ドイツに敗れたポーランド人、フランス人、大戦前に併合されてしまったチェコ=スロヴァキア人も多く、エース(5機以上撃墜した撃墜王)も出しました。

 中でもチェコ人ヨゼフ・フランチシェクは17機を撃墜してこの期間のイギリス側トップとなりました。チェコ人と一緒を嫌いポーランド人の部隊に入って戦うと言う変わった人でしたが、惜しくも撃墜され戦死。

 他にもアメリカ人数人やジャマイカ、バルバドス、パレスチナ人各1名も対ドイツ戦に参加しています。


☆ 航空戦はイギリスの人口密集地で行われたため、空中戦は民間人の前で堂々と行われました。イギリスの人々はまるでスポーツ観戦のようにイギリス軍を応援していたと言います。

 最初の頃はドイツ空軍パイロットは騎士道精神を発揮し、決して民間人や家屋、民間の自動車や列車(客車)を攻撃しなかったと言います。そのため、人々は安心して空を眺めていたと言います。中には悪乗り(?)して公園でレジャーシートを敷き、ワインを飲みながら空中観戦するといった連中まで。撃墜されパラシュートで降下したイギリス人パイロットが歓迎され、ぐでんぐでんに酔っぱらって帰隊した事もあったそうです。


☆ イギリス側でもドイツ側でも有名なパイロット(エース)が多く出ます。

 両脚義足でもエースで戦闘機隊長として戦った英空軍のダグラス・バーダー。南アフリカ人で船乗りだった異色の英空軍“セーラー”マラン。

 ドイツ側ではピストルを持ったミッキーマウスを愛機にマーキングし、葉巻を愛した伊達男のエース、アドルフ・ガランド。彼は、戦いが佳境に入った時、ゲーリング司令官から「今、必要なものは何か?何でもいいから言いなさい」と言われ「スピットファイアーの一個中隊」と答えたと言うエピソード(スピットファイアーはイギリスの戦闘機)は伝説です。

 他にも、現代まで続く航空戦術を開発し若いのに「父さん」と部下から愛されたヴェルナー・メルダースを筆頭に、トップエースでありながら部下を気使い、激戦の中で戦死してしまい皆に惜しまれたヘルムート・ヴィックやヴィルヘルム・バルタザールなど、意外にもドイツ側には若く立派なエースが多くいました。

 ヴィックに関してはこんなエピソードも。基地を訪問し閲兵した偉い司令官が、整備兵の服装が乱れ汚れている事にカツを入れたところ、「今、彼らの不眠不休のお陰で厳しい戦いを戦うことが出来ています。それなのに、服装の如き些細なことを閣下は言われるのですか?」と返し、司令官をドギマギさせたと言います。若い彼らは部下を想い、必死で戦っていた事を示すエピソードです。


※追記

このヘルムート・ヴィック少佐(最終階級)のエピソードについて「ソースが確認出来ない」との意見がありましたので、当初の方針「出来るだけソースを明かさない」に反しますが、明かします。

 R・F・トリヴァー、T・J・コンスタブル共著/手島尚・訳「鉄十字のエースたち」英題「HORRIDO!」309~310ページ(朝日ソノラマ)。

 なお、この本では「お偉いさん」はシュペール(第3航空艦隊司令官)となっていますが、陸軍のルントシュテット将軍だ、とする記事があったように思います。こちらは現在確認出来ません。



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