今や死語?の「宣戦布告」
※この節は元来、拙作「プロシア参謀本部~モルトケの功罪」の第20節部分「宣戦布告・シュタインメッツ」の一部でした。作品を分割する際に改編してこちらに残そうと考えていましたが、今日まで延び延びとなってしまいました。
なお、「宣戦布告・シュタインメッツ」は削除し、「宣戦布告」以外の部分を「ナーホトの戦い」に付け加えています。(2015.4.21)
今回は宣戦布告についてお話しします。
みなさんは戦争を始めるに当たって相手に対しどう手続きをすればいいか、お分かりでしょうか?ここで問題。
Q;次の中で19世紀の時点で戦争を開始する方法として、誤っていると思われるものを選びなさい。
1:相手国に対して「国交断絶」(大使の引き上げ・貿易停止など)「最後通牒」(この先戦闘が起こっても仕方がないという警告)をして「宣戦布告」、戦闘に入る。
2:相手国と「国交断絶」「最後通牒」をして奇襲する。
3:いきなり相手国を奇襲する。
正解。
3つとも間違っていません。
まずは、宣戦布告の意味を知らなくてはなりません。
宣戦布告とは、国民や世界(相手国含む)に対して、戦争を始めますよ、と宣言することで、国王や元首などがその宣言文を読み上げ、それと同じ文書が各国に送付されるというローマ帝国以来伝統の方法でした。これはそのスピードの違いだけで今日でも変わりません。
要は、布告文が公の場で読み上げられた瞬間から戦争状態になります。更に相手側が受け取った時点で「宣戦」は正式に成立しますが、その前に戦争を始めてもフライングではありません。これには当時の状況からする立派な理由があります。
宣戦布告は、相手国に対する「果たし状」である訳ですが、同時に自国民に対する「開戦のお触れ」でもあり、周辺国への「通達」でもありました。
通信手段が限られて、物事の進行が遅い中世以前は、何事も情報が先行して発信されないと混乱を招くこととなます。「戦争するんだってさ」と国の中心部ばかりが知っていて、地方や国境線付近の住人たち軍人たちが知らなかった場合の「怖さ」は今も昔も変わらないでしょう。宣戦布告の「相手」は何も敵ばかりではなかったのです。
管理された街道や駅伝馬や馬車による輸送などのインフラが整備され、情報伝達が急速に進歩した18世紀以降、国民や相手国が「戦争になるぞ!」と騒ぎ出す前に宣戦布告が行われる事はめっきり少なくなってしまいました。国民が「知る」スピードが上がれば、敵が「宣戦布告」を受け取って初めて事態を知る、などと言うことが減るのも当然の流れかと思います。
この情報伝達の急速なスピードアップは、それまでの「紳士協定」にも変化をもたらします。
「やあやあやあ、我こそは……」とやっていた鎌倉時代と、部下や子に寝首をかかれるのが当たり前の安土桃山時代の違いのようなもの、「私はあなたを殴る事にしました」と言ってから右フックを炸裂させる人などコミック以外では滅多にお目に掛からないのと同じ(?)なのです。
実際、ローマ帝国時代から中世にかけて「国家間の紳士的慣習」として行われていた宣戦布告も、近代の戦闘と呼べるようになる18世紀以降次第に減って行き、外交交渉の決裂があって最後通牒が出されていたなら宣戦布告は省略される事が多くなりました。
これは、ナポレオン戦争の結果、国民から徴兵した「国民軍」が各国で一般化し、常備軍に「予備役」(一定期間の兵役終了後に民間に帰り、有事に動員によって軍隊に召集される人のこと)を加えて戦時体制とする「動員」が行われるようになったことと無縁ではありません。
動員は国家の一大事で、19世紀の独や仏では十数万から百万に近い予備役を一気に軍に召集しますから、後戻りは難しい一大国家事業でした。つまり動員はイコール戦争開始の合図と見なされるようになったのです。
この動員、19世紀のヨーロッパでは数週間から1ヶ月程度かかる代物で、当然相手国にも知られてしまう規模ですから、宣戦布告後に行うのでは敵に後れを取ってしまう、ということで、19世紀後半ともなると動員開始の後に宣戦布告が行われる、という図式になりました。
こうして宣戦布告は、とても丁寧な戦争開始の「お知らせ」でしかなくなったのです。
しかも1907年以前は、この開戦方法すら国際法で定められていませんでした。
ただ「紳士協定」のような形で、「外交団(大使)引き上げ」・「最後通牒」・(出来れば)「宣戦布告」の順番で戦争に入るのが「先進国・紳士の国」、それを行わないのは「野蛮・未開な国」との尊敬か軽蔑かのレッテルだけがあったのです。ですが、まあ、先進国を自負する国は他国から「野蛮」と見られるのはプライドから今後の外交交渉からも困りますから、だいたいが「最後通牒」までは行っていました。逆に宣戦布告までの間にのんびりしていて準備を整えられなかった国は「ノロマで阿呆」な国と後ろ指をさされても仕方がなかったのです。
この19世紀から20世紀初頭における宣戦布告という行為には、国際的に「自国に正義あり」を示すこと、どこが敵であるかを明確に示す事で他国からの干渉を防ぐこと等が主な意味だったのでは、と思います。
「宣戦布告」は、既に戦争と決まっている情勢下、開戦をお役所的感覚できちんと記録に残るよう文書にしましたよ、と言った程度だったのです。
で、悲惨な近代戦の実状が浮かび上がった日露戦争後の1907年、「開戦に関する条約」が先進国の間で交わされ、宣戦布告をすることが国際ルールとなります。これは「不意打ち」の奇襲を避けるためのルールでした。しかしこれも特に罰則があったわけでなく未だ紳士協定に過ぎないもので、第一次大戦後、国際連盟が重ねてルール化するまで正直に守ったり信じたりする国はありませんでした。
第一次大戦以降では、宣戦布告の瞬間から「戦時国際法」(ジュネーブ条約やハーグ陸戦協定などの総称)が適用されると定められ、「X国とY国は戦争状態にある」などと国際的に認められるルールとなりました。交戦国以外は「中立国」と呼ばれ、これはこれで守らねばならないルールがあります。
また、何の宣言もなくいきなり戦闘に突入した場合は開戦条約違反ですが、これを行う国は「紛争」や「事変」「武力衝突」などと都合よく呼んで違反を免れていました。この場合であっても人道上、文明国と認められたいのならば国際法の戦時ルールからは逃れられませんでした。
開戦条約ばかりでなくこれら戦争に関する国際法を守らなかった国が敗れると、その指導者たち・政治家や軍人たちが国際軍事法廷などで「戦犯」という名で裁かれました。守らなかった側が勝ったら普通国際社会から村八分ですが、それも休戦条約などで当事者同士が和解するとすぐに曖昧になる場合が多くありました。まさに勝てば官軍。
実は日露戦争の開戦も太平洋戦争の真珠湾と同じく、宣戦布告前に日本側の攻撃から朝鮮の仁川で海戦が行われていますが、1907年以前の話であり、また、どう考えても戦争が起こるのを回避出来ない状態にまで日露が進んでいたことと、先手を取った日本が勝ったことで大した問題とはされませんでした。
問題となったのは第二次世界大戦での日独で、「真珠湾」と「バルバロッサ」と言う言葉に対して米露では今だに「負(ふ)」のイメージを持つ方がいるのでは、と想像します。
今日では戦争自体が国連憲章第2条第4項「武力の行使を慎む」(紛争解決の手段として戦争を行わない)違反ですから、宣戦布告すること自体が国連憲章違反となります。
ところが、第二次世界大戦後も「戦争」はなくなりません。
「朝鮮戦争」から後、「中東」も「ベトナム」も「アフガン」も「イランイラク」も「中越」や「湾岸」も、近年の戦争は宣戦布告など「優雅な」ものは一切なく、ほとんど片方の側からの攻勢で「戦争」は開戦されて来ました。
え? なぜ宣戦布告しないのに「リメンバー・パールハーバー」みたいに非難されないのか、ですか?
つまりは、こういうことでしょう。
現代では、宣戦布告があるお陰で「奇襲」を防げる、などと言う事を真面目に信じる国家などありません。
第二次世界大戦当時ですら、既に宣戦布告することに実質的意味(相手に「殴るぞ」と警告する意味として)はなく、国際ルールとして存在していただけであり、何しろ宣戦布告後「直ちに」攻撃に入っても「布告後XX時間は攻撃してはならない」等の規定が全くなかった以上違反ではなかったのです。
こうしたこともあって、この20世紀中頃では宣戦布告後数時間で戦争の第一弾目が発射されるのが当たり前と思われていました。ですから、野村駐米大使と来栖特命全権大使が悔やんだ宣戦布告文書伝達の遅れは、「リメンバー・パールハーバー」と言う最高の戦意高揚スローガンを米国政府に与えてしまった、と言って憚らない方もいるのです。この「意味」が分からない方はどうぞ調べて下さいね!
現代では、情報隠匿もインターネットの存在で危機を迎えていますし、偵察衛星が宇宙からミリ単位で物体を捉え、夜の闇や雨雲も各種センサーで「拭われ」てしまうのです。今日のインテリジェンスはいわゆるスパイの存在を少しずつ過去にしてます(スパイ業界でも無人化が進んでいます)。宣戦布告が届いた0コンマ・ウン秒後、大統領官邸に核が落ちてくることもSFではなくなっています。つまり宣戦布告に「不意打ち」を防ぐ効果などとっくの昔に無くなっているのです。
しかも国連憲章で「慎む」といわれる「戦争」も、対抗勢力同士一歩も退かない場合は今も昔も変わりのない「結果」となります。しかも国連の常任理事国には拒否権があります。常任理事五大国全ての利害が一致するためしなど滅多にお目にかかれません。
ですから、国際連盟時代と同様、現在でも戦争は「紛争」として続きます。
今や宣戦布告など過去の遺物なのでしょう。