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秋山好古と黒溝台

 日露戦争中、日本の遠征軍であった満州軍(後の満州国や関東軍とは関係ありません)が最もアブナかった時はいつか、と問われれば「黒溝台の会戦」(ロシア名「沈旦堡会戦」)を挙げる方も多いのではないでしょうか?


 「沙河の会戦」後、日露両軍は「沙河の対陣」と呼ばれる自然休戦状態(本物の休戦ではなく、お互い積極攻勢に出ないにらみ合い)となってしまいます。満州の冬、マイナス20度を下回り握り飯も凍って食べられないという厳寒も理由の一つにありますが、日本側の弾薬不足(つまりは資金と輸送力不足)やロシア側の補給不足(補給線はシベリア鉄道一本のみ)と指揮官同士のイザコザなどが主な原因と思われます。


 この状況を満州軍側は時間稼ぎに使い、ジワジワと弾薬を集積しますが、この時、後に昭和の日本軍にも度々現れる悪い癖、「自分たちが考えられることは相手も考えているとは思わない」「自分に都合の良いことを相手がすると思いこむ」が発生します。


 満州軍には「シベリア単騎横断」の福島安正少将やドイツ通の井口省吾少将、後に首相となり日本をダメにした一人・ロシア通の田中義一少佐など、名だたる秀才参謀たちがいましたが、中でも作戦参謀の松川大佐(黒溝台会戦直後に何故か少将昇進)は、参謀長児玉源太郎大将から絶大な信頼を得ていました。

 しかし、彼は後の日本に君臨する傲慢な参謀たちの先駆けとも呼べる人で、「自分以外がバカにみえる」タイプ。

 「ロシア軍はこの厳冬の最中積極攻勢など掛けて来る訳がない」などと常々発言し、今は弾薬を節約し、春に始める奉天攻略の準備をすべき、と考えます。


 一方この頃ロシア側では……

 パーヴェル・ミシチェンコ将軍率いる騎兵集団は、ロシア満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキン将軍の命令により南下、日本軍の補給兵站基地、営口を襲おうとしました。しかし失敗し、再び北上して原隊に復帰しますが、彼らは重要な情報を得て帰ったのです。


 それは対陣する日本軍の左翼(西側)は東や中央に比べ兵の配置が希薄だ、というもので、この情報に飛びついたのはロシア第二軍司令官のオスカル=フェルディナント・グリッペンベルク将軍。かれはクロパトキン将軍の采配に疑問を感じた中央政府から11月に派遣されたばかり。クロパトキンに代わろうと張り切っていました。早速日本軍の弱点を強襲する作戦を発令します。


 この満州軍左翼は、騎兵第1旅団長の秋山好古少将が率いる、当時としては珍しい、今日で言うところの諸兵科連合戦闘団「秋山支隊」が担当していました。秋山少将自身が率いる騎兵第1旅団の騎兵たちと、満洲軍のうち6個師団から騎兵連隊を集成(騎兵22個中隊)、これに歩兵3個大隊と砲兵2個中隊、工兵1個大隊を加えたものが「秋山支隊」です。部隊の数は多いものの、その戦闘人員数はわずか8千人に過ぎません。秋山少将はこの部隊を率い、なんと全長40キロの前線を支えていました。


 この秋山好古という軍人。「坂の上の雲」で弟・真之と共に有名となり、その古武士然とした振る舞いと大酒飲みの逸話、日本人離れした「ハンサムな」容貌、そして日本陸軍「騎兵の父」としての輝かしい生涯、正に明治の武人そのものの将軍さんです。

 この人の生涯については坂の上の雲を始め、様々に語られ賛美されていますのでそちらに譲ります。


 さて、秋山少将は年が明けて(1905年1月)から増え続ける敵の活発な偵察や動静に気付いており、何かの折りにつけて満州軍司令部に「近いうちに敵の大規模な攻撃がありそうだ」と警告し続けました。

 しかし、前述の松川参謀始めとする陸大卒のエリートたちは、明治維新や西南戦争を経験したベテランの野戦指揮官たちを小馬鹿にする傾向があり、松川参謀は陸大の二年先輩で騎兵の父と言われた秋山少将の警告も無視してしまいました。


 秋山少将はこの状況下で出来るだけの手配をし、最も危険と思われる沈旦堡の地に信頼する豊辺大佐指揮の主力を置き、その他三カ所にも陣地を構築、拠点防衛に徹します。


 これは騎兵を率いる指揮官としては異例と思える判断で、機動力を重視する騎兵の立場から見れば、主力をいつでも飛び出せるよう中央に置き、敵の攻撃があればその最も強い部分に対し即座に攻撃に出る「機動防御」を考えるのが自然と思われるところ、その「脚」を捨てて塹壕陣地に籠もるという一見消極策に出ました。


 しかしこれは秋山少将の深謀遠慮で、こんな状況下で敵・ロシアが積極攻勢をかけて来たならば、わずか数千の騎兵では防ぎ切れる訳がなく、しっかりした陣地に機関銃を始めとする火器を備え、敵を引きつけて妨害し時間を稼ぎ、満州軍からの増援を待とうとしたのでした。

 そのため、自らが率いる部隊右翼(最も友軍に近い)にはわずかな手勢を置いて、直ぐに本営へ使いを出せるよう騎馬伝令を多数待機させていました。 


 そして1月25日、秋山少将が恐れた事態がついに現実となりました。

 グリッペンベルクの本隊10万がわずか8千の秋山支隊に襲いかかって来たのでした。


 ……と、まあ、このまま書き続けたら、なかなか終わりませんねえ。

 「プロシア参謀本部」と同じで「おだなかの奴、また戦記かよ」というご批判を受けそうです。

 ですから、この先はみなさんご自身でお調べ頂くとして(「普墺戦争」と違って黒溝台での秋山支隊や立見第8師団の奮戦は、日本語の大変立派な文献、記述が多数ネットにあります)、ここでは秋山好古の考えた騎兵戦術のみ記したいと思います。


 この黒溝台において、秋山少将の騎兵たちは馬には乗らずほとんどを歩兵として戦いました。

 当然マイナス20度という酷寒は騎馬戦を困難にします。寒さに慣れた相手側ロシア騎兵も同じで、彼らは戦場の最左翼で多少活発な行動をしただけでした。


 これがもし春から夏であったらどうか?

 雪解け泥濘の季節を過ぎれば満州は騎兵にとって理想的な場所となります。しかし、気候が変わっても近代戦における騎兵の「危うさ」は変わりません。


 世界的に見ても、騎兵は既に従来の戦い方では存在を許されない状況にあったのです。しかし、その栄光の歴史と立派な戦績により、未だ軍の中枢に置かれました。明らかに時代遅れ、その衰退に誰もが内心気付いていてもそれを指摘するのはタブー、我関せずと目を逸らす、そんな存在が騎兵でした。


 しかし、日本軍の騎兵は欧米とは全く違いました。

 開国から日の浅い日本は、近代的国民軍の歴史も浅く、また日本という国内は起伏に富んだ山河や都市部が多く、広い土地が少なく、騎兵は当初、軍での存在意義を問われたほど?の付く存在だったのです。

 先進国が持っているからウチも(一応)持っておこう、というのが日本軍創設時の首脳の本音だったのかも知れませんね。

 

 従って伝統のない日本で騎兵という兵科は相対的に地位が低く、重要視もされませんでした。

 当時(明治初期)の世界的強国、プロシア式に軍隊を育てる決定が下ったのに、騎兵だけはフランス式になったのは、秋山好古始めとする騎兵科に配属された士官たちの意見(プロシア式は騎兵が疲れる乗馬術などの理由)だと言いますから、「まあ、やりたいんだったら、やったら?大勢に影響ないし」位の軽い存在だったのかも知れません。


 欧米、特にヨーロッパでは当然のごとく驃騎兵や槍騎兵、胸甲騎兵などと分類され、それぞれ部門別に存在していた騎兵もただ「騎兵」ひとつの兵科として存在していました。

 しかし、それが「ケガの功名」となり、従来の因習に捕らわれない「新しい兵種」として騎兵を活用するチャンスが生まれるのです。


 秋山好古はこの日本軍騎兵部隊の誕生から関わり、この黒溝台まで「長い道のり」を経てやって来ました。

 その立場は、第二次大戦初期におけるドイツ国防陸軍のハインツ・グデーリアン将軍に似ており、自ら育て上げた組織を自ら率いて組織の存在価値を示そうとしていたのでした。

 しかし、グデーリアンと決定的に違うのは、その組織が未来に向かって可能性を秘めた立場にあるのではなく、世界的に見て次第に衰退の運命にあった組織だったことです。


 このような「不運」な立場にあるリーダーが取るべき道、それは二つに一つのはずです。

 諦めて有終の美を飾り伝統に幕を引くのか。

 その組織が持つ利点・スキルを重用し「脱皮」を計るのか。


 少なくとも秋山少将は「騎兵」を諦めてはいませんでした。


 騎兵のもつ利点、軽快俊足を活かすにはどうしたらよいか。彼は悩み考え抜いたと思いますが、兵器の発達が加速度的に進むこの時代、彼のように先見の明がある男には自ずと見えて来たはずです。


 騎兵にとって残念なことに通信設備は加速度的に発達しており、この戦争でも野戦電話が使われていて、騎馬伝令は二次的なものとなっています。

 欧米で20世紀を迎えてもなお拘る者がいた「騎兵の奇襲・突撃」は、機関銃と鉄条網が生まれたこの時代では自殺行為に過ぎません。 

 

 残された道。それは偵察と敵地浸透です。


 この日露戦争当時、自動車両、特に不整地でも突進できる無限軌道(キャタピラー)装備の自動車両は未だ戦場に登場していません。偵察行動を根本的に変えてしまった航空機もです。

 

 不整地でも進軍出来、敵地の奥深くに素早く浸透出来る騎兵。その偵察能力と敵を擾乱に陥れる能力において、騎兵に勝るものは当時は存在しませんでした。


 とはいうものの、それだけでは騎兵が独立した兵科として存在するにはわき役過ぎます。騎兵の維持はお金が掛かるし、人員を育てるのも時間が掛かります。費用対効果が低ければ次第に縮小され、歩兵科の中の小さな部門として飲み込まれてしまうかも知れません。

 

 好古は割り切りました。乗馬で戦うのは相手騎兵とやむを得ず対する時。対歩兵戦では敵の退却時以外は下馬し歩兵として戦おう、と。

 しかし、これでは部隊単位あたりの員数が少ない騎兵部隊(定数は歩兵の半分以下)は弱くなってしまいます。

 

 ならば、と好古は機関銃を重点配備するよう軍に働きかけました。

 当時の機関銃は現代と違い、三脚に載せて使用するかなり重くて大きなもので、移動も三人で行いました。この「保式機関砲」は歩兵部隊に配備されました。

 好古の騎兵へ回されたのは工廠式繋駕機関砲と言われる馬で牽引するタイプの車輪付きのもので、好古はこれを「切り札」にすべく訓練に励みました。


 こうして好古は騎兵部隊を騎乗ばかりでなく下馬戦闘でもしごきました。こうした新機軸は貴族が多く入隊していた欧米騎兵では反発が多く、上手くいかなかったことでしょう。


 こうして好古の騎兵たちは黒溝台で数倍の敵を前に奮戦し、陣地を守り抜くのです。


 この戦いで好古が率いた「秋山支隊」は、スウェーデンの英雄、グスタフ・アドルフが活用した「三兵戦術」(歩・砲・騎の三つの部隊による協調攻撃)を近代化した「ジョイントベンチャー」で、工兵たちが築いた巧妙な塹壕陣地に籠もった歩兵と下馬騎兵が、機関銃や小銃で接近する敵歩兵を足止めし、砲兵が榴散弾でこれを粉砕、連絡や偵察に少数の騎兵が駆ける、と言った具合でした。

 機関銃が要塞戦だけでなく野戦で活躍したのは世界戦史上、この黒溝台の秋山支隊の戦いが初めてでした。


 この「少兵力でも頑強な塹壕陣地構築と近代火器(機関銃と速射砲)の活用で多数の敵でも受け止められる」という教訓は、この後の奉天会戦でも実証(ただしロシア側も)され、あの旅順の悪夢と共に後世の戦闘に多大な示唆を与えるはずのものでした。

 

 しかし、欧米はこれを軽視し、11年後に地獄を見ることとなり、また日本軍も秋山少将が示した今後の日本陸軍が取り入れるべき戦い方の好例を無視、なんと乃木第三軍が演じた「肉弾戦」を賞賛し精神論に溺れて行くのです。


 秋山少将は黒溝台の後も、二つの挺身隊(永沼・長谷川)による敵地長距離擾乱・偵察行動を実行し、攻撃の成果は大したことはなかったものの、その行動は奉天会戦でクロパトキンが後方の心配をしたほどで、敵の攪乱という目的には成功しました。

 これらの実例で今後騎兵がどう生き残るのかを示し、奉天会戦ではよく日本の左翼を守り通し、乃木第三軍の迂回行動を助け、日本の勝利に貢献しています。


 秋山好古という将軍は、斜陽の騎兵をどう活かすのか、そのあり方を示しただけでなく、火力と防御力を重視、各兵科が協調行動を取ることで無駄な犠牲を防ぐ、という近代の軍隊があるべき道を身を持って示したと言っても良いと思います。


 残念なことに、日本軍には秋山好古に続く者はいませんでした。

 また、大山巌のような懐の深い度量のある司令官も現れず、将来、首相になったであろう児玉源太郎は日露戦争に全てを出し尽くして急逝し、黒木大将や奥大将、野津大将に立見中将(当時)のような「凄み」のある野戦指揮官も消えて行き、情報・諜報を重視した福島少将や明石大佐などの後継者も小粒に過ぎました。

 

 時代が大正へ移り、第一次大戦で「アマい蜜」を吸った日本軍は、黒溝台で秋山少将の警告を軽視・無視した参謀たちの後輩により、精神論を賞賛し机上の空論をもてあそび、国家を陰から支配して行くことになるのでした。


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