騎兵・その栄光と挫折(前)
軍隊に必須な要素としての「速さ」は、いの一番に取り上げねばならないものでしょう。
「戦闘の原則」のうち、特に「主動」「機動」「集中」「奇襲」の四原則は「速さ」を抜きにしては語れません。「速さ」という要素は軍事にとって一番大切な要素である、と言い切ってしまっても異論は少ないかと思います。
この「速さ」を具現するものとして、騎兵は古来より軍の中核として確固とした地位を築いて来ました。
今回はこの「旧き佳き」騎兵を取り上げたいと思います。
今日(2013年)、騎兵という兵科を維持する軍隊は皆無と言って良いかと思います。
どんな後進国の軍隊でも馬に乗って戦うというファンタジーを具現することはありません。21世紀の現代ではたとえアフリカの砂漠でも「自動車」という鉄の馬が存在し、また、それは本物の馬よりよほど安価で取り扱いも簡単な代物であり、今では誰も好き好んで騎兵などというものを維持することはありません。
唯一、アフリカ北部、ダルフール(スーダン西部)の地において「ジンジャウィード」と呼ばれる現地部族の民兵は今も馬やラクダに乗って戦っており、現代に残った最後の「騎兵」と呼べるものかも知れませんが、それ以外、部隊名に「騎兵」やら「胸甲」やら付く部隊には馬など存在せず、それは多分にノスタルジーと名誉により「称号」として付けられているに過ぎないのです。
騎兵の歴史は古く、人類が馬を飼い慣らし「騎乗」するようになると、その必然的結果として軍事利用へと発展、軍用馬が登場し騎兵が生まれます。最初はアッシリアやペルシアで騎兵が現れ、やがて中東から中央アジアへと広がって行きました。
更に、紀元前800年前後にスキタイで始まったと言われる「騎射」(馬上から弓を射る)は騎兵を更に有効な兵力とし、有名な匈奴やフン族は騎兵抜きには版図を広げることは出来なかったでしょう。
これら狩猟民族や遊牧民族は必然的に馬を使いこなしていましたから、我々が自転車に乗る感覚で馬に乗っおり、幼少より騎乗に長けた彼らの「騎兵」は戦力の中心として中国大陸から中央アジア、インド、東ヨーロッパまでを駆け巡ったのでした。
逆に農耕民族や森林地帯が多く騎馬戦に不向きなヨーロッパでは「騎兵」は脇役で、歩兵の集団戦術が発展し、ギリシアの「ファランクス」(大きな盾と長い槍で武装した重装歩兵の密集隊列戦術)やローマの「テストゥド」(密集した歩兵が盾を正面と上にかざして移動する戦術)になって行きます。
これら古代ヨーロッパの軍隊では騎兵は偵察や敵の弱点への襲撃、敗残兵を駆り立てる掃討戦に活用されることが多く、その数も少なかったようです。
例外がマケドニア、あのアレクサンダー大王の帝国で、馬の扱いに慣れた牧畜民族である彼らは「ヘタイロイ」と呼ばれるマケドニア重装騎兵とテッサリアやヘラス(ギリシア)部族の軽装騎兵を組み合わせ、騎兵を重要な兵科として重用します。
その最も効果的な使い方は、「ホプリタイ」(重装歩兵)のファランクスを中心に敵を抑え、両脇または一方から騎兵部隊を突進させ迂回し後方から敵を叩く、いわゆる「金床戦術」で、この戦術を駆使することで古代ギリシアやペルシアを滅ぼしました。
余談ですが、この金床戦術は遠く20世紀の戦いでも馬を戦車に変えて使われた古典的名戦術です。
馬を乗りこなすということは、経験がある方ならお分かりの通り結構大変で、それなりの技術と経験を習得することが必要です。
ましてや「裸馬」に乗れと言われたら、乗馬経験の浅い人なら「ムリ!」と言う事でしょう。騎兵はその上に「騎射」を行わねばならず、あの「流鏑馬(やぶさめ)」を見ても大変だなあ、と思う訳です。流鏑馬も裸馬ではなく、ちゃんと馬体に和鞍と「鐙」(あぶみ)を付けているので安定して「騎射」を行えるのです。
この「鐙」(あぶみ)は西暦300年頃に中国で登場したようですが、鐙の発明は騎兵を特殊技能者の集団から一気に一般化させました。鐙があることで馬上で体を安定させることが出来、これで弓を射ったり槍を投げたり刺したりすることがずっと容易に出来るようになります。
騎兵はこうして有効な兵科として軍の中心兵力となりました。紀元前のローマや中国(春秋時代)、インドで盛んだったチャリオット(古代の馬曳戦車)は廃れ、馬の軍事使用は運搬と騎兵とに特化して行きます。
また、幼少より慣れ親しまなくとも鞍や鐙など馬具の発達で乗馬術が簡単に得られるようになったため、農耕民族の軍隊も精強な騎兵部隊を揃えるようになり、狩猟民族や遊牧民族より数的優位に立つ農耕民族は次第に軍事的優勢を確保して行きました。
鉄器の製造が飛躍的に発達した中世では、鎧の発展で騎兵の一部も鎧をまとうようになり、騎兵は文字通り全身鎧に覆われ、馬まで被装して「中世型重装騎兵」となります。同時に品種改良の技術が向上し、馬自体も戦闘向きの大きく力強い馬種が登場し、この傾向に拍車をかけます。
それは騎兵が本来持っている「速さ」を犠牲にして、これも軍事の重要な要素である「衝撃力」を取るということであり、中世型重装騎兵は正に現代の戦車と同じ役割を担っていたのでした。
それまでの騎兵は「軽装騎兵」となり偵察や伝令等に使い、重装騎兵は「切り札」として勝敗分岐点(戦闘での勝敗が決まる時点や地点)や敵の攻勢限界点(攻撃から防衛への転回点)で投入されました。
しかし、やがて重装騎兵は中世ヨーロッパ以外では次第に廃れます。
これは弩(ど)やクロスボウなどの強力な「飛び道具」が発達して騎兵に対抗したためであり、また、鈍重な重装騎兵よりスピード重視の軽装騎兵の方がよほど使い易く、鎧などの装備もないので安価であったからでもあります。
このため、中東やアジアでは軽装騎兵が主流となり、彼らの活躍によりイスラム世界や中央アジアで巨大な帝国が生まれることとなりました。
ところがこれが中世ヨーロッパとなると全く逆で、重装騎兵が全盛となります(900年代から1300年代)。これがいわゆる「騎士」の時代で、重装騎兵は勇気と体力に優れた者が特別に選ばれてなったことから特権階級となり持て囃されて「貴族」化し、烏合の衆の集団戦や長弓や投槍、投石機などは「卑怯な武器」として蔑まれ、戦争は一時、一対一の「一騎討ち」にまで「退化」してしまうのでした。
しかしこの中世ロマンも1400年代を迎えると集団戦へと次第に回帰し、騎士たちも徒党を組んで歩兵の集団に対抗するようになります。
そして騎士の突撃に対抗する手段として、パイクと呼ばれる長大な対騎兵用の槍が登場しました。
この5メートル前後の長い槍は、先端の刃がノコギリ状にギザギザになっており、これを前方斜め上に構えて集団となった歩兵が前進すると、まるで針を逆立てたハリネズミのような槍衾(やりぶすま)となり、突進して来る騎士たちやその乗馬を傷つけ、その衝撃突破力を削減することが出来ました。
このパイクや歩兵の集団戦術(その密集した形状から「方陣」と呼ばれます)、投射兵器により騎士の存在に陰りが生じ、それはハンドカノン(火槍/ごく初期の鉄砲)や火縄銃の登場で決定的になります。
1419年に始まった「フス戦争」ではハンドカノンが初めてヨーロッパの戦闘に登場し、騎士の突撃がフス派による火器の集中使用で惨敗することにより、騎士の時代は完全に終わりを告げるのでした。
しかし、騎兵自体は消滅することはなく、この火器の時代に則した形態に変化し、重要な戦力として新たな存在意義を示すことになるのです。