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悪党・正成の功罪

 昭和20年(1945)3月21日水曜日。鹿児島県鹿屋にあった海軍航空隊の鹿屋基地は神風特別攻撃隊、通称特攻の最前線基地として連日、特攻機を送り出していましたが、この日、特攻機としては随分大型の海軍一式陸上攻撃機(一式陸攻)が滑走路横にずらりと並び離陸を待っていました。


 この3月下旬は九州沖にアメリカ海軍の空母機動部隊(空母を中心とした艦隊)が居座って、九州沖航空戦と呼ばれる航空戦闘が行われていました。この敵空母部隊に向かって特攻機が飛び立って行ったのですが、そのほとんどは空母に達する前に対空砲火や敵の艦載戦闘機によって撃ち落とされるという悲惨な状況でした。


 この特攻機の一種に「桜花(おうか)」と呼ばれる「自爆機」があります。固定燃料を噴射して飛行する一種のロケット機で、これを「母機」と呼ばれる爆撃機の下に吊り下げ、敵空母の近くまで接近、母機から発進し敵艦に突入するという代物です。その先端には1200キログラムの徹甲爆弾が機体の中に仕込んであり、つまりは人間操縦ミサイルでした。

 海軍期待の「新兵器」でしたが、実戦では母機が撃ち落とされるケースが続出、ちゃんと母機から発進し敵艦に体当たり出来たのはわずかで、戦果は駆逐艦1隻撃沈、5隻撃破に過ぎませんでした。


 この3月21日に出撃したのは桜花最初の実戦部隊「神雷部隊」で、隊長は野中五郎海軍少佐でした。隊長と言っても元は母機である陸上攻撃機(海軍の陸上運用爆撃機のこと)を指揮する爆撃機の飛行隊長で、桜花に乗るのは若い士官たちでした。


 しかし、特攻する桜花搭乗隊員ばかりでなく、敵の戦闘機と必殺の近接信管砲弾(航空機の近くまで飛んで来ると感知して破裂する弾丸)による対空砲火が待ち受ける訳ですから、母機の爆撃機も生還はほとんど望めない状況でした。


 この野中五郎少佐は、ミリオタさんならよくご存じの日本海軍陸攻隊でも指折りの名指揮官。その「べらんめえ」な口調、気さくな性格、任侠を装いながらも部下想いの優しい人柄や優秀な指揮振りで人気の高かった方です。現代でも上司としては最高の方ですよね。


 野中少佐は桜花による攻撃はうまくいくはずがないと悟っていました。一緒に特攻の訓練をし、予備部隊の指揮官だった林大尉に、「桜花は成功しない。母機を含め全滅する。俺の隊が全滅したら、クソの役にも立たない特攻などぶっ潰してくれ」と言ったそうです。

 その彼が、この日特攻に赴くため飛行場へ歩いて行きながら、並んで歩いていた上司の岩城中佐に、「飛行長、これは『湊川』だよ」と呟いたと言います。

 結局、野中少佐の予想通り、第一回の桜花特攻は母機を含め全滅。少佐を含め全員戦死、戦果なしに終わりました。

 (ここまでの部分「第二次大戦航空史話(下)」秦郁彦著「昭和二十年三月二十一日の湊川」を中心にウィキペディアなどをソースにしております。かなり参照してしまいましたので原則を崩して記載しました)


 野中五郎という稀代の好漢が死地に赴く時、吐き捨てるように言った「湊川」という地名。これは当時の日本軍人、いや日本人なら少年少女に至るまでほとんどの人間が知っていた地名でしょう。


 湊川とは、現在の兵庫県神戸市の西、西六甲から長田にかけて流れる川で、普通湊川といえば、今の湊川公園あたりを言います。この川沿いで1336年5月25日、「湊川の戦い」が発生しました。

 足利尊氏・直義兄弟を中心とする反・後醍醐天皇派(この1336年に北朝擁立)と後醍醐天皇派の新田義貞、楠木正成らが戦い、後醍醐天皇側が敗北、正成が一族と共に自害した戦いです。


 この楠木正成という武将、「悪党」と呼ばれる「反・支配階級」の豪族であったと思われています。


 この「悪党」、今では悪漢の意味で使われますが、この当時はあくまで幕府や本所(荘園領主のこと)にタテ付きその土地を荒らしたり占有する者たちを「悪党」と呼びました。

 彼らは別段、残虐非道な海賊や山賊のような者ばかりではなく、占有した土地では本所らより善政を敷く者がいるなど、単純に支配階級の「敵」として「歴史」(XX物語とかXX記などの史書や日記)で悪く記されている者たちです。


 正成の前半生は不明と言われます。

 最も古い記述で1331年と言いますから、湊川での自害まで6年しかない。江戸後期の歴史学者、頼山陽が書いた「日本外史」では生年を1294年としており、異論はあるものの亡くなった時には42歳となり、ほとんど後醍醐天皇に従って戦った年月しか分かっていないことになります。


 足利尊氏が後醍醐天皇に対抗して擁立した「北朝」に縁深い人たちが編さんした「太平記」や「梅松論」で描かれる正成、つまりは「敵方」が描く正成像も英雄と呼ぶに相応しいものです。


 「悪党」であったとされ、更に死してなお「南朝」側最大の英雄として敵からも称賛されたこの楠木正成、これ以上詳しくはウィキなどを参照して頂くとして、ここではこの湊川の戦いや千早・赤坂城の戦いで有名な楠木正成という人物の行動が後世の日本人に与えた功罪を「ミリオタでなくても」風に考察します。


 楠木正成は本当に日本人好みの武将です。

 清廉潔白で、勇気があり、善政により支配する領民からは慕われ、忠義を重んじ、家族を大切にし、部下を信じ、目上を敬い、時には信ずる所を恐れることなく上申し、それが受け入れられなくとも、そして除けられても後醍醐天皇に対する忠義はいささかも揺るぎない。

そして最後は負けると分かっていても戦い、義に殉ずる。


 これが戦国以降の武士道の鑑となり、太平の世(江戸時代)に入ればその人気は庶民にも広がり、講談の人気演目となり、やがて「楠公」として神格化して行きます。

 明治に入ってもその人気は衰えず、イギリス大使のパークスがその忠誠心に感銘し碑文を寄せた、等と言う逸話も生みます。


 判官贔屓(はんがんびいき/ほうがんびいき、とも)の由来である源義経も人気のある武将ですが、こちらは文字通り「同情」や滅びる者への「哀悼」と呼べる感情で人気が高いのに対し、「悪党」である正成は、そういう哀悼や同情でなく、人物に対する純粋な「尊敬」や「憧れ」の対象でした。


 人々は純粋に正成のようにありたいと願い、また正成のようなヒーローを求めていたのです。


 しかし、この人気を時の「政権」が利用しない訳はありません。特に「湊川」の故事は、無理難題を下の者に押し付けたい場合、非常に効果的だったと言えます。


 繰り返しますが、湊川の故事を知らない方はお調べ願います。これに付随する「桜井の別れ」の故事などは、忠義を代々に伝えたい「お上」にとっては持って来いの「お話」です。

 正成が神格されて以降、これらの故事が「史実」かどうか、それが事実であったにせよ、最早誰にも判断出来なくなったのではないかと思います。脚色を伴わない神格などあり得ないからです。


 しかし、事実だったかどうかなど、もう関係ありません。楠木正成にヒーローの究極を見る人には、それは「美しいスタイル」であり、一人の人物が成した事績と言うより、「修身・道徳」の完成形となって輝いているからです。

 そして、正成にその「完成形」を見る日本人が昭和20年以前は大多数だった、ということです。


 これを「洗脳」と呼んでしまうのは乱暴でしょう。そして楠木正成だけが忠義の鏡とされた訳ではありません。しかし、明治の軍人が「軍神」や「鎮魂」という時、そこには正成が見え隠れしていたようにも思えるのです。それが大正、昭和となって、更に強力な「縛り」になって行ったように思えてなりません。


 それは太平洋の戦争で更に精神論の根拠となり、この「忠義」と「殉死」を強調することで自然と「特攻」が「憂国から当然の発露」として堂々とまかり通ったのではないかと思うと、あの野中少佐の無念が、怒りが少しだけ分かって来るような気がします。


 今や、楠木正成の故事が教科書に載ることもありません。逆に彼の業績をことさら協調すれば、あの「菊水」の家紋と共に「右」のレッテルを張られてしまいかねません。


 「常識」が「忠義」という言葉で打ち消され、「非常識」も「忠義」と言う言葉でまかり通る。


 これは日本人にとっても楠木正成にとっても不幸な事だったと思うのです。


 この一節を高谷氷理さん(ユーザーID168324)に捧げます。

 高谷さんのリクエスト「悪党の戦い方」とはかなり離れてしまいましたが、もっと上手に悪党の戦いを記している方が一杯いらっしゃって断念しました。実は西洋軍事史は好きなのですが、中世日本はちと苦手な筆者です。申し訳ありませんがお許しを。


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