普墺戦争/オスウォーシムの戦い(プロシア参謀本部・こぼれ話)
※この一節は、「プロシア参謀本部」がまだこちらにあった時に書かれたものですが、ここに残すのが妥当と考え、残します。
後書き部分の場所を、グーグルアース等空撮地図などで確認して頂ければ、人類の愚かさと歴史の重みを感じて頂けるかと思います。
普墺戦争には、こうして深みに「潜り込んでいる」筆者ですら取り上げない小さな戦いが結構あります。そこで戦い血を流した兵士や将軍は、将来この戦いが歴史に残るのだろう、と確信して戦っていたのかもしれません。歴史は万死と優将にのみ微笑むもの。正しく無情です。
さて、ここではそんな戦いで筆者の目に止まったひとつの戦いを紹介します。戦争の大勢に影響なく、主戦場からも離れた場所でその戦いは発生します。その名を「オスウォーシムの戦い」と言います。
この戦いの記録は、オーストリア参謀本部が戦争後に記録した「普墺戦史」にのみ登場します。ウィキペディアでも日本語版はもちろん、英語、独語、露語はおろか、戦場となった場所の言語、チェコ語やポーランド語ですら登場しません。
そんな小さな戦いを「普墺戦史」は誇らしげに紹介しています。
「進んでボヘミア領域内での戦いを記して来たが、なおも戦地の極東端で発生した二三の瑣事を記さねばならない。主力軍の領域内でヴィソコフ(ナーホト)の戦いやトラテナウの戦いが発生し、遥か西方でランゲンザルツァの戦いが発生していた6月27日のこと、我(オーストリア)軍のちっぽけな部隊が数倍の敵を迎えてオスウォーシムの付近で戦い、奇跡的な勝利を収めたことは小さな出来事とは言え、その名誉は大きなものであるのでここに付記しておく」(普墺戦史第三巻175ページ/筆者意訳)
現ポーランドで当時はオーストリア領のクラコウ(現・クラクフ)には当時立派な要塞があり、ここにはオーストリア軍の要塞守備隊が配属されていました。しかし、要塞守備隊とは野戦部隊と違い、要塞や砦に籠って壁の中から大砲や小銃で迎え撃つ、守備専門の部隊で、大概が後備兵で賄われていました。後備兵とは文字通り後方で備える兵士で、前線の後ろの雑務や占領地の警備などを行う事の多い二線級の部隊です。三十過ぎの「老兵」が多く、時代によっては少年兵等もいます。この後備も前線に駆り出される事があり、第一線にこうした部隊が出て来ると、その軍は末期症状が出始めたと言っても良い事になります。
さて、このクラコウ要塞に駐屯していた部隊は、その周辺の警備も担当していましたが、実はこのクラコウの土地、プロシアのシュレジエン地方の「先端」とロシア領ポーランドと接している重要な国境地帯です。
昔の地図を見て頂ければ分かりますが、プロシア領シュレジエンはベルリンから南東に伸びた「半島」のような領土で、その先にクラコウがあるのです。
6月15日宣戦布告、21日に正式な宣戦布告文書交付が発表されると、部隊は警戒態勢でプロシア軍を待ちます。伝えられるプロシアの動きは、シュレジエンから西へボヘミアに侵入するというもので、南のクラコウには来るとは思えませんが油断は禁物です。実際、連日に渡って偵察小部隊が国境侵犯を繰り返し、小競り合いが発生していました。
25日。オーストリア・クラコウ要塞守備隊所属のトレンチナリア将軍は2,000人規模の歩兵と百騎前後の騎兵、大砲四門の砲兵を率いて国境の町オスウォーシムに入り、町の北を流れるヴァイクセル川(現ヴィスワ川。当時はこれが国境)を渡ります。敵情を探る威力偵察(戦いを避けずに戦い、敵の能力・兵力を探る危険な偵察任務)でした。
将軍の部隊は敵の偵察騎兵を見かけますが、直ぐに逃げてしまい、本格的な敵には出会いませんでした。敵の領地とは言え、この辺りがプロシア領になったのは七年戦争(1756~63)の結果。それまではオーストリア領だったのです。付近の住民はオーストリア人に友好的で、なんとプロシア軍の位置まで教える始末。将軍は非協力的でプロシアの斥候(偵察兵)を潜ませていた部落を焼くなどして意気揚々、オスウォーシムに引き上げます。
26日。プロシア第二軍に所属するストルベルヒ・ヴェルゲローデ少将は本部に呼び出されます。将軍は司令官のプロシア皇太子フリードリヒ王子から「本隊がボヘミアへの攻勢を進めている最中に南のカトヴィッツ(現・カトヴィツェ)方面は防御が手薄であり、敵の偵察部隊の侵入も報告されている。直ちに部隊を率いてヴァイクセル川を越え、オスウォーシムへ進出せよ」との命令を受けます。
ストルベルヒ将軍は自身が率いる旅団規模の支隊に加え、同僚のクノーベルドルフ少将支隊から二個中隊を借り受け、直ちにオスウォーシムに向けて出立しました。
将軍はカトヴィッツからオスウォーシムにかけて示威行動のため二個大隊を残し(ムィスウォヴィツェに一個、ビェルニに一個)本隊の四個大隊(約2,800名)と槍騎兵四個中隊(600騎)はエードリン(現・イェドリナ)でヴァイクセル川を渡河、西からオスウォーシムに接近しました。
既に「敵、オスウォーシムに向かい進軍」との連絡を受けていたトレンチナリア支隊は鉄道停車場を中心に陣を敷き、敵に備えました。
朝5時。戦いは騎兵の小競り合いに始まり、やがて両軍はオスウォーシム停車場を巡って争奪戦を繰り広げました。
この時、オーストリア側の砲兵隊はたった四門しかない大砲を実に効果的な位置に配置して、プロシア側を大いに苦しめます。プロシア側にたった二門しかなかった大砲も、このオーストリア砲兵の砲撃で破壊されてしまいました。
郊外から次第に圧迫されて街に戻って来たオーストリア騎兵もここ停車場脇で奮戦、歩兵に先立って突撃して来た敵の槍騎兵隊と正面から堂々と戦います。壮絶な騎兵戦はなんと隊長同士の文字通り「一騎撃ち」まで起こり(プロシアの隊長は負傷、オーストリアの隊長は戦死)ますが、例の大砲がここでも活躍、プロシア騎兵を次々に倒し、これによってオーストリア騎兵が勝利、プロシア騎兵は退却しました。
騎兵の退却と敵の砲撃で、停車場周辺のプロシア歩兵も退却を始め、隊長のストルベルヒ将軍もここで諦めました。
プロシアの後衛が退却する本隊を援護して猛射撃を繰り返す中、隊長を失ったオーストリア騎兵は果敢にもプロシア軍に襲撃を仕掛け、敵を完全にヴェイクセル川の向こうに追い払うのでした。
この戦いの結果、オーストリア軍は騎兵隊長レーマン少佐以下士官7名を失い、兵士の損失は71名でした。
プロシア軍は士官7名、兵士166名を失い、この普墺戦争でも珍しいオーストリア側勝利、犠牲もオーストリア側が少なかったという貴重な一戦となりました。
さて、この戦いは全く瑣末な辺境の戦いで、オーストリア軍勝利という以外取り立てるべきものはありません。
では、何故筆者はこの戦いを取り上げたのか。それは筆者が何気なくこの戦場の場所を知ろうとグーグルマップを開いた時のことを知って貰いたかったからに過ぎません。
このオスウォーシムという名前。実はどこかで聞いたことがあったな、という「予感」があったのです。そして筆者の頭はすっかり普墺戦争・19世紀一色になっていましたので、こんな有名な地名に直ぐに気付く事はありませんでした。
その衝撃は現在の地図を見て、19世紀のプロシア兵がやって来たオスウォーシム、現在はオシフィエンチムの西側を見た時にやって来ます。
皆さんもぜひ、現在の地図でポーランドのオシフィエンチムの町を見つけて下さい。「それ」は街の西郊外にまだ残っています。航空写真にすれば更にはっきりするでしょう。
オシフィエンチムには昔から別名がありますが、今では町の人は誰も別名で自分の町を呼びません。
それは「AUSCHWITZ」と言います。
こぼれ話
主なVernichtungslager(Konzentrationslager=KZ/カー・ツェット)の位置
Sachsenhausen 52°46'00.28″N 13°15'46.48″E
Maly Trostinez 53°51'06.40″N 27°42'21.26″ E
Auschwitz-Birkenau 50°02'13.79″N 19°10'33.13″E
Auschwitz-1 50°01'35.41″N 19°12'15.30″E
Sobibor 51°28'30.32″N 23°38'20.77″E
Treblinka 52°37'02.89″N 22°02'19.58″E
Belzec 50°22'24.96″N 23°27'29.55″E
Kulmhof(Chełmno) 52°09'00.37″N 18°43'12.78″E
Majdanek(Lublin) 51°13'12.92″N 22°36'01.63″E
Plaszow bei Krakau 50°01'49.54″N 19°57'53.51″E
Stutthof 54°19'48.55″N 19°09'20.72″E
Mauthausen 48°15'25.85″N 14°30'04.99″E
Dachau 48°16'11.06″N 11°28'06.02″E
Buchenwald 51°01'21.82″N 11°14'55.32″E
Bergen-Belsen 52°45'30.50″N 9°54'24.04″E