参謀の父、シャルンホルスト
ゲルハルト・フォン・シャルンホルストと言う人は十八世紀から十九世紀初頭に活躍したドイツ、ハノーファーの人です。家は裕福でしたが平民で、父親は当時イギリス支配下にあったハノーファーで騎兵将校をしていたことがあり、軍人としての道を歩むことになります。
非常に頭の良い人で、軍事に関する論文や冊子をたくさん発行し、広く読まれ始めると、軍人より今で言うなら軍事評論家として有名になって行きます。
そんな彼の転機はフランス革命。砲兵士官としてフランス戦に参加した彼は、ニーメンという街がフランス軍に包囲された時、その街を救出に出動したある将軍に自分の作戦を伝え、自らその部隊を率いて戦いたいと志願します。
軍事の論客としては有名だった彼も軍の指揮官としてはまだ下層階級の大尉。将軍は決断します。やってみようと。結果、作戦は成功、部隊の一部を率いたシャルンホルストはその指揮ぶりも評価され、少佐に昇進しました。
その後、シャルンホルストはリクルートに打って出ます。自分を高く買ってくれる国の士官として出仕しようと。
これは彼が平民出身であり、どんなに頑張ってもこれ以上母国での栄達の道は閉ざされていたからでもあり、当時の軍制は各国とも傭兵主体だったことからです。1801年、彼は貴族にしようという条件を出したプロシア軍に参加しました。
そのプロシアの敵はやっぱりフランス。ナポレオンは既に執政となり、フランスの政治・軍事を指導する立場にもかかわらず軍を率いて前線を駆け回っていた時期。
シャルンホルストはプロシア軍の士官学校を任され、熱心に若手の指導を行います。この若手の中に後に「戦争論」を書くクラウゼヴィッツもいました。
フランス軍の強さは、当時各国が傭兵主体で軍隊を運営することに対して、国民、特に平民が軍の中核を担っていることだ、と見抜いていたシャルンホルストは、プロシア軍の改革にも手をつけますが、ここで大事件が発生します。プロシアのフランスへの宣戦布告でした(1805年)。
改革が及ばないままのプロシア軍は、進軍して来たフランス軍とイエナ・アウエルシュタットの戦いと呼ばれる合戦を行いますが大敗、敗走した軍は各地で投降、シャルンホルストも捕虜となります。
捕虜交換(双方重要な捕虜を交換する休戦行為)でプロシアに戻った彼は、崩壊状態にあった軍の再建に力を注ぎます。1807年アイラウの戦いで再びフランス軍と対戦、引き分けに持ち込むことに成功、その作戦指導を行った彼は勲章を授けられます。
この戦いの結果などで休戦となりますが、再びフランスと戦うことは必至です。シャルンホルストは同じ危機感を持つ仲間を集め、軍改革を急ぎます。片腕にグナイゼナウという優秀な士官を置き、クラウゼヴィッツも加わりました。
1808年、参謀本部の前身と言える「兵站総監部」を改編した「軍事総務局第二師団」が誕生、翌09年には軍は、今までの軍団より小ぶりな師団を中心としたものに生まれ変わります。ここに参謀を配置しフランスに備えますが、ここでまた大事件発生。
シャルンホルストの改革を知ったナポレオンはプロシアを警戒し圧力を掛け始めます。弱気な国王は改革を中止させます。更にロシアとの同盟を交渉するためシャルンホルストがロシアに行っている間、国王はフランスと同盟を結んでしまいました。
彼が一旦他国に亡命した後、ロシア遠征に敗れたナポレオンに対し、プロシアは同盟を破棄して戦い始めます。プロシア軍に三たび戻ったシャルンホルストは、軍改革を再開すると共に戦いにも参加、ある戦いで足を撃たれてしまいます。
ところが彼は安静にしなくてはならないところを、対フランスへの参戦を促す交渉のためオーストリアに向かいます。しかし傷が悪化、急死してしまいました。1813年没、享年57。
志半ばで倒れた彼の後を、右腕だったグナイゼナウが継ます。彼は傭兵主体の軍から近代的な国民徴兵の軍隊を育て、参謀を軍隊にはなくてはならないものとして行きました。
シャルンホルストの愛弟子、戦争論のクラウゼヴィッツは彼を父親と同等に愛し、グナイゼナウは言いました。「自分は彼のペトロ(キリストの使徒)に過ぎない」と。