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戦闘の原則まとめ・「戦闘ドクトリン」って何?

 さて、これまで九つの戦闘の原則を紹介しましたが、これは第一次大戦後、イギリス陸軍に勤務し、戦車戦術の先駆者だったチャールズ・フラーが、大戦での経験と古今東西の戦術を研究しまとめた「野外要務令」に初登場します。これを知ったアメリカ軍が応用、自分たちの教範「オペレーションズ」に採用したものが現在九原則と言われるものです。


 この九原則は第二次大戦後、米軍の強さを知った主要な各国軍が自分たちの教範に取り入れ、基本原則としています。

 東西冷戦と呼ばれた時代自由主義・共産主義両陣営の軍で同じ戦闘原則を旨としていた、なんてちょっと面白いと言ったら不謹慎でしょうか。


 しかし、お国柄は軍隊にもあるのは当然で、この九原則のどこに重きを置いているのかで特色が出て来ます。

 アメリカは「集中の原則」を発展させた「物量の原則」が、

 本家イギリスは九原則の他に「作戦の原則」が、

 ソビエト連邦は「殲滅の原則」が教範に出て来ます。


 アメリカは、物資の集中による物量で敵を圧倒すると考え、

 イギリスは、準備段階からありとあらゆる状況に耐え得る作戦を立て、敵を上回ろうとし、

 ソ連は、圧倒的な火砲の集中と人海戦術で敵を包囲殲滅する事を夢見ていました。

 お国柄が出ていますねえ……


 このような軍隊の基本理念、根っ子や柱となる戦いの方針を「戦闘ドクトリン」と呼びます。

 これは基本的に九原則を土台とし、その軍隊が置かれた国の状況、地勢、気象、そして国の主義などを考慮して練られた基本作戦術です。

 同じ戦場、同じ状況下でも軍によって戦い方が様々なのは、この戦闘ドクトリンの違いでもあります。

 まあ、一般には会社の社訓や社風のようなもの、と考えても遠からず、と言ったところでしょうか。同じ九原則を下敷きとしても色々な考えがあるものだなあ、と感心しますね。


 戦闘ドクトリンの違いは実際の戦闘に色濃く現れます。

 アメリカは物量の差で第二次大戦の敵、ドイツと日本を圧倒し勝利の要因としました。

 溢れんばかりの武器弾薬や食糧は、心理的にも米兵に余裕を持たせ戦闘を優位に運びます。正にドクトリンが示す通りの展開でしたが、これと同じ事を日本がやれと言われても不可能です。物量の原則は分かっていても当時のアメリカのような国以外は実施が不可能です。


 また、物資の大量投入は輸送力の戦いでもあります。同じ設計と簡易製造法で大量に建造された輸送船を、これも同じ大量生産タイプの護衛艦艇が幾重にも囲んで護り、前線へ物資を途切れなく運び続けました。

 対する日本は、本来は戦闘用の潜水艦や駆逐艦に物資を積んで夜間細々と運ぶ。輸送船は遊弋する米潜水艦と攻撃機に簡単に沈められてしまうからで、これでは必要量など前線に届くことはありません。前線の兵士は弾薬も乏しく、食糧が来ないので飢え、戦う事よりまずは飢えをしのぐことが常に頭にありました。これでは戦う前からハンデがあり過ぎます。


 確かに日本にとって物量を確保して前線に届けるには、太平洋の戦場は広大に過ぎ手に負えませんでした。ならば戦場を限定して自分の手に負える範囲で戦えばいい、と思いますが、そうはいかないのが当時の状況。鬼畜米英と敵をなじり、都合のよい情報(しまいには嘘だらけの大本営発表)しか与えられなかった国民。視野が狭くなった世論は、戦争に対して必然と諦めしか感じません。勝った勝ったと踊らされ、若者が召集されて行きました。


 当時の日本軍は極端な精神論の上に成り立っていて、物量や火力が劣っても敵より強い信念と果敢な「肉弾」で打ち破る事が出来る、そんな九原則を否定するようなドクトリンを生み出していました。

 これを戦場に立つ兵士に強いて、兵士たちは「お国のため」という漠然とした「目的」を胸に戦い、南海のジャングルや広大な中国で倒れて行きます。


 それだけでなく、物がないならばそれを大事にするという基本すら守らなかった日本。南方から運ばれる石油や軍需原材料、中国大陸から運ばれる食糧は必ず海を通らねばなりません。輸送船に積んで運びますが、これは敵の目標とされるのは当然です。

 米英はドイツのUボート(潜水艦)に苦しめられます。そのため護衛艦艇の大量建造を開始、次第にUボートを圧倒して安全を確保しました。

 今で言うところの「シーレーン」の防衛は島国なら最重点項目のはずですが、これを日本海軍は軽視し続けた。

 護衛艦艇より空母や戦艦を。直ぐに沈むような非力な船より頑丈で強い船を(つまり建造に時間が掛かる船を)。その結果は悲惨でした。

 不沈鑑など現代でもファンタジーでしかありません。戦艦大和ですら沈んだことは、多くの人命を失った日本が血まみれで得た教訓です。

 物がない国・日本は手に入れた物を運ぶ手段を護衛するという、単純明快な軍の姿すら軽視してしまいました。

 物量を重視するということは、このように兵士の命、ひいては国民を大切にする事でもあります。日本は人も物流も軽視したドクトリンで物量と戦い、文字通り玉砕してしまったのです。


 しかし三十年後、その物量の国アメリカも、東南アジアの大陸に沿って南北に細く伸びるちっぽけな国に敗れてしまいます。

 際限のない物量投入・最新鋭の兵器の数々は、生まれた故郷の独立を・家族を護るという明確で簡明な目的を持って戦う、裸足にパジャマを着て突撃銃を手にしただけの男女に敗れました。


 太平洋を渡り切ってやって来た若者たちは、「共産主義の南下拡張を阻止するために戦う」との「目的」を示されても、それがあの豊かなアメリカの町、ジュークボックスにコーク、大きな車にポップコーン、ダンスにロック、ジョークを言い合う愉快な人々を守ることにつながるとは、どうしても思えません。

 しかも「人道上から」(本当は朝鮮戦争のように中国がやってくるのを恐れたから)敵の本拠地を叩けない(「北爆禁止」)。

 アメリカは這々の体でこの国から手を引く、いや、放り出して逃げ出すしかありませんでした。


 これは第一原則「目的」の勝負、米側の目的がプライドに立脚した曖昧なものだったために起きた、という教訓でもあります。


 結局のところ、戦闘ドクトリンも戦闘の原則も机上の論理です。どんなに立派な作戦も「設計図」でしかなく、全てはそれを操る人間の質で決まります。質を高めるためには訓練しかありません。今日も軍隊や自衛隊は世界のどこかで訓練を続けています。

 

 さて、そろそろこの「戦闘の原則」紹介も終わる頃合いとなりました。では、最後に。


 国家が軍隊を保持する理由とは、自主独立のため、自らは自らで護るため、そして国家の威厳を広く外国に示すため、であると説明されることが多いようです。

 もちろん、現在の日本は戦争を放棄し軍隊を持たないという世界でも珍しい国家です。軍隊は存在せず、対外的な武力行使はこれを永遠に封印している状態ですから、「自らは自らで護る」事のみに特化した自衛隊という組織を持っています。


 この自衛隊すら「悪」と考える方々がいます。憲法違反の軍隊であると。しかしこの人たちも、まさか本当に軍備を全て排除すべき、と考えてはいないと思います(というか、思いたい)。


 国が軍隊(日本では自衛隊)を持たないと言うことは「素っ裸で犯罪多発地帯を深夜に歩く妙齢の女性に等しい」(本当はもっと禁止用語だらけだった気もしますが)とは随分と昔にどなたか失念しましたが偉い人が仰いました。乱暴ですが、これ以上の例えはないでしょう。

 もっと柔らかい言い方に換えると、国が軍隊を保持する理由は、国が歩むこの先「丘の向こう側」に何が待ち受けるのか分からないから、です。


 先ほど自衛隊を嫌う人たちのことを言いましたが、更に進んで、軍隊など要らない、とする人々が本当にいます。

 世界全体が軍隊を廃絶すれば、全て話し合いで解決出来て、人類は更に高みを目指すことが出来る、とか。

 ジョン・レノンが大好きな私は「イマジン」を拒否出来ませんが、もし彼が生きていて、私が話すことが出来たならこう言わざるを得ません。

 I say your thing as a dreamer. But, I am not the only one.

 と。


 性善論と祝福に満ちた「軍隊のいない世界」という考えは、それ自体とてつもなく美しいのですが、理想は現実に打ち消されます。全裸の若い女性の例えの如く、別の国に護ってもらうという体制もなく軍隊を持たないという事は、目隠しをして「丘の向こう側」へ行くこと、なのです。


 そして、戦争が嫌いだから軍事なんか知らなくていい、と言うのも民主主義国家の国民として無責任です。この国に生まれ、この国で暮らそうというのなら、この国をどう護るのか考えなくてはなりません。それがいやなら国を出るべきです。


 人間は残念ながら戦います。長い歴史がそれを証明しています。

 人はこの五十年間で突然賢くなりましたか?侵略的、拡張的野心のない国ばかりになりましたか?


 平和な時代に生まれて、喜び感謝するのは結構ですが、「丘の向こう」に隠れているかもしれない危機、戦争のことも考えなくてはならないのも冷徹な現実です。


 戦争論を書いたクラウゼヴィッツは「戦争とは三位一体である」と説きました。

 それを解釈すれば、一は国民、二は軍隊、三は政府、と言い換える事も出来ます。そのどれか一つが劣れば戦争に負ける。クラウゼヴィッツはそう言っている様にも思います。


 戦争は何もこちらから仕掛けるだけではありません。自分がどんなに気を付けていても事故に巻き込まれるのと同じ、貰い事故のような戦争の方が多いのです。


 先ほども言いましたが、平和を享受している我々は、民主主義国家である日本国の国民です。尖閣諸島を挙げるまでもなく、日本の周辺は穏やかとは言い難くなって来ています。

 しかし、戦う必要などありません。やることをやっておけばいいだけです。それは何か。

 

 それは軍事に関して目を背けないことです。平和は裏付けあってのこと。その裏付けは「軍隊(日本では自衛隊)」であると暗に言って来ました。そして、国民が自らの国を護るという行為に対し、興味を持たないことがどれほど危険であるか。あのちぇんばれん氏の一件を思い出して下さい。


 国民が軍事を知り、軍事力の意味を正確に理解する事は、周辺国への抑止としても働く事を決して忘れてはいけないと思うのです。



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