表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/36

戦闘の原則その九・「簡明の原則」って何?

 今まで八つの「戦闘の原則」を紹介しましたが、今回の九番目「簡明の原則」が最後となります。そしてこの簡明の原則こそが戦闘の原則中最も遵守が困難で厄介なものだと私は感じています。

 この原則を守り切れず敗れ去った軍隊、この原則により残り八原則を崩されてしまった将軍や軍師たちの実に多いこと!


 軍事における「簡明」とは、即ち「シンプル・イズ・ベスト」。この言い古された言葉が全てを表しています。


 指揮官の命令は部下が直ぐに実行(理解)する。

 作戦にあたり、自分は何をするのか兵士は全て心得ている。

 補給担当士官は連絡一つで必要な武器弾薬・補給物資を受け取れる。

 自分たちは何のために戦っているのか、兵士たちには一天の曇もない。

 こういう風に1+1=2というシンプルさ。

 これが簡明の原則です。


 簡明は単純に通じます。戦闘においては、この「単純さ」が肝要です。

 実に様々な人間や装置が組み込まれている軍隊では、この単純さがないと機動や主動、戦力節約や集中、指揮統一はおろか奇襲はおぼつかない。

 単純明解であることが、戦闘をスムーズに的確に勝利へと近付けるのです。そして軍隊は、常に簡明であろうとして兵士を訓練し鍛えるのです。


 さて、ナポレオン戦争の前後、ドイツの前身プロシア王国にカール・フォン・クラウゼヴィッツという軍人がいました。

 彼はプロシア軍の士官としてナポレオン戦争を戦い、戦後その経験を元に「戦争論」という研究書をものにしました。彼と同時代のジョミニ(ナポレオンの幕僚でした)が現代まで続く近代軍事研究の始祖というところですが、その戦争論に有名な「戦場の霧」というものが出て来ます。


 「戦場の霧」とはクラウゼヴィッツの言葉を簡単に言い変えると、

 「軍隊は戦場において、偵察や情報収集により敵を調べ動こうとするが、地形や気象、得た情報の時間的劣化などによって敵の動きを読むことは難しく、状況は流動的になる」

 というもの。ああ、まだ難しい!


 簡明の原則の項なのでクラウゼヴィッツさんには申し訳ありませんがもっと単純に言ってしまいましょう。

 つまりは「戦場では霧の中みたいに一寸先は闇」という事です。


 これは戦争に限らず、この先何が起きるか分からないのが世の常。

 一旦戦闘ともなれば、せっかくの立派な作戦も突然の雨や雪で台無しになったり、気まぐれな敵がこちらの思う通りに動かず(又は動き過ぎて)失敗したり。そして、考えると背筋が寒くなりますが、もし自分たちの軍隊が、その流動的な状況に付いて行けなかったとしたら……


 複雑な指揮系統で混乱した第二次大戦初頭のフランス軍の話は「指揮統一の原則」の回でお話ししました。

 あのガムラン率いるフランス軍は、優れた軍隊の対極にあります。


 では、優れた軍隊とは何か。

 それはずばり、様々な状況・想定外の状況ですら念頭において、突発的な事態に対処出来る様に訓練された軍隊です。

 勿論指揮官も状況判断と臨機応変な対応に優れていなくてはいけません。

 只でさえ何が起きるか分からず、突発的事態も予想される戦場では、このような臨機応変・柔軟な指揮と、とっさの命令変更にも迷わず素早く対応する部隊が絶対に必要です。


 ああもう、難しいですねえ。そんないかにもエリートそうな軍隊、簡単に作れるわけがない。お金も掛かりますよね。

 そう、難しいからこそ、軍隊の周辺は(構造も状況も)簡明でなければならないのです。物事が簡明であれば、ただでさえ大変な軍隊の運営に余計な負担を掛けないで済みますからね。


 この簡明の原則とは少し離れるかもしれませんが、ここで少し脱線気味に第二次大戦における日本軍、ドイツ軍と、アメリカ軍それぞれの軍用機開発の違いを述べたいと思います。


 第二次世界大戦(1939年開戦。ちなみに日本とアメリカの参戦は二年後の41年)。

 日本は軍艦や戦闘機に、ドイツは装甲車両や軍用機全般に世界水準のものがありました。

 日本のゼロ戦や戦艦大和、ドイツはメッサーシュミットBf109戦闘機にティーガーⅡ重戦車など、設計的にも技術的にも世界に誇れるものがあります。


 対するアメリカ。戦闘機は太い胴体に巨大なエンジンを積んだ無骨なものや、双発双胴やら、まるでグッピーのような姿をしたものなど。ズングリとしたシャーマン戦車や半軌式のハーフトラック(前輪がタイヤ、後輪部分がキャタピラーになっている)は美しさとは程遠い姿形。その性能も力任せと言うか、馬力こそあるものの、速さや性能は平凡なもの。


 軍艦に至っては全国の造船所で一斉に作られる同じタイプのものがずらり。特に護衛空母と言われる空母の一種はタンカーや商船と同じ設計図で作られていました。

 

 ドイツや日本が丁寧できちんとした作りで、デザイン的にも美しい兵器なのに対し、アメリカの兵器はどれも見劣りし性能の平凡さはその形にまで現れています。それでも勝つのはアメリカの方でした。


 これは今では誰もが知っての通り、アメリカと言う国の底力が理由です。最終的には原爆まで作り出す世界一の工業力と技術力、そして何より資源と資金。持たざる国日本はいわゆるABCD包囲網を突き破って南方へ打って出、資源を獲得しましたが、それを享受出来たのは最初の一年余り。ドイツもルーマニアの油田やスウェーデンの鉄鉱石などを利用しますが、それも爆撃が始まるとじり貧に。

 敵に侵攻される恐れのない、戦場から遙かに離れた広大な本土が生産拠点のアメリカ。かなうわけがありません。 

 

 少し視点がずれましたので戻しましょう。

 ドイツ空軍で戦時中に起きていた事を見てみます。

 

 今も昔も技術者というものは、何か新しい発明なり技法なりに強く惹かれるものです。それは戦争中も変わらず、それが災いとなることもあります。ドイツは正にそれをやってしまいました。

 戦争中だと言うのにライバルに打ち勝とうと不毛な開発競争をする航空機メーカー。それに仕える設計技師たちは競って最新の研究を反映させる航空機の設計をする。今必要な物ではなく数年、いや、数十年先を夢見るような機体が次々と設計されます。作ろうにもまだまだ基礎的な研究を繰り返さなくてはならぬ代物ばかり。その技術と発想は大変素晴らしいのですが、残念ながら今、戦争中なんです。そんな暇と金があったら、すぐに使える物に集中すればいいのに……


 この状況を注意すべき空軍の技術部門もひどかった。せっかく出来上がった試作にあれこれと注文を付ける。やれこの武器をつけろ、急降下も出来るようにしろ、エンジンをもっと大きい物と変えろ、別の用途にも使える機体を作れ、等々。すると最初に出した注文があれよあれよという間に膨らんで、完成は遅くなるし、予定と違うものを作るチームが増えたりで、資材も人材もどんどん足りなくなる。

 せっかく起死回生になりそうな世界初の実用ジェット戦闘機に対し、総統のヒトラーが「爆弾を積めるようにして爆撃機として使え」との指令を出した時、それを聞いたある将軍が「馬を牛と呼べとでも言うのか!」と怒った、というエピソードが全てを表している気がします。

 

 この、上層部が色々と注文を付けて、という図式は何もドイツの特許ではなく、日本も全く同じでした。

 最初の要求通り新型機を作れば、この装置を載せろ、爆弾の量を増やせ、機体を頑丈にしろ、エンジンは積み替えろ、等々。設計変更や材料変更で、一刻も早く完成させたい新型機がなかなか完成しない。そうこうしている内に国内にもアメリカの爆撃機が。工場が被災し、生産は遅れるばかり。そこへ更なる要求、と悪循環。その果ては特攻でした。


 最初に決めた性能要求が、いつの間にか雪だるま式に膨らんでにっちもさっちも行かなくなる。これはドイツと日本に共通する兵器開発の暗闇でした。


 対するアメリカ。こちらも上層部は言いたい放題で、技術者も空想を弄びます。しかし、共通してひとつの考え方がありました。それは「性能は平凡でも構わないので直ぐに完成し、誰でも組み立てられ、容易に使いこなせる兵器」を生み出す、という共通理念。日本やドイツが兵器開発を複雑怪奇にしてしまったこととは対照的に、実に明快で直接的な考え方で兵器を送り出して行ったのです。単純なものは作りやすく整備しやすい。大量に配備され、壊れたものは直ぐに新しいものと交換出来る。そういうシステムを構築して行ったのです。


 そう、これも「簡明」なんですね。

 閑話休題。


 突発的事態に対応するのには時間が大事です。突発事態を収拾出来るか否かは、出来る限り素早い判断と行動力が鍵となります。

 その対応の邪魔をするものの中で一番厄介なものは「複雑さ」です。

 最初から複雑さを取り除き簡明に仕上げておけば、そのいざという時に威力を発揮する。物事が簡明である、ということは軍事的に成功するために最も重要な基礎となるのです。


 ところで、十九世紀前半に戦場を駆け抜けたクラウゼヴィッツさんが見た「戦場の霧」は、二十一世紀の現代では、無人偵察機や偵察衛星、通信傍受解析、三次元レーダーや各種センサー類など、様々なハイテク兵器で随分薄くなった様に見えます。

 現在では闇夜や暴風雨、深いジャングルや山脈、砂漠などの気象地象や、発煙にカモフラージュや迷彩(そうそう、例え攻殻機動隊の光学迷彩が発明されても)などの人工的な目くらましはセンサー兵器の活用で全く無駄に終わる。

 1991年の湾岸戦争では、米英軍の赤外線センサーや暗視装置により闇夜や砂漠の穴に潜んだイラク軍の大戦車部隊が壊滅しました。もう、人類の戦場に「霧」は立ちこめていない様にも思える。

 

 いや、それでも未だに戦場には霧があるのです。解決しない霧の正体。それは「人間」そのものです。

 気まぐれで、優柔不断で、行方の定まらない人間の思考を正確に読みとる思考偵察装置はまだ開発されていないようです。


 更に人間はとんでもないこともします。それが「ヒューマンエラー」。

 これだけは人間が戦う限り消えない霧なのでしょう。

 おあとがよろしいようで。


こぼれ話


戦闘機パイロットはつらいよ


 第二次大戦当初、ドイツも日本も空軍(日本は海軍や陸軍の航空隊)は精悍でした。鍛えられた航空兵がずらりと揃い、機材も世界的に優秀で立派。特にの戦闘機パイロットはトップクラスでした。

 それが戦いが進むに連れ、どんどん質が悪化する。しまいには飛ぶのがやっと、というパイロットだらけとなってしまいます。


 逆に米軍。最初のうちこそいいカモでしたが直ぐに侮れなくなり、尻上がりにパイロットの質は向上。やがては機材も頑丈でなかなか撃墜出来ないものが出て来るし、パイロットもみんな平均以上の技量でどんどん敵を撃墜するようになる。

 どうしてか?燃料の質の問題や機材の製造量なども大きな理由ですが、そこには実に当り前の構造がありました。


 戦争が始まると日本もドイツも精悍なパイロットをどんどん激戦地へ送る。当たり前ですが、優秀なパイロットであっても油断や不運もあったりします。

 ベテランも人間です、疲れるしヘマもする。そして戦死。一部の「スーパーエース」だけが残って行く。すると補充にやって来るのは新米たち。その中で勘所と運の良い者は残りますがほとんどが最初の一ヶ月で戦死してしまう。

 戦闘機パイロットとは過酷な商売なのです。


 やがて戦況が劣勢となり、本国も爆撃され始める。すると戦闘機パイロットは本国も守りながら激戦場でも戦わなくてはならない。当然数が足りなくなる。

 そうなると、前線に早く送り出すため、新人の教習時間が短くなる。短くなって戦場に出るからますますカモにされる。その先は言わずもがな。


 では米軍は何故尻上がりによくなっていったのか。

 米軍はまず、質を数で補います。ゼロファイター(ゼロ戦)が強いのなら一機に対して三機でかかれ。これ、ランチェスターの法則を忠実に守ったものです。

 この数を揃えられる(機材も人も)ところがアメリカの凄いところ。しかも戦争に志願する若者は、ほとんどの者が車の運転が出来た。当時の日本ではあり得ないし、ドイツもそこまでは無理でした。

 車の運転が出来た(当時の車はオートマなんかないし、ヤンキーたるもの車は自分で手入れするのが当たり前)という事は多少機械には強いところがあるし、飛行機を習うことにだって最初から差が出るのは当然です。


 広大で安全な大地で、素養がある健康な男子をみっちりとしごく。そして戦場ではしっかりローテーションを守って戦場からパイロットを帰還させ、一部の者は教官として新人に当たらせる。

 教官として後輩を育てながら休息もしっかり出来たパイロットは、満を持して戦場に戻ります。また、一定以上の成績を上げたり、一定数の任務をこなしたパイロットは「引退」させ、指揮官や幕僚として地上勤務へ回す。


 これを繰り返し四年もやれば、一定の技量を持ったパイロットがざらにいることになるのです。


 戦闘機パイロットは育てるのに時間も金も掛かるから大事に使う。そのためにローテーションで入れ替え、後方では次のパイロットを時間を掛けて育てる。

 これをやれたかやれないか、の違いが米と日独です。


 悲しいかな、これはエース(撃墜王)の成績に表れます。

 ドイツ空軍のトップエースはE・ハルトマン。撃墜数はなんと352機でした。2位のバルクホルンも301機で、300機以上を撃墜した人物は史上この二名だけです。100機以上もざらで、ナチス時代のドイツは世界の撃墜王の上位を独占していました。

 日本では海軍の岩本徹三が200機以上を主張しています。話半分にしても多分、日本のトップエースと思われます。続く西沢広義が87機、陸軍の上坊良太郎が76機と言われます。「大空のサムライ」の著者で日本の撃墜王と言えばこの人、坂井三郎氏は64機と言われますが、これは「ムサシ」に引っかけた英訳者の創作らしく、実際は最大で80機前後らしい。


 対する連合軍。トップエースはソ連のコジェドゥブで62機、僅差でポクルイシュキン59機。

 イギリスは南アフリカ出身のパトルが35~50機以上(戦死直前の記録が残っていないため)。公認ではジョンソンの38機が最高。

 そしてアメリカはボングの40機がトップ。マクガイアの38機が続きます。


 いかにもドイツや日本が凄いパイロット揃いだった、と思われてしまいそうですが、これは先程の理由、日独の生き残ったベテランが凄みを増して行き、連合軍の平均技量以下のパイロットの操縦する軍用機を落として行ったことが大きな理由です。

 連合軍側はソ連を除いてベテランを大事にして後方に下げてしまったので、もし、逆の立場だったらパトルやボングなども100機を軽く上回っていたのではないでしょうか。


 そう、この数字は栄光に輝きますが、悲惨で最悪の状況の中、疲労した身体に鞭打って飛び続けた日独パイロットの悲しい記録でもあるのです。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉妹作品「プロシア参謀本部」編はこちら↓クリック!
a9e9b56d0d3512b0b8fac31d408c761c.jpg?ran

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ