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戦闘の原則その八・「奇襲の原則」って何?

 奇襲。

 敵の予期しない方法、時期、場所に対し、敵の虚を突いて行われる攻撃。敵に反撃する余裕すら与えず完敗させれば大成功。通常、その秘匿を絶対条件とするため敵に動きを悟られぬよう、敵より相対的に少数で行われる事が多い。少人数で多数を圧倒するから鮮やかで華々しく、成功例は後世までの語り草となって、その指揮官や軍師・作戦参謀は英雄として讃えられます。


 「日本三大奇襲」と言うのもあります。

 北条氏康が七倍の敵、上杉・足利連合を打ち破った河越夜戦。

 毛利元就が五倍の敵、陶晴賢軍を破った厳島の戦い。

 そして織田信長の桶狭間です。

 どの合戦も、勝者は敵(総数比較。「集中の原則」参照)より少数で不意を討ち、敵を大混乱に陥れました。その勝者、どれもがその後別の敵に破れ去っているのも戦国の世の常。諸行無常の響きあり、ですか。 


 現代では一般人でも知っているこの「奇襲」と言う言葉。みなさんは最初に示した「敵の予期しない方法、時期、場所」で行う攻撃、として認識されていると思います。これを軍事面からもう少しだけ掘り下げて見ましょう。


 まず、奇襲は何も人間だけが行うものではない、と言うこと。人間対人間の戦闘、他に何があるんだ、と思われるでしょうか。

 一番有名な例を上げれば「神風」。特攻隊の事ではなく、元寇を失敗させたあの暴風です。そう、神風は元軍が「思いもしない」「不意を突かれた」自然の「攻撃」とも言えるのです。

 同じ例に、ナポレオンやヒトラーのロシア征服という野望を挫いた「冬将軍」というのもあります。この冬「将軍」、実に言い得て妙な命名だと思いませんか?


 第一次大戦、膠着状態となったドイツ対イギリス・フランスの塹壕戦に突如現れた鉄の怪物。

 史上初めて戦車が現れたカンブレの戦い。イギリス軍が投入した戦車は、陸軍上層部の無理解により奇襲要素が薄まり中途半端な使い方をされ、カンブレでは大した成果もなく終わりましたが、相手にしたドイツに底知れぬ衝撃と影響を与えます。

 戦車の登場は独軍兵士の恐怖心を煽り、長々と続く戦争への厭戦気分は一気に高まりました。自分たちが持っていないものが敵にはある。これほど士気を挫くものもありません。これがドイツ革命・大戦終結へとつながった、と言う人もいるくらいです。


 前者、神風や冬将軍は「自然の奇襲」とも呼べるもので、後者の戦車は「技術的奇襲」と言われます。機関銃、戦闘機、ミサイル、潜水艦など近代兵器の初登場時、相手はさぞ驚いたと思います。


 また、奇襲は狭い意味の戦術的奇襲と、もっと上位の戦略的奇襲にも分けられます。

 戦略的奇襲の例としては後で取り上げるハンニバルのイタリア襲来、真珠湾(宣戦布告文書を渡す前に始まってしまった)や第二次大戦のドイツによるソ連侵攻「バルバロッサ作戦」が挙げられましょう。

 まあ、第二次大戦の事例は、どちらも不意討ちと言うか騙し打ちと見られていて、良い印象がありませんね。


 さて、このように決まれば効果絶大の奇襲ですが、色々な条件と運も味方にしなければなりません。

 軍関係者が栄誉を夢見る「かたち」は簡単には決まらず、やはり今まで語って来た戦闘の原則をきっちり守った上での成功です。

 言わば「奇襲の原則」とは戦闘の原則の集大成、成功の原則なのです。


 奇襲の成功例の中でも史上有名な例を上げましょう。

 紀元前218年。場所はイタリア半島の北にそびえるアルプスです。


 ローマの宿敵、カルタゴのハンニバル・バルカはローマ人が備えていた場所ではなく、信じられない場所から現れたのだった。


 ハンニバルはローマの宿敵、アフリカ北岸、現在のチュニジアにあったカルタゴの貴族。父はローマ相手の戦いでローマ人を憎み、その憎しみを受け継いだのがハンニバルだった。


 彼は父に従ってイベリア半島、現在のスペイン南部をカルタゴの植民地として経営する。この時の中心地が新カルタゴ「カルタゴ・ノウァ」、現在のカルタヘナ付近。

 ハンニバルはこの地でローマへの侵攻を着々と準備したのだった。


 当時の兵士はほとんどが傭兵で、現地で補充召集するのがカルタゴの流儀だった。ハンニバルの周りには信頼出来るカルタゴ本国人の他に、アフリカから連れて来た獰猛で優秀な騎兵ヌミビア人や現地召集のスペイン人などが集まり、その数九万。ついにローマ目指して出発する。時にハンニバルは三十に届くか否か、という年齢だった。


 ピレネー山脈を越えると、そこはガリアの地。深い森が広がっており、ピレネー越えに気付いたローマ軍の先鋒も直ぐにカルタゴ軍を見失ってしまう。

 獰猛な戦士の集団だったガリアの原住諸部族は、このアフリカからやって来た大部隊にも恐れることなく攻撃を加えるが、戦慣れしたカルタゴ軍はこれを制圧、その後で金品を与え、「ローマ人と戦えば戦利品が山のよう(?)」などと言葉巧みに誘って、逆に戦列に加えて行く。


 やがてハンニバルは大河ローヌ川を渡河するが、ここで大量の犠牲者を出してしまう。この時代、軍隊の大河渡河は危険な冒険だったのだ。それ以前に離脱したスペイン兵なども数に入れると、ここで当初の六割にまで人員が減ってしまった。


 ここでローマのカルタゴ軍捜索隊はカルタゴ騎兵を発見、戦闘が発生する。しかし付近にいたローマの執政官が駆け付けた時には、ハンニバルは渡河を終えてアルプス方面へと行方をくらませてしまっていた。

 だが、ローマ人たちは慌てなかった。ハンニバルはこのガリアの地で傭兵を募った後にイベリア半島(スペイン)へ戻るに違いない。北方からの大軍侵入にはアルプス山脈が障害となる。それでもやって来るとしたら海岸沿いの街道しかなく、ここでなら簡単に防ぐことが出来る、と。


 しかし、ハンニバルはローマ人が考える常識など持ち合わせていなかった。彼は目の前にそびえ立つアルプスの山々をにらんでいた。


 この時代の、言わば現代の戦車にあたるものが戦象。飼い慣らしたアフリカ象を敵の戦列に向かわせ暴れさせるという代物。

 ハンニバルはこの戦象30頭と、ガリア人たちを加えた兵士四万名余りを率い、果敢にアルプス越えに挑んだ。

 当時のカルタゴはローマと正面から戦える力も金もなかった。だからたとえ補給が楽に行えてもイベリア半島では長く戦えない。イタリア半島に殴り込みをかけるしか勝機はなかった。アルプス越えに全てを賭けたのだ。


 ハンニバルは渋る部下やおびえる兵士たちを鼓舞して、九月、山に挑む。

 隘路では崖から象ばかりでなく兵士も落下する。こんな山中でもガリアの山岳部族が襲って来る。雪も降り、食糧も乏しい。不案内な土地で、やむを得ず信用出来ない現地民を道案内に立たせれば、カルタゴを敵視する部族の待ち伏せ場所まで案内されてしまう、ということもあった。


 急坂で重装備を捨て、命知らずに岩を登った。際限なく続く山道と山岳部族との戦い。そして低温と雪という自然の猛威の前に、脱落者と死傷者が続出、兵力は見る見る減って行った。精悍だったカルタゴ本国兵たちも衰弱する。何しろ雪など見たことがないアフリカで育った人間たちなのだ。それでも彼らはハンニバルを信じて、黙々と山道を進んで行った。

 そして苦難の十五日が過ぎた後。

 最後の峠を越えたハンニバルの目の前に、太陽に燦然と輝く大平原が広がっていた。イタリア半島北部のポー平原だった。


 その時の兵力、およそ二万六千名、戦象三頭(諸説あり)。

 しかし犠牲の甲斐はあったのだ。ローマ人は完全に奇襲され、カルタゴ軍を阻止しようと動いたローマ軍はイタリア北部で立て続けに敗北する。

 ローマ人は決戦を急ぐ余り、兵力を逐次投入するという愚を犯した。そしてハンニバルの優秀な戦術、苦難の末に鍛えられた精強なカルタゴ軍、それらが生み出した当然の結果だった。


 こうしてイタリア半島はアフリカからやって来た宿敵に蹂躙された。ハンニバルの名を現在まで響かせる第二次ポエニ戦争は始まったばかりだった。


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