戦闘の原則その七・「警戒の原則」って何?
今までご説明した六つの原則、目的・主動・集中・戦力節約・機動・指揮統一は、どちらかと言えば攻撃側が守るべき原則と言えます。今回の「警戒の原則」は特に守備側が心得るべき原則でしょう。
戦闘の原則は、経済や政治にも応用される原則ですが、この「警戒の原則」ほど民間に通じ、言うは易し行うは難し、のものはありません。
警戒とは辞書等では「危険や災害に備え、予め注意、用心すること」とあります。軍事に置き換えると、危険(仮想の敵自体)や災害(敵に攻められる条件の発生)に備え注意(情報収集)、用心(防衛力の整備や訓練)すること、になります。
さて、これを聞くと、何か近年耳に痛いことが有りませんでしたか?
「地震による津波に備え、事前研究や発電所の安全対策や訓練をしておく」
福島の事例はまさにこれ「警戒の原則」を怠ったから発生した人災です。あの津波は想定外だった、と関係者誰もが口を揃えました。この「想定外」という言葉。何かの災害が起きる度にお題目としてお役人なり責任者の方々なりが唱えていらっしゃる。「あなたたちもこんな凄いの想像も出来なかったでしょう?だから私に責任はありません」ということなんだと思いますが、これ、一昔前、特に独裁国家の軍人ならば銃殺刑です。
こういうのは、軍事的に見て最低の危機管理。どんな事態であれ、国が攻められお手上げになってしまう様なら、軍隊みたいな高価な金食い虫は要らないないのです。
そう、軍では「想定外」などという言い訳は許されません。それを言った時点で「私は無能です」と言っているに等しいからです。無能な軍人など危険なだけですから。
普通に出来る軍人さんは、常に異常事態・突発的事態に備えている。そのための事前研究、過去の失敗研究を怠らず、情報収集や訓練に励みます。
平時の軍に課せられた任務とは、これらを集約した「警戒の原則」を極める事に尽きると言っても過言ではないでしょう。災害救助は突発事態の訓練でもあるのです。
昨年の3.11で自衛隊は世界の軍事関係者が驚く素早さで救難救助部隊を被災地に展開させました。米軍のトモダチ作戦も素早い展開力でさすが、と思わせましたが、自衛隊の行動力も決して負けてはいませんでした。これは大いに誇っても良いと思います。
惜しむらくは、政府がもっとしっかりしていたら、もっと早かったでしょうね。そう、彼ら自衛隊は自分の意志だけでは動けないのだから。
さて、その頃にロシアや中国が盛んに艦船や航空機を日本周辺に航行、飛来させていた事は余り知られていないようです。
彼らは日本の領海や領空ギリギリまでやって来ては暫く居座って帰って行く。今の尖閣周辺海域さながらです。
そんなに暇なら助けてくれてもいいのに?イヤイヤ、彼らは彼らで大忙しだったのです。
非常事態で軍が動く。特に自衛隊は災害時以外はこんな大規模な動きはしませんから、ロシアや中国にとって格好の情報収集のチャンスだったのです。そう、彼らは警戒の原則に従って情報収集を盛んに行っていたのです。もしも逆の立場だったら……自衛隊はあそこまで出来たでしょうか?いやいや、能力はあっても露中の様には無理でしょうね。
それに関してはこんな事例もあります。
北朝鮮が「人工衛星」を打ち上げた時。いち早く発射を察知した米国は日本にも知らせました。が、日本国民が知らされたのは失敗したロケットが破壊落下した後。
これは政府の無能を示す一例ですが、実は自衛隊の早期警戒部隊も米軍並に速く察知していました。情報も政府に上げましたが……
警戒の原則は軍単体だけでは絵に描いた餅。餅が本物になるには実権を握る者が情報を活用し、有効な対策を素早く実施しなければなりません。
この原則は予防面だけでなく、実際に事が起きている時にも働くからです。混乱の中でも注意を怠らない、これは平時でしっかり出来ていたかに掛かります。
警戒を怠った結果、何が起きたのか。
桶狭間の今川義元と本能寺の織田信長。
真珠湾の米軍とミッドウェイの日本軍。
1940年5月アルデンヌの仏軍と1944年12月アルデンヌの米軍。
その未来に2011年のフクシマが連なる。
今こそ「警戒の原則」を胸に、「想定外」と言う言葉を言い訳にしない心構えをするチャンスなのかも知れません。
こぼれ話
ドイツ・アフリカ軍団が強かった裏の理由
第二次大戦時、米英連合軍には強い味方がありました。
米英政府とも通信傍受に力を入れ、優れた学者を動員しドイツや日本の暗号を解読、諜報網を駆使して情報を集め分析、戦略を定める上での参考としていました。
この最高機密情報を「ウルトラ情報」と呼びます。
ところで、1941年早春から活躍したドイツアフリカ軍団と通称される軍があります。有名なロンメル将軍に指揮され、後に肩を並べて戦ったイタリア軍と共にもう少しでエジプトを征服する所でした。
しかし、その実体はお寒い限りで、常に敵イギリス軍よりも装備・人員数で劣り、劣勢は間違いありませんでした。
ところが、歴史はロンメルの勝利話で溢れています。
当然、作戦面でのロンメルの手法や指揮が敵の指揮官より優れていた事にもなるのですが、それだけで強力な英連邦軍(イギリス本国軍だけでなくオーストラリア、南アフリカ、インド、ニュージーランドからやって来た軍隊が多かった)に勝てるわけがありません。
一つには先ほどのウルトラ情報が当初役に立たなかった、という面があります。
英軍側はロンメルがドイツ本国やイタリアから受ける命令や情報の通信を傍受し、暗号もほぼ完璧に解読していました。ロンメルもドイツ軍・政府もそのことに気付きません。英軍はこの情報でロンメルが次に取るであろう行動を先読みし、軍の配置や補給計画などを練りました。
ところが、先読み通りになったことなどなく、ロンメルは彼ら英軍上層部が泡を食うほど大胆不敵に行動します。完全に裏をかかれて敗北を繰り返すこともありました。
この理由は二つあります。
一つはロンメルの独断専行。彼はドイツ軍上層部を占めた貴族出身でなく、友達も少なかった。ぽっと出のロンメルの事を密かに嫌っていた人間も多かった。しかもヒトラーと個人的につながって「えこひいき」されていましたから、妬まれもします。そんな彼の方も上の人間は現場のことなど何も分からん、と小馬鹿にし、命令無視や情報無視を繰り返していたのです。
これでは英軍が敵上層部の考えを知っても、偽の情報を流してもうまく行くわけがありません。
もう一つの理由は、連合軍側も知らない情報の存在と、ある部隊の活躍です。
カイロのアメリカ大使館に所属していた米軍武官の通信が暗号解読され、ドイツ側に筒抜けでした。これには英軍の動きや作戦も報告されていたので、この情報はロンメルにとって大いに参考になりました。
更に、アフリカ軍団所属の無線傍受部隊の存在。この部隊はアフリカ登場以来、英軍の部隊間通信を傍受しまくって、通信量の増大や方向などから敵の動きや位置を正確に突き止め、ロンメルを助けていました。
ところがロンメルは、1942年6月から7月にかけてこの二つの情報網を相次いで失う事態となります。
まずはカイロの米軍武官が異動で本国に帰ってしまい、同時に暗号も変わってしまいます。これ以降、情報は入って来ませんでした。
通信傍受部隊の方は、折からの英軍の攻勢で劣勢に立ったイタリア軍戦線に増援として送られ、そこで本来の任務でない戦闘員として戦わされてしまいます。結果、戦線は維持出来ましたが無線傍受部隊は影も形もなくなっていました。
優秀な無線操作や傍受、通信解読や通信量からの推理などはプロの技。貴重な人員を使い消耗してしまったドイツ軍は、こうして自分たちの「耳」を失いました。
そして補給難や英軍の防戦強化でさすがのアフリカ軍団も停滞すると、今度はロンメルも大胆不敵な行動が取り辛くなります。結果、本国の情報や指令を受けざるを得なくなり、ウルトラ情報がロンメルの行動を示すようになると、英軍は逆襲して行きます。
これらも警戒の原則が重要であるというエピソードと言えそうです。