「私ね、女王になりたいの」
「私ね、女王になりたいの」
それはある日の午後の事だった。
学園の中庭。少し奥まった場所にある小さなガゼボにて。
のんびりと本を読んでいた俺の向かいに座ったノール第一王女殿下はにっこりと笑った。
「……はあ、なればいいじゃないですか」
ノール王女の言葉を聞いた俺はそう答えた。
「まぁ、ヴィクト様。女王になるのってそんなに簡単じゃないのよ」
ノール王女はふふ、と笑った。
「この国で女性が王位を継いだのは、過去にたった二例しかないの。どちらも男系が完全に絶えた場合よ。どれだけ優秀でも男の血縁者がいる限り、女性の継承順位は後回しにされてきた」
「……まあ、そうですね」
歴史的に見れば当然の話だ。この大陸において、女性君主が誕生する条件は極めて限られている。
議会の承認、貴族の支持、軍部との関係、宗教的な権威。どれ一つ欠けても王位は遠のく。
男性であれば血筋だけである程度押し通せるそれらを、女性は全て実力で埋めなければならない。
「私には弟がいるの」
「……存じております」
「宮廷ではもう次期王は弟っていう雰囲気が出来上がりつつある。ただ男の子というだけで、そういう空気になっていくの」
「……」
「ね、理不尽だと思わない?」
「まぁ……思います」
「だからね、私考えたの。まずは貴族の支持が必要だわ。でも古い家ほど女王に懐疑的。そこを崩すには実績が要る。問題は……実績を積むための機会そのものを与えてもらいにくいこと」
俺はページをめくりながら口を開いた。
「……宗教側はどうですか。先代の枢機卿は女王容認派だったはずですが」
「今の枢機卿は中立よ。ただ……まだ取り込める余地はあるわね」
「なら宗教側は後回しでいい。先に軍部を押さえる方が重要です。北方の司令官、あの人は実利主義で知られていますから、条件次第では……」
言いかけて俺は口を閉じた。
なぜ俺はこんなに熱心に話しているんだ。
「……失礼、余計なことを」
「ねえ」
声のトーンが変わった。
「私、貴方が欲しいわ」
俺は反射的に顔を上げた。
「旦那様として」
「……え」
「貴方には野心がない。プライドもきっとそんなに無いでしょう。でも頭はすこぶる良い」
「……」
「去年の学園祭。予算の配分も、スケジュール管理も、当日の動線設計も、全部副会長の貴方が組んだわよね。会長は当日壇上で挨拶しただけ」
「い、いえ。あれは会長が中心になって」
「会長は何もしてなかった。貴方が全部やっていた。私、ずっと見てたもの」
反論はできない。まあ事実だ。
生徒会長はプライドが高く目立ちたがりで、しかし実務能力に難がある人間だった。
そこへ侯爵家の縁で生徒会に入った俺が、表には出ず、会長を立てながら裏で全ての実務を処理し続けた。誰にも気づかれないように。そのつもりだった。
「貴方の家の話も少し聞いたわ。なんでも長男と次男が家督を巡って随分やり合っているって。でも三男の貴方はうまく距離を保ってきたようね」
「それは……」
「どちらにもいい顔をしながら、どちらにも加担しない。それって相当難しいことよ。うっかり片方に肩入れしたように見えた瞬間、もう片方の標的になる。それをずっと回避し続けてきた」
どこまで知っているんだ、この王女は。
「私が必要なのはね」
ノール王女は微笑んだ。
「私の野心に乗っかって暴走するような人じゃないの。かといって言われたことしかできない人でもない。私が動く時に、一歩先を考えてくれる人」
それから、少しだけ声のトーンが柔らかくなった。
「貴方みたいな人が旦那様だったら、私、やっていけると思うの」
それは、あまりにもあっさりとしたプロポーズだった。
ノール第一王女は完璧な王女だ。社交の場では常に隙がなく、誰に対しても柔らかく正しく振る舞う。弱音は一切見せない。感情を乱さない。
でも今この瞬間、彼女は少しだけその仮面の下を見せている気がした。女王になりたいという言葉の重さ。理不尽に対する静かな怒り。そして俺に対する真剣な眼差し。
……俺は今まで面倒なことから距離を置いて生きてきた。家督争いには首を突っ込まない。学園では目立たない。卒業したら家のコネで入れるだろう王宮のどこかで、文官として生きていけばいいと思っていた。
ただ。
目の前の王女が本当に女王になるなら。
あの瞳に宿っている炎が本物なら。
そして、夫という特等席からそれを見届けることができるなら。
「……俺を夫にして、後悔しませんか。俺は侯爵家の三男ですよ。表に出たくないし派手なことも苦手だし、基本めんどくさがりです」
「存じているわ。でも、貴方のことを調べれば調べるほど、一緒に歩きたいって思うようになったの」
「……俺のどこがそんなに」
「全部」
即答だった。
「誰も見ていなくても丁寧に仕事をする。損な役回りでも文句を言わない。それでいて、ちゃんと自分を守る術も知っている」
少し間を置いてから、静かに言った。
「そういう人間が私は好きなの。だって一番信用できるから」
信用。
「女王になりたい私の隣に立ってくれる人には、野心じゃなくて信用が要るの。ヴィクト様、貴方は私が今まで見てきた中で、一番信用できる人よ」
俺は黙った。返す言葉が見つからない。
視線をどこに向ければいいかわからなくなって、結局手元の本の表紙をじっと見つめた。
「……。女王になれますよ、貴方なら」
口から出たのはそんな言葉だった。
ノール王女が目を瞬いた。
「……なぜそう思うの?」
「理不尽だと怒るんじゃなくて、どう勝つか考えてる人間だからです」
「……」
「貴方の野心は、国を変えられる」
ガゼボに風が吹いた。
「そういう人間が上に立った国を、俺は見てみたい」
ノール王女はしばらく俺を見ていた。
そして静かに口を開いた。
「……手伝ってくれるの?」
「ええ。俺がその手伝いをしますよ」
ノール王女は静かに微笑んだ。
さっきまでの完璧な王女の笑顔じゃない。力の抜けた、素に近い顔だった。
ガゼボの外で夕陽が傾いていた。橙色の光が白い柱を染めて、風がもう一度通り抜けた。
静かな文官生活という夢が、穏やかに、しかし確実に書き換えられていった。
そんな午後の出来事を、俺は一生忘れないだろう。




