第五話 残り一席
「残り一席」
名簿の端に書かれたその言葉は、消えない。
擦っても、光にかざしても、消えない。
鉛筆の薄い線なのに、どうしても目に入る。
私は受付台に名簿を置き、式場を見渡した。
椅子は十五脚。
間隔も整っている。だが、最前列の端に、微妙な余白がある。
一脚分。
置こうと思えば置ける。置かなければ、少し窮屈。
私は倉庫の扉に手をかけた。開ければ、予備の椅子がある。
持ってきて、そこに置く。十六にする。
そうすれば、落ち着く気がする。
「……違う」
私は手を離した。椅子は十五でいい。
参列者は十五。確認済みだ。
自分に言い聞かせる。そのとき、受付台の電話が鳴った。
内線だ。表示は「式場内」。
ここにいるのは、私だけだ。恐る恐る受話器を取る。
「はい」
ノイズの向こうで、低い声がする。
「本日、参列予定は何名ですか」
喪主の声だ。私は答える。
「十五名です」
一拍の沈黙。
「全員、来ていますか」
その問いは、これまで私が何度も繰り返してきた言葉だ。
「……はい」
言いかけて、止まる。本当に、全員か。
「確認をお願いします」
電話が切れる。私は名簿を開いた。
十五名。
丸は十五。
だが、最後の丸が、少し滲んでいる。
ペンで塗り直そうとした瞬間、丸がひとつ増えた。
十六個。
私は目をこする。十五に戻る。
私は式場中央に立ち、椅子を数える。
一、二、三……。
十五。
もう一度。
十五。
背後で、椅子が擦れる。振り返る。
最前列の端に、椅子が置かれている。
十六脚。
私は息を詰める。さっきまでなかった。
確かに十五だった。私はゆっくりと近づく。
その椅子の上に、名札が置かれている。
白いカード。黒い文字。私の名前。喉が鳴る。
「……違う」
私は名札を取り上げる。手の中で、冷たい。
裏を見る。数字が刻まれている。
「16」
背後で、拍子木のような音が鳴る。
通夜で使ったものだ。式場の奥から、読経の声が流れ出す。
低く、重く。誰もいないはずなのに。
私は椅子の前に立ち尽くす。
座れば、終わる気がする。座らなければ、何かが起きる。
名簿をもう一度開く。
十五名。
その下に、小さく書き足されている。
「受付 確認済」
私の名前。横に、濃い丸。その丸が、じわりと広がる。
インクが滲むように。椅子が、一斉に軋む。ぎい、と。
十五脚が、同時に少しだけ前に滑る。
まるで、誰かを迎え入れるように。
私は後ずさる。ガラス壁に背中が当たる。
映る式場。十六人が座っている。
最前列の端に、私がいる。こちらを見ている。目が合う。
座っている私が、ゆっくりと口を開く。
「全員、確認済み」
私は首を振る。
「違う」
座っている私は立ち上がる。椅子から離れる。
その席が、空く。空いた席が、こちらを見ている。
式場の空気が重くなる。電話が再び鳴る。私は出ない。
鳴り止まない。受話器を取る。
「全員、揃いましたか」
同じ声。私は震える声で答える。
「……まだです」
沈黙。
「残り一席です」
電話が切れる。私は椅子を数える。
十六。
数え直す。
十五。
また数える。
十六。
視界が揺れる。名簿を握りしめる。
ページを破ろうとする。だが、破れない。
紙は異様に厚く、指が滑る。
式場の灯りが暗くなる。椅子が一脚、ゆっくりとこちらへ滑ってくる。
私は動けない。その椅子が、目の前で止まる。
名札が、椅子の上に戻る。
私の名前。座れば、揃う。座らなければ、未定のまま。
式場の奥から、低い声が重なる。
「確認を」
私は、震える手で名札を握った。




