第三話 返事の遅れ
体育館に戻ると、会話は続いていた。
笑い声。相槌。缶を机に置く音。
どれもさっきと同じ――のはずなのに、どこかずれている。
俺が扉を閉めた瞬間、全員の視線が一斉にこちらを向いた。
「お、戻ったか」
田崎が言った。
その声に、ほんのわずかな“遅れ”があった気がした。俺が扉を閉める前に、もう言葉を用意していたような、奇妙な間。
「トイレ、混んでた?」
白川が聞く。
「いや……誰もいなかった」
そう答えながら、俺は円の配置を見た。
椅子は七脚。数は合っている。だが、やはり内側に、視線が吸い込まれる空間がある。
俺は自分の席に戻った。
座った瞬間、妙な感覚があった。
背中のすぐ後ろに、誰かが立っているような圧。振り返りたい衝動を、必死に抑える。
「さっきさ」
塚本が言った。
「高校出てから、初めて会うやつもいるよな」
「まあな」
志賀が頷く。
「卒業して、もう十年以上だし」
十年以上。
その言葉が、妙に重く響いた。
「でもさ」
塚本は続ける。
「俺ら、こうして集まるの、初めてじゃない気がしない?」
沈黙。
誰も否定しない。だが、肯定もしない。
「前にも、同じ場所で……」
塚本はそこで言葉を切り、首を振った。
「いや、なんでもない」
相原が彼を見る。
「お前もか」
「も、って何だよ」
相原は答えなかった。代わりに、床を見つめたまま、ぽつりと言う。
「名前、呼ばれた気がしたんだ」
全員の視線が集まる。
「誰に?」
田崎が聞く。
「分からない」
相原は額を押さえた。
「でも……確かに呼ばれた。俺の名前じゃない。別の、誰かの名前」
その瞬間、胸の奥が冷えた。
俺も、同じ感覚を覚えていた。
呼ばれている。だが、自分の名前ではない。
“そこにいるはずの誰か”の名前。
「やめようぜ」
白川が笑って言った。
「夜の学校だぞ。変な想像すると、そういうふうに聞こえるんだって」
笑い声が上がる。
だが、全員の笑い方が、微妙に違った。タイミングも、音の高さも、ばらばらだ。
俺は、そのズレに気づいてしまった。
――返事が、遅れる。
誰かが話しかけると、返事が返ってくるまでに、ほんの一拍の間がある。
まるで、誰かが先に返事をしていて、それを待ってから、自分たちが声を出しているみたいに。
「……なあ」
俺は意を決して言った。
「さっきの写真のこと、覚えてるよな」
空気が、張り詰めた。
「どの写真?」
田崎が即座に聞き返す。
「体育館で撮ったやつだ」
「七人の?」
「……切り取られてた」
白川が首を傾げる。
「切り取られて?最初からああいう構図だっただろ」
「違う」
俺は言った。
「肩と髪だけ残ってた。誰かが、そこに――」
「やめろ」
志賀の声は、低く、はっきりしていた。
「それ以上、言うな」
「なんでだよ」
「決まってるだろ」
志賀は唇を噛み、視線を逸らした。
「……思い出すと、ろくなことにならない」
その言葉に、全員が頷いた。
全員、だ。
誰一人として、「何のことだ」とは言わなかった。
「なあ」
相原が俺を見る。
「お前、さっきトイレ行ったよな」
「ああ」
「戻る途中、誰かに会わなかったか」
「誰も」
そう答えた瞬間、相原の肩が、わずかに落ちた。
――安堵だ。
なぜ、安堵する?
「じゃあさ」
塚本が明るい声を出す。
「写真、撮ろうぜ。せっかくだし」
「今?」
白川が言う。
「今しかないだろ」
塚本は立ち上がり、スマホを構えた。
「ほら、集まれ」
俺たちは舞台の前に並んだ。
七人。間違いなく、七人。
塚本がセルフタイマーを設定し、スマホを床に置く。
「行くぞー」
カウントが始まる。
「三、二、一――」
シャッター音。
その瞬間、背後で、かすかな音がした。
――椅子を引く音。
全員が、同時に振り返った。
円の内側。
さっきまで何もなかった空間に、椅子が一脚、増えていた。
誰も座っていない。
だが、座面がわずかに沈んでいる。
まるで、今、誰かが立ち上がったばかりみたいに。
「……誰が置いた」
田崎の声が震えた。
「知らない」
白川が言う。
「最初から、あったんじゃないか」
「違う」
俺は言った。
「さっき、数えた。七脚しかなかった」
「じゃあ――」
相原が言いかけて、言葉を飲み込んだ。
塚本のスマホが、床で震えた。
撮ったばかりの写真が表示される。
俺たちは、画面を覗き込んだ。
そこには、八人写っていた。
俺たち七人と――
円の中央に、背中だけを向けた、誰か。
顔は写っていない。
だが、制服の色も、体格も、確かに俺たちと同じだった。
誰かが、呟いた。
「……返事、遅れてたのは」
続きを、誰も言わなかった。
言えなかった。
体育館の中央、空席だったはずの場所に、
“最初からいた”存在が、ようやく姿を現しただけだと、
全員が、理解してしまったからだ。
そして俺は、はっきりと感じていた。
――次に、あの椅子に座るのは、誰か。
それは、まだ決まっていない。




