第二話 数が合わない
黒板に出席の丸をつけるとき、僕はいつも一瞬だけ間を置く。
三十人。このクラスの人数だ。
名簿の上から順番に目で追い、名前を呼ぶ。
「はい」と返事が返るたびに、丸をつける。
単純な作業だ。だが丸が三十個並んだ瞬間、なぜか胸の奥がざらついた。
「全員出席ですね」
学級委員が嬉しそうに言う。
最近は欠席が続いていたからだろう。風邪や腹痛で、二、三人抜ける日が続いていた。三十人揃うのは久しぶりだ。
「そうだな」
僕は笑って頷いた。
三十人。名簿上は確かに三十人いる。
だが、教室を見渡すと、どうしても“二十九”に見える瞬間がある。
数え直す。前から後ろまで、列ごとに視線を滑らせる。
一、二、三……。
三十。
やはり三十だ。
「先生、今日もかくれんぼしていい?」
休み時間、数人が机の周りに集まってきた。
ここ数日、校庭でのかくれんぼが流行っている。昼休みのわずかな時間で、校舎の影や倉庫の裏に隠れる。
「危ない場所は入るなよ」
「分かってるって」
子どもたちは軽い。
僕はその様子を見ながら、あの日の公園を思い出した。
全員見つかるまで帰れない。
あのときも、似たような声が飛び交っていた。
似たような夕方の匂いがしていた。
昼休み。校庭の端に立ち、僕は子どもたちを見守る。
「いーち、にーい、さーん!」
鬼の声が、校舎の壁に反射する。
子どもたちは散り、砂を蹴って走る。影に溶けるように消えていく。
僕は無意識に人数を数えた。
走り出した背中を目で追う。赤い帽子、白いシャツ、結んだ髪。
一、二、三……。
鬼を含めて、三十。
校庭は広くない。
それでも、建物の影に入ると視界は途切れる。
しばらくして、鬼が一人、また一人と見つけていく。
「見つけた!」
「うわー!」
笑い声が弾む。
捕まった子は鬼の横に並ぶ。
やがて、鬼が叫ぶ。
「あと一人!」
その声で、僕の背中がひやりとした。
あと一人。子どもたちが集まり、ざわつく。
鬼が再び走り出す。
僕は人数を数え直した。並んでいる子どもたち。
鬼。校庭の端で見ている子。
一、二、三……。
数は、合う。
三十。
「先生ー! 全員見つけた!」
鬼が誇らしげに言う。
集まった子どもたちも頷く。
「全員だよね?」
「うん、全員」
僕は視線を巡らせた。
確かに、円になっている。三十人。
なのに、円の内側が、少しだけ空いて見える。
誰かがそこに立っているはずなのに、焦点が合わない。
目を細めると、すぐにただの空間に戻る。
「……もう一回、数えようか」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
「えー、先生信用してないの?」
「ちゃんと三十いるよ」
学級委員が笑う。
僕は無理に笑い返し、もう一度数えた。
三十。
確かに、三十。
「……よし。じゃあ終わり」
その言葉を言い切るのに、わずかに力が要った。
子どもたちは一斉に走り出す。
校舎へ向かう背中がばらばらに散る。
僕は校庭に一人残り、さっき円になっていた場所を見つめた。
砂に足跡が残っている。重なり合った靴の跡。
その中に、ひとつだけ、少し小さな足跡があった。
数え直す。
足跡も、三十。
なのに、なぜか胸の奥が重い。
教室に戻ると、子どもたちは水筒を飲みながら騒いでいる。
「さっきさ、めっちゃギリギリだったよな」
「見つからないかと思った」
その言葉に、僕の心臓が一瞬止まりかけた。
「誰が?」
思わず聞くと、子どもたちは顔を見合わせた。
「……えっと」
「誰だっけ」
笑いが起きる。
「先生もさっき数えてたじゃん」
そうだ。僕も数えた。何度も。
三十。
全員出席。
全員見つかった。
なのに黒板の出席欄に目をやる。
丸が三十個並んでいる。
その一番下の丸だけ、なぜか少し歪んでいた。
僕が書いたはずなのに、見覚えがない形だった。
チャイムが鳴る。午後の授業が始まる。
「教科書開いて」
声はいつも通りに出た。
子どもたちはページをめくる。
僕は教卓の上に置いた名簿を、もう一度開いた。
三十人。
指でなぞる。
一人一人の名前を確かめる。
確かに、三十。そのはずなのに、頭のどこかで、
あの日の団地の公園が、夕暮れの色で蘇る。
全員見つかった。そう言った。そう言って、帰った。
放課後の校庭に、風が吹く。
窓の外で、誰かが小さく笑った気がした。
「先生」
ふいに呼ばれて顔を上げる。
前の席の子が、首を傾げている。
「先生も、ちゃんと数えてね」
その言葉に、教室の空気が一瞬だけ静まり返った。
僕は、笑うしかなかった。
「数えてるよ」
そう答えながら、胸の奥で、もう一度、ゆっくりと数え始めていた。
一、二、三……。




