第二話 空席
誰も、写真のことを口にしなかった。
あの切れ端が床に落ちてから、数秒――いや、もっと短い時間だったかもしれない。田崎が咳払いをして、まるで合図のように手を叩いた。
「じゃ、近況でも話すか」
その声は、少しだけ高かった。
誰も異を唱えない。さっきまで感じていた違和感が、無理やり押し込められていく。俺は床の黒い染み――いや、そう見えただけの場所から視線を外し、元の席に戻った。
椅子は冷えていて、背中に金属の感触が伝わる。
――あれ?
腰を下ろした瞬間、違和感が走った。
椅子の並びがおかしい。
体育館の中央に、丸く配置されたパイプ椅子。俺たちは向かい合う形で座っている。数を、無意識に数えた。
一、二、三、四、五、六、七。
七脚。
七脚しかない。
なのに――。
円の内側に、ほんのわずかな“余白”があった。誰か一人分、椅子が置かれても不自然じゃない程度の空間。最初からそこにあったのか、それとも今、気づいただけなのか分からない。
「……なあ」
俺が言いかけると、白川が被せるように話し始めた。
「仕事、どう?相原」
「まあ、ぼちぼち」
会話が流れ出す。意図的に、だ。全員が“普通の同窓会”を演じ始めているのが、手に取るように分かった。
塚本は結婚したらしい。志賀は転職したという。木村はまだ実家暮らしで、田崎は相変わらず営業だ。
話の内容は、どれもありふれている。
なのに、どこか噛み合わない。
誰かが話し終えると、一拍、間が空く。次に話し始めるタイミングが、いつも微妙に遅れる。まるで、もう一人の発言を待っているみたいに。
「そういえばさ」
相原が言った。
「俺たちのクラス、体育祭で揉めたことあったよな」
「揉めた?」
塚本が首を傾げる。
「そんな大事あったっけ」
「ほら、リレーの順番で……」
相原は言葉を探すように、宙を見る。
「……誰だっけ。すげえ文句言ってたやつ」
沈黙。
誰も答えない。
「いたよな」
相原は、少し苛立ったように言う。
「毎回、責任押し付けられてたやつ」
その瞬間、頭の奥が、ちくりと痛んだ。
映像が浮かびかけて、すぐ消える。誰かが、みんなの視線を一身に浴びて、うつむいている姿。だが顔が思い出せない。
「……知らないな」
田崎が言った。
「そんなやつ」
「俺も覚えてない」
志賀が続ける。
相原は口を閉ざした。納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。
代わりに、彼は椅子の配置を見回した。
「椅子、少なくないか?」
「は?」
田崎が怪訝そうに言う。
「七人だろ。ちょうどじゃん」
「いや……」
相原は円の内側を見た。
「なんか、余ってる気がする」
白川が笑った。
「気のせいだって。体育館広いからさ」
広い。確かにそうだ。
だが、その余白は、体育館の広さとは別の種類のものだった。意図的に残された、空白。
「トイレ行ってくる」
俺は立ち上がった。理由は自分でも分からない。ただ、あの円の中に座り続けるのが、耐えられなくなった。
体育館を出ると、廊下の蛍光灯がまばらに点いている。夜の学校独特の匂い。ワックスと埃と、少しの湿気。
トイレは、体育館の横にある。古いままの引き戸を開けると、中は薄暗かった。
用を足し、手を洗う。水の音がやけに大きく響く。
顔を上げたとき、鏡の中に、自分以外の影が映った気がした。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、鏡を見る。
俺の後ろ、ほんの少し離れた位置。誰かが立てば、ちょうど収まる場所が、妙に暗い。
――まただ。
俺は急いでトイレを出た。
廊下を戻る途中、掲示板の前で足が止まる。色あせた紙が何枚も貼られている。卒業生向けの古い連絡事項。その中に、写真が一枚、画鋲で留められていた。
集合写真。
体育館で撮られたものだ。制服姿の俺たちが、整列している。
七人。
……いや。
写真の端、やはりそこだけ、少し色が違う。切り取られた痕。
俺は息を呑んだ。
写真の下に、手書きの文字があった。
『同窓会は、七人で行うこと』
いつ書かれたものなのか分からない。チョークでも、ペンでもない、爪で引っ掻いたような文字。
背中に、ぞわりと寒気が走る。
そのとき、体育館の方から、笑い声が聞こえた。
七人分の声。
……いや。
一瞬、重なって聞こえた気がした。
八人目の、息を殺したような、低い笑い声が。
俺は写真から目を離し、体育館へと足を速めた。
戻らなければならない。
円の中に。
空席の理由を、まだ誰も口にしていないのだから。




