第1話 名簿
冬の夜は、校舎の輪郭を余計に誠実に見せる。
街灯に照らされた外壁は、塗り替えたばかりの白が冷たく光っていて、ガラス窓だけが昔のまま、ところどころ歪んだまま残っている。校門の前に立つと、吐いた息がすぐ白くなって自分の顔に戻ってきた。
ここは、俺たちの母校――明笹中学校だった。
「久しぶりだな」
背中から声をかけられ、振り向くと、黒いコートの襟を立てた相原がいた。学生の頃はいつも上着の袖を噛んでいたのに、いまは手をポケットに突っ込んでいる。
「こんなとこで会うの、変な感じだな」
「変じゃないだろ。ここで会うのが同窓会だ」
相原は笑った。笑ったはずなのに、目の奥が笑っていない。
校門の内側には、仮設の案内板が立っていた。「同窓会体育館」と黒い文字。誰が用意したのか知らない。先生が?それとも――。
校庭の砂は固く凍っていて、靴底が薄く音を立てる。体育館までの短い道が、やけに長く感じた。
体育館の扉は半分開いていた。中から、声が漏れている。笑い声、咳払い、椅子が擦れる音。懐かしいはずの音なのに、どれも少し遠い。
「おーい、遅いぞ」
入るなり、田崎が手を上げた。丸くなった頬に、学生の頃の面影が残っている。隣では、白川がペットボトルの水を飲んでいて、向こう側には塚本と志賀が椅子を並べていた。
そして、舞台の下で、木村が古いストーブのスイッチを探っている。
――七人。
俺を含めて、ここにいるのは七人だった。
「全員、来たか?」
田崎が言った。いつも仕切り役だったやつだ。結局、こういう集まりでは役割が変わらない。
「あと一人、遅れてるだけじゃない?」
白川が言うと、塚本が首を振った。
「いや。今日、来るのはこのメンツだけだろ」
「そうだっけ」
「そうだよ。田崎がLINEで言ってたじゃん」
言ってた。……はずだ。
俺はスマホを取り出して確認しようとしたが、画面がすぐ真っ暗になった。充電はある。なのに、指が滑ってうまく反応しない。
「先生、来ないのかな」
志賀が言うと、相原が肩をすくめた。
「担任の森下はもう定年だろ」
「だよね」
その会話の途中で、木村が「あ、これだ」とストーブを点けた。ボッ、と火が灯り、体育館の冷えた空気がわずかに揺れた。
そこに、紙の束が置かれているのに気づいた。
長机の上。体育館用の折りたたみ机。いつからそこにあったのか分からない。だが、誰も驚いていないみたいだった。
俺は近づいて、紙を覗き込む。
「出欠表だ」
相原が言った。
紙の一番上に、確かにそう書いてある。『明笹中学校平成◯年度卒業生同窓会出欠確認』。その下に、名前が並んでいた。クラス全員分ではない。今日集まるメンバーだけの名簿だ。
俺は指でなぞるように、名前を追った。
田崎出席
相原出席
白川出席
塚本出席
志賀出席
木村出席
――俺の名前出席
ここまでは、合っている。
だが、その下に、もう一行あった。
________欠席
名前の欄だけが、空白になっている。欠席の丸だけが付けられている。
「……これ、誰?」
俺が言うと、田崎が「ああ」と軽く頷いた。
「最初から空欄だったよ。気にすんな」
「最初から?」
「そう。用紙作ったときから。なんか、行が余っちゃって」
そんな理由で、欠席に丸を付けるか?
「でも、欠席って書いてある」
白川が覗き込み、眉を寄せる。
「誰の分だろうね」
塚本が、笑いながら言った。
「誰でもいいじゃん。幽霊の分にしとけよ」
その言葉に、全員が一瞬だけ止まった。
ほんの一秒。だが、体育館の空気が薄くなったみたいに感じた。ストーブの火が、弱く揺らいだ。
「やめろよ」
志賀が小さく言った。
塚本は「冗談だって」と笑ったが、笑い声が乾いている。
俺はもう一度、空欄を見た。
空欄なのに、そこに“誰か”がいる感じがした。視線が、紙の上からこちらを見返しているような。欠席に丸が付けられたその一行だけが、妙に濃い。
「……欠席って、誰が付けたんだろ」
俺が呟くと、木村がストーブの前から振り向いた。
「田崎じゃないの?」
「俺は付けてない」
田崎は即答した。
「だって、俺が用紙印刷したのは今日の昼だぞ。欠席の丸なんて、最初から付いてた」
「最初から?」
相原が、紙を取り上げて裏を見た。裏は真っ白だ。誰かが鉛筆で書き足したような跡もない。
「まあ、別にいいだろ」
相原はそう言って紙を机に戻した。
「こういうのって、どうでもいいことに引っ張られると、雰囲気悪くなる」
雰囲気。
たしかに、久しぶりに集まったのだ。酒もないし、豪華な料理もない。ただ体育館で会って、少し話して、帰るだけ。雰囲気を壊すほどの話でもない。
……ない、はずだ。
「じゃ、乾杯しよ」
田崎が言った。
「とりあえず。ほら、飲み物あるし」
誰かが買ってきた缶コーヒーとお茶。ペットボトルの水。体育館の片隅に、袋に入ったまま置かれていた。誰が持ってきたのか、誰も覚えていない。
俺は水を取って、キャップを開けた。手が少し震えていた。
「乾杯」
七つの容器が、軽く触れ合う。硬い音が体育館に響いた。
その瞬間、舞台の上から、コツ、と小さな音がした。
全員が同じ方向を見た。舞台の端、暗がり。そこに何かが落ちたような音。
「……何?」
白川が言った。
俺は椅子から立ち上がり、舞台へ近づいた。舞台の階段を上る。木の床は冷たく、足音がやけに大きい。
暗がりにしゃがみ込むと、床に小さなものが落ちている。
紙片。
いや、紙片というより、古い写真の切れ端だった。端が茶色く変色していて、糊の跡がある。
俺はそれを拾い上げ、ストーブの光の方へかざした。
写真には、体育館で並んだ制服姿の――俺たちが写っている。
……七人。
そう思ったのに、違った。
写真の端、切り取られた部分に、肩と髪の一部だけが残っていた。誰かの顔が、本来ならそこにあるはずだった。
切り取られている。意図的に。
俺の喉の奥が、冷たくなった。
「なにそれ」
相原が、舞台の下から見上げている。
俺は写真を持ったまま、言葉を探した。
この場で、言っていいのか。
“八人目がいた”なんて。
そのとき、田崎が笑って言った。
「ほらな。だから言っただろ。今日の同窓会は、七人でやるんだよ」
――その言い方が、妙に決まり文句みたいで。
まるで、誰かに言わされているみたいで。
俺の手の中の写真が、じわりと湿った気がした。
汗じゃない。水でもない。
写真の切り口から、冷たいものが滲んでいる。
俺は思わず写真を落とした。
床に落ちた切れ端が、体育館の暗がりに吸い込まれるように滑っていき、ストーブの光の届かない場所で止まった。
その場所だけ、床が黒い。黒いというより、深い。
見てはいけない気がした。
だが、目を離せなかった。
黒い床の上で、見えない誰かが、確かにそこに座っているような気配がした。
空席が、一つ分。
体育館の空気が、また薄くなった。
そして、遠くで、誰かが椅子を引く音がした。
――七人しかいないはずなのに。
俺の背中に、冷たい指が触れた気がした。




